8:文学にエアコンは必要か

 

 こうして、マスターにおすすめの本を教えてもらうようになってからというもの、俺の生活はますます〝余生一色〟に染まっていった。

 

「マスター、この本借りて行っていいですか?」

「あぁ、もちろん。それにしても、直樹君は本を読むのが早いねぇ」

「へへ、ずっと読んでるので」

 

 俺は暇さえあればブルーマンデーにある本を読んでいた。家に居る時はもちろん、授業中も、バイトの前も、そして後も。

 特に、マスターが「コレはコウが昔よく読んでいた」と言っていたものは、優先して手に取るようにしていた。その合間に、先生の更新するウェブ小説を読む。

 

 これは、いわば俺にとっての「余生先生研究」なのだ。

 

「余生先生の明るい話は、この暗い陰の部分があってこそ書けるものなんだろうなぁ」

 

 光を描くには闇を知る必要がある。闇が濃ければ濃いほど、光もまた強くなる。と、つまりはそういう事なのだ!

 

「俺も、余生先生みたいな小説が書けるようになりたいなぁ」

 

 俺は布団の上でボソリと呟くと、毎日二十時に更新される余生先生の光に満ちた作品の中へと没入していった。

 

◇◆◇

 

 そして、七月。

 気づけば、梅雨は明けていた。

 

 雨に代わって降り注ぐのは、容赦ない太陽の光。灼けつくような日差しの月曜日。俺は例によって月曜倶楽部の部室に顔を出していた。

 

「……あっつ」

 

 月曜倶楽部で本を読んでいた俺は、思わず声を漏らした。

 熱気で空気が揺れているようにすら見える。壁際には扇風機が一台、ジリジリと心許なく回っているが、もはや空気のかき混ぜ役にもなっていない。天井を見上げても、エアコンの姿はない。

 

(うそだろぉ……)

 

 同じ棟の金曜倶楽部なんて、冷房完備でアイスコーヒーまで出てくるというのに。

 

「……あの、花織先輩。なんで月曜倶楽部にはエアコンがないんですか」

「エアコンなんて、文学には不要だからよ」

 

 いやいや、必要だから!あと、文学関係ないし!

 この温暖化の爆速する日本で、冷房はもう「あればいいな」とかいうアイテムではない。むしろ必須な設備である。

 

 そんな俺の心の声など露知らず、今日も花織先輩は真っ黒なゴスロリ服に身を包み、涼し気な顔で手元の本に視線を落としている。

 見ているだけで暑そうなのに、本人は微塵も動じていない。俺を含めた他の部員たちは、額に汗をにじませ必死に集中力を繋ぎ止めながら本を読んでいるというのに。

 

「あの、花織先輩は暑くないんですか?その服……」

「いいえ、少しも暑くないわ。むしろ私は、あなたのその髪色のほうが見ていて堪らなくなる。まるで、地獄の業火に照らされたダンテの煉獄ね」

「ダンテ?」

 

 あれ、なんだっけ。どこかで聞いたことはある。たしか、爺ちゃんの本棚で見かけたような。

 

(あとで調べてみよ)

 

 このあいだのカントもそうだけど、自分で調べると関連図書がいくつも出てくるので、最近はちょっとしたカントブームが来ている。

 

 なんと、哲学者のカントは鉄壁のルーティンを持っていたらしく、村人たちからは「カントが通り過ぎたら正午だ」と言われていたらしい。だから、曜日ごとに七曜会を渡り歩く俺に対して花織先輩は「まるで、カントね」と言った、と。

 

 彼女の皮肉は学べることがいっぱいだ。

 

「あなたもダンテと同じね。身を焦がしながら、救いを求めて彷徨っている」

「……救い?」

 

 だとすると、ダンテも暑い部屋の中、クーラーを探し求めてもがき苦しんでいたのだろうか。だとすれば、それは今こそ俺が読むべき作品な気がする。

 

「ちなみに、ダンテの『神曲』なら図書館に置いてあるわ」

「ありがとうございます!」

 

 いつもの花織先輩の教養のたっぷり詰め込まれた皮肉を浴びながら、俺は彼女に指摘された自分の髪にそっと触れた。

 入学のときに染めたオレンジ色の髪は、少し伸びた毛先から色が落ちはじめ、今ではどこか黄色っぽく見える。しかも汗でしっとりとして気持ち悪い。

 

「あの……でも、ダンテは仕方ないかもしれないんですけど、他の倶楽部にはエアコンありますよ?金曜倶楽部なんてアイスコーヒーまでありますし」

「金曜倶楽部のような〝甘やかされた文壇ごっこ共〟と一緒にしないで。文学は汗をかいて読むものよ。そうでしょ?」

 

 え、そうなのだろうか。

 いくら花織先輩が知識豊富でも、それとコレとは関係ない気がする。むしろ、汗をかいて本を濡らすと紙が痛むし、やっぱりクーラーはあった方がいい気がする。

 

「エアコンの設置が無理でも、せめてエアコンのある部屋に移動させてもらうとか……」

「無理だよ、一年」

 

 いつも以上に頑なな花織先輩に、俺がさらに言い募ろうとした時だ。

 部屋の奥で本を読んでいた二年の先輩が、ページから目を離さずにぼそりと呟く。

 

「俺達月曜倶楽部は、京明の〝闇〟担当だからな。人気はないし、将来性もない。なのに日差しだけはやたら熱いっていう……まるで斜陽だよ、うちは。誰にも見つからない、夕暮れ前の文学の残照ってやつさ」

「えっと、それはつまり……?」

「金がない」

 

 なるほど、納得だ。なにせ部員の数は、金曜倶楽部の数十分の一。冷遇されるにはもってこいの要素が全て詰まっている。

 

「でも、だったら——」

 

 だったら、入学式の日にちゃんと新入生の勧誘をすればいいのに……と、喉まで出かかった言葉を、こちらも寸前で飲み込んだ。この文学至上主義の花織先輩が、笑顔でチラシを配る姿なんて、どうしても想像できなかった。

 

「それにしても、渡り鳥クン。最近やたらとうちに入り浸るじゃない。やっと気づいたのね。金曜倶楽部にいたらバカになるって。良かったわ」

「いや、ちがっ……そういうんじゃなくて。ここの本、ほんとにすっごく良くて」

 

 突然、花織先輩に予想外の話を振られ、俺は手に持っていた文庫本をぎゅっと抱きしめた。

 先輩の言う通り、最近の俺は、ほぼ毎日のように月曜倶楽部に入り浸っていた。真夏だというのに、クーラーもないこの部室に通い詰める目的は、ただひとつ。

 

「なんていうか、読むたびに言葉が胸に刺さるっていうか、ずっと残るんです。いま読んでるこの短編集も、この一節が……もうっ!」

 

 そう、月曜倶楽部に所せましと並ぶ、文学の名を借りた、鬱と絶望の見本市みたいな名作たちである。

 

「へぇ、どの部分?」

「ここ、ここですっ!あの、このページも!」

 

 ちょうど読んでいたページを開いたまま差し出すと、花織先輩はちらりと視線を落として、ふんと鼻を鳴らす。

 

「あら、分かってるじゃない。やっぱりあなた、悪くない感性してるわ」

「そ、そうですか!?」

 

 あの皮肉百パーセントの花織先輩に、まさかこんなに素直な〝お褒めの言葉〟を頂けるなんて!

 しかも、「だったらこれも読んでみなさいな。私の一番のオススメ」と言って、彼女は本棚から一冊の本を取り出した。

 

「花織先輩の一番好きな本……!」

「きっと、今のあなたならこの作品の良さを存分に感じる事が出来るはずよ」

 

 そうして差し出されたのは、乾いた砂のように色褪せたクリーム色の表紙に、無機質な黒い文字だけがぽつりと浮かぶ、シンプルなのに妙に重々しい本だった。

 花織先輩のセリフといい、この本の装丁といい。なんだか、新しい魔導書を師匠から授けられたような気分である。かっこいい!

 

「あなたの事だから、すぐ読み終わるでしょうし。次回はその作品の感想会でもやりましょうか」

「ぜひ!」

 

 両手で本を受け取りながら、こっそり笑っているのがバレないように、そっと視線を落とした。

 ……ふと、時計が目に入って、思わず固まる。

 

「あっ、やば。バイトの時間……!」

 

 スマホに表示された時刻を見て、俺は慌てて受け取った本をリュックに詰め込んだ。本を読んでいると、時間がどんどん吸い込まれていくからいけない。

 

「あなた、まだあんな場所でバイトをしているの?」

「あ、はい」

「あなた、渡り鳥のくせにあんなタバコの煙で煤けた場所に巣を作るなんて物好きね」

 

 背中越しに聞こえた花織先輩の皮肉に、俺は苦笑しながらドアノブに手をかけた。

 

「せめてマスクはしていきなさい。体に悪いわよ」

 

 なんだかんだ言いながら、先輩は優しい。それこそ、ちょっと世話焼きなお母さんみたいな。でもきっと、そんなことを思ってるのは、この京明で俺だけだろう。

 

「じゃあ、あの……いってきます」

「ええ、いってらっしゃい」

 

 俺は、ほんの数人しかいない月曜倶楽部の部室に手を振って、そのまま部室棟を後にした。

 

 いくら暑くてもここに来てしまう理由は、きっと本だけじゃない。

 そんなことを、俺はじんわりと感じながらパタパタと走り出した。