21:同日

 

 

 

 

 

 

 

伊中は腕を組んで、立ちはだかった。

誰の前に。

全身で戸惑いの色を露わにする、坂田 喜一の前に。

 

「…………似合ってるじゃないか」

 

数拍の後、やっとの事で坂田の口から発せられた言葉に、伊中は「そりゃ、どうも」と皮肉気に返事をしてやるしかなかった。

 

宮古と並んで立つこの状況下とは言え、顔を見た瞬間に「伊中?」と呟くように発せられた坂田の声に、伊中は少しだけホッとしていた。
こんな七色の訳の分からない頭になった挙句、蔦屋学園の制服に身を包む自身を一発で“山戸伊中”だと分かってくれるのは、きっと学校中探してもこの坂田くらいなものだろう。

たった5日ぶりとは言え、このまともな人間性を持つ彼を伊中は心から懐かしく、そして心地よく思った。
これは旅行から帰った後に感じる「やっぱり家が一番だね」という、あの感覚に似ている。

 

「伊中。5日間、羽は伸ばせたのか?」
「お陰で心も体も晴れやかだよ」
「そんな頭になるくらいだ、そうでなくては困る」
「……坂田よ、もう頭については触れてくれるな」

 

そう苦し気に言葉を放った伊中に対し、坂田は思わず笑った。それにつられて伊中も笑う。

このテンポでつらつらと話せる事が、どれだけ貴重な“当たり前”だったか伊中はやっと気づいた。
あのバカで愉快な十人十色の髪色達と過ごす日々も、確かに楽しく、時には喧嘩に巻き込まれたり、敵校に拉致されたりとスリリングな日々であったが、あれはたまに行く海外旅行みたいなものだ。休暇としては最適だが、別にそこに住みたいとは思わない。

 

やっぱり、伊中にとっては此処が一番だ。

 

「さて、坂田。昨日あった事を話してもらおうか」

 

ひとしきり自身の居場所のありがたさを堪能した伊中だったが、それもここまでだ。今日、この場所に伊中が来たのはきちんと目的があっての事だ。昨日の突然の校長への直談判からの、例の件の一転した認可の可能性への一連の流れを、坂田から聞き出さねばならない。
すると、坂田はそれまで伊中の傍に立ち、黙って二人の様子を見ていた宮古に視線を移した。

 

「い……じゃなかった。宮古、橘はどうした」
「まだ、返事こねぇな」
「まったく、あいつが来れば話は早いのだが」

 

隣で交わされる言葉に、伊中は思わず反応せざるを得ない固有名詞が登場するのを聞いた。

 

「たちばな?」

 

“たちばな”なんてありふれた苗字。けれど、それは今までずっと読んできた小説や漫画の登場人物のように、伊中にとっては聞き馴染みがあり愛着すら沸くものがあった。
そんな伊中に坂田は何も知らない顔で、ケロっと言い放つ。

 

「あぁ。昨日、校長に直談判した張本人だ。2年の橘 庄司」
「…………」

 

2年の橘 庄司。
そう、今坂田は言わなかったか。伊中はスッと呼吸が短いスパンで止まるのを感じた。
まさか、そう思い尚早な判断はよくないと、伊中は思考を一旦そちらから移す事にした。次に伊中は記憶の糸を辿る為に静かに目を閉じる。その記憶の糸の中に微かに記録されているのは、この学校の全員の顔と名前。

 

この現代日本において、同性同名なんてよくある事だ。ましてや“たちばな しょうじ”なんていう、そうそう珍しくもない名前はその最たるものであろう。
そうして、記憶の糸を最後まで辿りきるこの時までにかかったのは、ほんの一瞬に満たない時間だった。

山戸 伊中が紀伊国屋高校きっての希代の秀才と謳われる人物である所以がここにある。

 

「2年に“たちばな しょうじ”なんて奴は居ない」
「は?」
「何言ってんだ、伊中」

 

伊中の言葉に息を呑んだのは坂田と宮古、その両方である。しかし、宮古は余りにも衝撃だったのか、普段はなかなか見る事の叶わないほど感情を露わにし、伊中へと詰め寄ってくる。
伊中は初めて見る兄の姿に面食らいつつも、どうしたってその言葉に嘘も偽りも無い為「本当だよ」と返す事しかできない。

 

「なんなら、1年にも3年にも“たちばな しょうじ”なんて男子学生は居ないよ」
「っは、伊中。お前、そんな全校生徒の名前を覚えてるみたいに……」
「覚えてる」
「…………」
「覚えてるよ、俺は。一人残らず、全員」

 

伊中はまっすぐと自身の兄の目から視線を逸らす事なく答える。
そう、伊中は紀伊国屋高校の全ての人間についての情報を把握している。生徒一人一人の顔と名前はもとより、どんな人間で、何が得意で、どんな考えを持っている人物なのか。それら全てを頭の中に叩き込んでいる。

それも全て最初にこの【生徒会 裏 引継ぎ書】を手にした際に書いてあった“橘庄司の引継ぎ内容その1”に起因しての事であった。

 

 

———
【自分の能力や技術では解決できない問題に出くわした時の突破口!】

一発目なので、めちゃくちゃ簡単に書こう!
能力は外注しろ!またの名を「分からん事は得意なヤツに頼め」戦法!

 

自分は出来ないけれど、必ず出来る力を持ってるやつが回りには誰かしらいる!なにせ、この学校には自分以外に600人近くの人間が居るんだ!この狭い学校って箱の中にだぞ?

そりゃあ凄い事だよ!人材の宝箱だな!

 

しかし、問題はソイツを見つけ出す事だ。
特に自分が当たり前に出来る事に対して、人間っていうのは「この位誰だって出来る事だ。俺なんて大した事ない」なんて平気で思ってるから性質が悪い。よく言えば謙虚って事なんだろうが、それにしたって困ったもんだ。

 

まぁ、そういう奴の隠れた“得意”を見つけ出すのは骨が折れる。けど、絶対に今の悩みの答えを技術的にも、思考的にも手助けしてくれるヤツは居る。全てはお前が自分よりも“賢明なる人”をきちんと見つけ出せるかどうかにかかっている!

 

いいか?お前より賢明なヤツなんて山ほど居るって事を念頭に置いて、見つけ出したら全身全霊で尊敬しろ!お前のその能力が、凄い事だって、大したもんだって言ってやれ!分からせてやれ!

さぁ、それが分かったら、今から学校中を練り歩いて来い!

 

いってらっしゃい!
———

 

 

その文章を読んだ時、伊中は妙に感動してしまった事を覚えている。

最初、そのノートを先代の生徒会長から受け継いだ時『なんだ、このふざけたノートは』と、正直胡散臭く思った。
『【生徒会 裏 引継ぎ書】なんてダッサイ名前。ガキかよ』と、手渡されたその日はバックに仕舞い込んだまま開こうともしなかった。

 

けれど、先代が「これは絶対に他の奴らには見せたらダメだからな!」と、まるで大切な宝物のように語るものだから、新生徒会始動の1日目、誰も居ない生徒会室で、伊中はそのノートを開いた。

ちょうどそれは、生徒会長に選任されたばかりで、さてこれからどうしたものかと漠然と思い、伊中にしてはらしくない不安を抱えていた時でもあった。

 

『……はは』

 

伊中はそのページを読み終えた後、思わず笑ってしまった。
何をどうしようかという伊中の抱える不安を前に、この橘庄司という人物は急に現れた。急に現れたかと思ったら、伊中の背中を勢いよく叩いてきたのだ。

 

【さぁ、まずはお前よりも賢明なる人を探しに行こうか!ほら、行ってこい!】

 

そこからだ、伊中が校内中の生徒達の元を駆けまわるようになったのは。
橘庄司の言う通り、自分よりも賢明なる人は山ほど居た。そして更にその人間達は皆、自身の賢明さに欠片も気付いていなかった。

 

そういう人達に出会いながら、伊中は気付いた。
“賢明なる人達”は、その分野において、いつも自身よりも上を見ている、と。好きで、得意だからこそ、彼らの賢明さはいつも向上心と劣等感、そして嫉妬心にまみれている。

そんな彼らの賢明なる部分に対し、伊中は橘庄司の言葉を聞き入れるまでもなく彼らを尊敬せざるを得なかった。
出来ない事は外注しろ、頼れ、そして相手を敬え。

 

この生徒会が始まって僅か1年。
伊中は学校中のありとあらゆる教師、そして生徒全員と言葉を交わすという実は誰もがやった事のない偉業をひっそりと成し遂げていた。だからこそ、伊中にとっての全員の顔と名前が一致している、という事はさして凄い事でもなんでもなかった。彼はデータとして紀伊国屋高校の人間達を覚えている訳ではない。

出会い、会話し、友として、あるいは尊敬すべき師として、頭の中に入っているのだ。

 

「坂田、宮古。俺の言う事が信用出来ないなら、紀伊国屋高校の名簿を見てみるといい。その棚にあるから」

 

伊中は生徒会室の右側の一番端の棚を指さすと、ジッと二人を見た。しかし、それに反応し、棚へと足を運んだのは宮古だけだった。「そんな筈ない」と、小さな声で呟きながら棚へと手を伸ばし一冊のファイルを取り出す。

 

そんな宮古の様子を坂田は、どこか遠い目で見ていた。

伊中が紀伊国屋高校の全員の顔と名前を覚えている。それは坂田にとっても初耳ではあったが、それを疑う余地など、そもそも坂田にはないのだ。
伊中がどんな人物で、どんなに優秀か、彼はこの3年間嫌というほど隣で見て来た。そして、その優秀さが決して単純に頭が良いというだけではない事も、またよく理解していた。

 

「だったらアイツは誰だ?」

 

特に伊中の話を疑うでもなく、そう瞬時に切り返してくる坂田に伊中は有難くて笑うしかなかった。坂田は本当に理解が早くて助かる。彼もまた伊中の中では尊敬すべき“賢明なる人”の一人だ。

 

「そうだな……俺はたった一人だけならこの学校に居た“橘 庄司”という名前の人物を知ってる。それが二人の言う“たちばな しょうじ”なのかは分からないけど」

 

伊中は最初に自身の脳内で“尚早”と判断した最初の思考へと戻ってきた。
同性同名以前に、様々なあり得ない事象を含んだその思考だったが、それはそれで一旦検証して可能性を潰さねば先へは進めない。

 

「誰だ、ソイツは!?」
「ちょっ、なになに!宮古テンションおかしくない!?」

 

先程まで名簿に真剣に向き合っていた筈の宮古が、気付けば自身の真横に立っていた。真横で、しかも至近距離にその顔がある。あまり感情が表情には出ていないせいで、分かりにくくはあるが伊中にはハッキリと理解できた。
今、この宮古は大層焦っているのだ、と。

 

「伊中。宮古のテンションにはツッコンでやるな。仕方のない事だ」
「えっ、なになに?宮古と、その“たちばな しょうじ”は訳アリってこと?」

 

伊中は、カッと目を見開き若干血走った視線を寄越してくる宮古に、知らず知らずのうちに一歩後退っていた。今の宮古の姿は、ほぼ普段の自分と同じ姿かたちをしているにも関わらず、どうしてこうも恐ろしいオーラを身に纏わせる事ができるだろうか。

 

「伊中……教えてくれ。庄司は誰なんだ」
「しょうじって……」

 

しょうじ。
その名前を呼ぶ兄の声はその部分だけ、とても優しかった。そこには微かな信頼、友愛、焦燥、切望と、様々な感情が入り乱れているのが見てとれる。
その瞬間、伊中の頭の中に数日前に聞いた宮古の声が響く。

 

『今日だけじゃなくて、もうしばらく入れ替わるか?』
『あそんでた』

 

あの電話口で宮古は、いつも楽し気だった。まだ戻りたくない、遊んでいたいんだと。そう、まるで子供のように口にしていた。
あぁ、そうか。宮古はずっと。

 

「宮古はこの1週間、そのしょうじと遊んでたんだね」
「……うん」

 

そう、小さく頷く宮古の姿に、一瞬幼かった頃の彼の姿が重なった。幼い頃から口下手で、不器用で、他人から勘違いされやすかった兄。そのうちに徐々に他者に理解してもらう事自体を諦め、他人なんて面倒だと口を閉ざすようになった。
全てを自分の中に押し込め、自分さえ分かっていれば良いんだと、伊中にすら大事な事は言わなくなっていたのに。

 

「宮古の大事な友達なら、もちろん俺にも紹介してもらわないとね」
「…………」
「なに?俺には紹介したくないの?」
「…………」

 

今、目の前に立つ宮古は、子供の頃のように表情豊かに伊中に語りかけてくる。その顔には分かりやすく「お前には紹介したくない」と書かれていた。まるで、お気に入りの玩具を独り占めしたがっている子供のようだ。伊中に、弟に、取られたら嫌だと、その表情は言葉よりも明確に宮古の心情を物語っている。

 

「いいじゃーん!宮古だって坂田とめちゃくちゃ仲良くなってるんだから、お相子でしょう!?」
「坂田は伊中の事が好き過ぎて気持ち悪いから友達じゃない」
「宮古!お前余計な事を言うんじゃない!?そして、それはコッチのセリフだ!俺もお前は橘の事を好き過ぎて気持ち悪いから断じて友達ではない!」
「へぇ。なになに!ツッコミ所が多すぎてどこから手をつけて行けばいいか分からないんですけど!」

 

伊中は目の前で照れながらキレる坂田と、ふんと坂田からそっぽを向く宮古に、どこにどう手を付けていってよいやらと思わず楽しい気分になっていた。そして「十分仲良くなっているじゃないかと」小さな嫉妬をどちらともなく向けてしまう自分に苦笑するしかなかった。

 

「伊中も、あいつらに髪染めてもらったりして、仲良くなってるから……それで相子だろ」
「ふっざけんな!?この髪のどこにそんな友情を感じられるんだよ!?あいつらとは昨日限りで絶交してきたわ!」

 

このレインボーの髪色を指さし、謎の“お相子”カードを切ってくる宮古に伊中は「どこまで紹介したくないんだよ!」と肩をすくめるより他なかった。
ここまで、宮古が他人に執着するのは本当に珍しい。だとしたら、何がなんでもその“しょうじ”という友達を紹介してもらわねば。

伊中はニッと短く笑うと、気を取り直して宮古へと向き直った。

 

「まぁ、とりあえず。宮古のオトモダチのしょうじ君から、まだ連絡は来ないの?」
「……来ない。いつもはもっと早い」
「なら、仕方ない。ひとまず可能性はかなり0に近いけど、俺の知ってる橘庄司と宮古の友達のたちばなしょうじが同一人物か確かめよう」
「確かめるって……どう確かめる?伊中」
「ちょっと待っててね」

 

坂田のもっともな問いに、伊中は生徒会室の奥の棚へと向かいながら答えた。その棚には歴代生徒会の名簿とアルバムがある。

 

伊中はその棚を開けると1冊1冊、年度を確認するようにアルバムの背をなぞっていった。そして、ある1冊に辿り着いたところで、その指をピタリと止めた。その瞬間、思わず「あれ」と短い声が上が出てしまうのを止められなかった。その目当ての1冊だけ、他のアルバムよりも手前に出ている。
どうやら、最近になって誰かがソレを出して読んだようだ。

 

「(このアルバムを普段見る人間なんて、そうそう居ない筈だけど)」

 

しかも、ちょうど伊中の目当ての年度と被るなんて。
伊中は0に近かった可能性のパーセンテージが少しだけ上昇するのを感じた。
流れるような動作で、その1冊を人差し指と親指で取り出すと、伊中は近くにあったパイプ椅子に軽く腰かけた。

 

そんな伊中に、それまで黙ってその様子を見ていた坂田と宮古も傍へと寄ってくる。

パラパラと、アルバムのページをめくる音だけが生徒会室に響く。土曜日とあって、校内は普段よりも大分静かだ。グラウンドからはどこかの部活の練習する声や音が聞こえてくる。

 

該当のページを伊中が開く。

 

「これが俺の知ってる橘 庄司だよ」

 

伊中が静かに見つめるその先には、至極真面目な顔で写真に写る橘 庄司、その人が居た。

 

【紀伊国屋高等学校 第25代生徒会会長】
橘 庄司

 

橘 庄司は確かに十数年前、この学校の生徒だった。
生徒会長だった。

 

 

しかし、現在彼は“此処”に居る筈のない人物でもあった。

 

 

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