26:同日

 

 

 

 

 

 

 

 

山戸 宮古はニヤけていた。

 

そして、それがバレぬよう静かに右手で口元を覆う。

現在、宮古は伊中達と共に駅前の一番商店街の中にあるファミレスで昼食を摂っている最中であった。
圧倒的な男子高校生の食欲の元、グラタン、パスタ、かつ丼、ハンバーグという凄まじいタッグを組んだ料理たちをペロリと平らげた宮古は、未だにせっせと食事をする二人を黙って待っていた。

 

予約時間まではあと30分程度。
美容室はこの近所であるため、このペースならば余裕で間に合うだろう。

そんな訳で二人を待つ間、宮古は何気なく庄司からのラインを開いた。本当に、なんの意味もない。ただ、何気なく漫然と一番上にあった庄司とのメッセージルームを開いてしまっただけだ。

 

「(……なんの言い訳だよ)」

 

宮古は思わず自身へと突っ込んでしまったが、ともかく他意はない。そして、庄司からの新着メッセージがない事は分かっていたが、そのせいで今朝がた庄司から送られてきたメッセージが一番最初に視界に入る。

 

———-
俺も、早く会いたい
———-

 

 

その瞬間が冒頭の彼である。

食事中で、しかも隣に座る坂田と話しているとはいえ、目の前は弟の伊中だ。
伊中はとてつもなく勘が良い為、こんなニヤけた顔を見られたのでは、また先程のように「橘庄司から連絡でも来たの?」と問い詰められかねない。

あの時はどうにか美容室の予約を人質にその場の難を逃れたものの、もう伊中に図星を突かれたくない。これ以上、伊中相手に隠し事をできる自信はまるでないのだから。

 

「(ひとまず、今日どこで会うか決めとくか)」

 

そう、宮古が庄司に改めてメッセージを送ろうとした時だった。

 

「お前マジだっせーな!」
「オメーが言うなっての!」
「ぎゃははは!」

 

ファミレスの入口から、明らかに迷惑な大音量で会話しながら入ってくる若者数名が店内へと入ってきた。その途端、他の客も店員も一瞬迷惑そうな表情でチラと視線を向ける。しかし、声をかけて注意すると明らかに面倒が起きそうなタイプである事は火を見るよりも明らかだ。

故に、店内に居る誰もがその若者達からフイと視線を逸らしていく。
それは、伊中と坂田も同様で、一瞬だけ気を取られたようだったが、すぐに会話に戻った。ただ、どうしても響き渡る彼らのうるさい声に、店内の誰もがその胸中に多少の苛立ちを覚え始めていた。

 

そんな中、宮古だけは違った。

 

「(あいつら……)」

 

彼らは、そう見覚えがある。伊中と入れ替わった初日に宮古をコンビニ前でボコボコにしてきた者達だ。あの時見た制服からすると、彼らは紀伊国屋でも蔦屋でもない。

 

「(どこの制服だ?)」

 

思案してみるが、そこまで近隣校の制服事情に明るくない宮古では答えに辿りつけそうもなかった。宮古は小さく「どこでもいいか」と呟くと静かに席を立った。予約時間まであと20分という所だ。問題はない。
そうやって明らかに面倒事を起こそうとする宮古に、待ったの言葉をかけたのは伊中だった。

 

「ちょっ、宮古。や、め、ろ」
「何を」
「あいつらに何かする気だろ」
「うん」
「うんって……」

 

宮古がコクンと何でもない事のように頷くと、伊中は疲れたように溜息をついた。
そう、未だ宮古は伊中の姿を借りたままだ。その姿で乱闘など起こして、補導でもされようものなら困ると、そういう事だろう。

 

「大丈夫だ、ここからは出でやる」
「うるさいってだけでそんな怒らなくても」
「いや、前1万取られたから返してもらおうと思って」
「宮古、カツアゲされてたの?」
「……うん」
「まさか、これも橘庄司関係?」

 

またすぐバレた。宮古は心の底から「(なぜだ……)」と思いつつ、美容室の一件もあるせいかこれ以上突っ込んでこない伊中にホッと胸を撫でおろした。

 

「食ったら先に店行ってろ。ネイフトって名前だ。時間までには終わる」
「……宮古、ほんと。そこそこにするんだよ」
「宮古は何しに行くんだ?」

 

そう、箸を止める事なく尋ねてくる坂田に、宮古はどう答えたものかと思案した。
坂田は本当の宮古の正体を知らない。知らない事をわざわざ言う必要もないだろう。世の中には知らなくても良い事なんて山ほどあるのだから。宮古はそう結論付けると「さんぽ」と説明する気のない答えを残し、二人に背を向けた。

 

「今日ハロウィンじゃん!」
「なんかしようぜ!」
「金くれなきゃイタズラしちゃうぞ系でいくか!?」
「いいじゃんそれ!やろやろ!」

 

席についた今も尚、彼らの声は店中に響き渡っている。
あぁ、本当にうるさい。

 

「おい」
「あ?」
「ちょっといいか」

 

宮古はひとまず声をかけた。先ほどまで大声で話し込んでいた若者達の視線が一気に宮古へと集まる。宮古は気付いていないが、この若者達に迷惑そうな表情を浮かべていた客や店員の視線もまた、今や宮古へ一身に注がれていた。
圧倒的素行の悪い若者に立ち向かう、一見すると優等生を模したような宮古の姿は、それはそれは奇特で店内の空気を凍らせるには十分な行動だった。

 

「んだよ?なんか文句でもあんのかぁ?」
「……ちょっと表出ろ」
「ああ゛ぁ?」

 

ここで喧嘩をするなと伊中からのお達しだったが、どうやら誘い出し方を間違えてしまったらしい。彼らの内の1人が立ち上がり、既に臨戦態勢だ。
宮古がチラリと元々座っていた席を見てみれば、それはもう凄い形相でこちらを見ている伊中の姿が目に入る。

 

あぁ、どうすべきか。
宮古が思案し始めた時、彼らうちの一人が「あ!」と大声で宮古の事を指さしてきた。

 

「お前、こないだお金くれた1万円君のオトモダチじゃん?」
「おっ、確かにそうじゃん」
「あぁ、そういやあったなぁ。そんな事」
「ねぇ、俺達また金無いんだよねぇ」

 

そう、先に立ち上がっていた一人がニヤニヤと下卑た笑みを湛え宮古の肩に腕を回してくる。
宮古はその行為に思わず固く拳を握りしめた。正直、ここで全員殴り倒せば全てが終わって楽なのだが、視界の端に映る鬼の形相の弟はそれを許してくれそうもない。

確かにここで乱闘を起こした場合、間違いなく警察が呼ばれるだろう。もしかすると庄司にも会えなくなるかも。そこまで考えて、宮古は握りしめていた拳を一気に緩めた。

 

「……外出てくれたら、金渡す」
「へぇ、ここじゃ皆に見られて嫌ってか」
「ま、俺達もあんまりここだと派手に動けないからちょっと出ようか」

 

肩に手を回されたまま、いつの間にか宮古が連れて行かれるような形で店の入り口へと向かう。そんな彼らを、やはり周りの客や店員は無関心を装いつつ、しかし、その後の宮古の動向が気になるのか興味本位の視線をチラチラと向けていた。

 

「おねえさーん。すぐ戻ってくるから、あの席とっといてくださいねぇ」
「は、はい」

 

声を掛けられた店員もそれは同様のようで、面倒事はごめんだとでも言うようにチラリと目の合った宮古から勢いよく視線を逸らした。そうやって、店内の誰もが十分な興味を宮古へと向けつつ、表面的にはまったくの無関心を装う。
もちろん、誰一人として宮古を助けようとする者など居ない。

 

その様子に宮古は妙に“あの日”を思い出していた。

 

「(あの時と同じだな)」

 

宮古がコンビニ脇で、彼らから酷い暴力を振るわれていた時。
あの時も、誰もが宮古の事など見て見ぬ振りだった。帰宅中の紀伊国屋の生徒も、コンビニの店員も。
それを宮古は何とも思ってはいなかった。どうやってこの場を切り抜けようかと、そんな事をぼんやりと考えていたところに現れたのが、庄司だった。

 

『……えっと。お金、やるから。もう殴らないでやって』

 

あの日を思い出すと今でも笑えてくる。殴られていた宮古をかばうように現れたかと思えば、相手に1万円を渡し見逃してなどと言う。
庄司は決して宮古のように圧倒的強者ではないのだ。それなのに、あの時声をかけてきたのは他でもない庄司だけだった。

 

「そうだ、ハンカチも返さねぇと」

 

宮古がポツリと呟いた時には、いつの間にか宮古の足元には死屍累々な光景が広がっていた。
考え事をしていたせいで、いつどのように相手をこのような状態にしたのか宮古自身分からない。その位、骨のない連中であった。

 

「よわ」

 

この1週間、誰とも喧嘩などしていなかったが、体はしっかりと覚えていたようだった。
宮古は彼らに肩を掴まれ連れて来られた裏路地を、静かに見渡した。そこには足元で呻き声を上げる彼ら以外、誰一人居ない。
誰にも見られていないようで助かった。これで伊中にうるさく言われる心配もない。

 

「おい」
「っひ」

 

宮古は短い悲鳴を上げる一人の男に目線を合わせる為、その場にゆっくりと腰を下ろした。
どうやら、1人だけ意識を失わないように絶妙な力加減で殴っておいたらしい。宮古は自分の無意識に小さな賞賛を送ると、腰を抜かし立ち上がれぬまま宮古から距離を取ろうとする相手の髪の毛を乱暴に掴んだ。

相手の顔が非常によく見える。

 

「しかも、お前。庄司が1万渡してたやつだな」
「っす、すみません!すみません!」

 

目に涙を浮かべ表情を歪め謝り続ける相手に、宮古は「はぁ」と小さく溜息をついた。

 

「1万返せ」
「っい、いや」
「あの時の1万だ。さっさと出せ」

 

無表情。それは睨むとか怒りといった表情を浮かべるよりも、相手を多いに怖がらせるらしい。宮古の感情のない淡々とした口調に、相手は最早この世の終わりのような表情を浮かべるしかなかった。

 

「もう……持ってません」
「……はぁ」

 

だろうと思った。
宮古はその瞬間、相手の頭を片手で鷲掴みにすると、そのまま何の躊躇いもなく壁に叩きつけた。短い悲鳴の後、見事に泡を吹いて意識を失った相手に、宮古は倒れ伏す彼ら全員のポケットからそれぞれ財布をゴソゴソと抜き取る。
そこには、一見黒髪の優等生が不良達の屍から金品を奪い尽くすという、最悪の絵面が出来上がっていた。

 

「ご、ろく、なな、はち……」

 

全員の財布から一旦一枚ずつお札を取り出してみる。そして、地面に千円札を順番に並べてゆっくりと数えていった。お札8枚。まぁ、かき集めたとしては悪くない。あと、全員分の小銭を手のひらに乗せ同様に「いち、に、」と数え始めた宮古は、数えるのに夢中になり背後から近づいてくる男に気付かなかった。

別に、その後宮古は毒薬を飲まされ体が縮んだりはしなかったものの、声をかけられた瞬間宮古の心臓は大いに縮まってしまった。

 

「キミ、こんな所で何をやっているんだい?」
「っ」

 

あぁ、嫌に聞き覚えのある声だ。
壊れかけた古い機械のような動きでゆっくりと宮古が振り返ると、そこには“あの日”宮古を追いかけまわした警官の姿があった。

 

「キミは……あの時の紀伊国屋の……?」
「……いや」

 

しかも運の悪い事に相手もこちらを覚えているようだ。
宮古は一瞬にして次、自分が何をせねばならないか判断すると、札と小銭を自身のポケットに素早く仕舞い脱兎の如く駆け出した。その拍子に、小銭のいくらかが落ちたような音がしたが、それを拾いに行く程宮古も愚かではない。

 

「待ちなさい!」

 

あぁ、どうして今日はこうも立て続けにデジャビュに襲われるのだろうか。そう、“あの日”もこうして警官に追いかけられた。
宮古はあの時のように、一欠片も捕まる気のしない余裕の気分の中「ははっ」と短く笑った。今日はなんだか笑える。昨日までの落ち込みなど、もうまるでない。

宮古は余裕で走り抜けながら、携帯を片手に起動させた。こんな時に一体何をしようというのか。宮古は自分で答えが分かっているにも関わらず、状況と自身の行動の不一致さに、またしても笑った。

 

——-
俺も、早く会いたい
——-

 

画面に映る今朝がた庄司から来たメッセージ。
そのメッセージをこうして何度もみてしまう。こんな警官との逃走劇の最中でさえ。
しかし、ちょうどその時、庄司とのメッセージルームにまた新しい短いメッセージが追加された。

 

———
↑のメッセージ、ハズいから反応するか消すかして
———

 

その画面に映る文字に、宮古は更に駆けるスピードを上げると、短く返事を打った。

 

——–
いや
——–

 

宮古はちょうど良いと、警官が若干追いつくようなペースまで歩を緩め、内カメラを起動して1枚写真を撮っておいた。走っているせいで写真はブレブレだが、警官も写りこんでいるし、そのブレこそが逆に臨場感を表していて良い味を出しているのではないだろうか。

 

宮古はその写真をすぐさま庄司へと送信した。

本当は庄司からの反応を待っていたいのだが、写真を撮るために緩めたペースのせいですぐそこまで警官が迫っている。宮古は名残惜し気に携帯をポケットに仕舞うと、これまでとは打って変わって一気に走るスピードを上げた。

宮古のその走りは、どこかごきげんなスキップのようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橘 庄司は歓声を上げた。

 

「「「「おわったぁぁぁぁ!」」」」

 

17時。市内某所ビル。

そのビルのオフィスの1室で、まるで高校生の体育祭や文化祭の準備を今しがた終えたようなテンションの大人達の歓声が大きく響き渡った。しかし、中には歓声を上げる事なく机上に突っ伏して動かなくなった者も居る。

 

庄司は今のところまだギリギリ20代という事もあり、致した行動としては前者の歓声の方であった。しかし、体力的には今にも布団に倒れ伏したい気分ではある。何徹もして遊び回っていた20代前半と今では、何がどう違うというのだろうか。
これが確実なる“老い”というものか。

 

「やっと、やっと…」

 

一時は最早無理かと思われた顧客全員分の控除証明書の封入封緘作業は、今、こうして無事全てを終える事が出来た。

これで明日、無事に全て郵送に回せる事だろう。

 

「さて、さっさと片づけて帰りましょうか」

 

庄司はやり遂げた感動もそこそこに、誰よりも早く段ボールに封をし始めた。やる事はやったのだから、早くここから出なければ。外を見ると17時を回ったばかりだというのに、既に薄暗い。
さすが、明日から11月だ。

庄司は自身の携帯を立ち上げると、そのまま伊中とのメッセージルームへと飛んだ。飛んだ瞬間、何故かブレブレの写真の中で警官から追いかけられる伊中の姿。

 

「ぶはっ」

 

何度見てもこれは笑うしかない。これは一体どういう状態だよと心底ツッコミたい気分だったし、実際メッセージでも「何やってんの!?」と突っ込んだ。しかしその庄司のツッコみに対し、伊中からの答えはハッキリ言って意味がわからなかった。

 

———-
8542円しかなかった。ごめん
———-

 

「何が?」とはもう聞かなかった。否、聞けなかった。封入封緘作業はそこから苛烈に佳境を極め、最後は皆一刻も早くこの作業を終わらせてやるという使命感で、心を一つにしたのであった。
そのお陰もあって17時という、比較的予想より早い時間に全てを終えることができた。人間、やろうと思えばなれるものである。

 

——–
18時に金平亭に集合
———

 

そう、庄司が手早く伊中へのメッセージを打ち込んだ時。先ほどまで屍と成り果てていた部長の日比谷が急に体を起こした。

 

「飲み行くぞ!今日は私が全額持つ!!」

 

その瞬間、営業部全員から歓声が沸いた。皆、一つの困難を乗り越えたという一体感により既に酩酊状態になっているようだ。普段なら部長の飲みの誘いなど、足蹴にする女性陣もこの時ばかりは「全額私が持つ!」という熱い部長の男気により「日比谷部長サイコー!」などと調子に乗せる始末。

 

正直、こんな作業を終わらせ明日からまた1週間という状態で、何故に皆こんなに元気なのか一切の理解に苦しむところだ。日比谷などはつい先日50代に入ったばかりなのだから、早く帰っていち早く寝ろといいたい。人間これまで生きて来た人生の中で、今が最も年老いている瞬間なのだから。

 

「あ、俺は予定あるんで失礼します」

 

庄司は何かと突っ込まれる前に、そそくさとコートを羽織り鞄を持った。

 

「ちょっ、ちょっ!空気!空気!」
「いや、こんな有休中の休日出勤に応じただけでも空気読んだと思いますよ、俺」

 

日比谷の悲壮感漂う呼びかけに、庄司の一切の心は揺るがない。他の日ならばいざ知らず、今日はこれから伊中に会うのだ。ポケットの中の携帯が震える。あぁ、きっと伊中からの返事に違いないだろう。

 

「せめて一杯だけでも!ね!?」
「そうですよ、日比谷部長の奢りですよ!?」
「いや、だから俺。この後予定あるから」

 

同僚達からの呼びかけに、半分携帯を見ながら庄司は答える。やはり伊中からの返信だ。『了解』と一言だけきたメッセージに、庄司はすぐに携帯をポケットへと仕舞い込んだ。
その庄司の様子に、ぶーぶーとブーイングを上げていた同僚達の一人が口をついて叫んだ。

 

「もしかして!彼女か!?恋人か!?」
「え!?橘さん、恋人居たの!?」
「確かに今日、何回もニヤニヤした顔で携帯見てましたもんね!」
「オメデトウ!」

 

ワラワラと周りに群がりだす同僚達。刻一刻と迫りくる電車と約束の時間。そして、そんな同僚達の後ろでは「結婚式のスピーチはもちろん私に頼むんだよ」と、スピーチ権を確保してこようとする上司の日比谷。

庄司は分かっていた。
この同僚達に、果ては上司までもが、庄司に恋人という存在が居るとは本気で思ってはいない事を。そう、この「橘さん、ソレって恋人ですか?」ネタはよく飲み会で庄司を最大限イジる時に使用してくる鉄板中の鉄板ネタだ。庄司が異性に圧倒的にモテない事などは、この部署では皆が把握済だ。

 

「(コノヤロウ)」

 

否、モテないのではなく、それ以前の問題なのだ。
庄司は異性相手で、かつ相手との立ち位置が恋愛へ移行してしまうと、途端にデクの坊になる。それはもう緊張し過ぎてしまい、仕事でのように流暢に話せなくなってしまうのだ。

それもこれも、高校時代初めて出来た彼女に「庄司君って、学校では面白いけど二人の時はめっちゃつまんないよ」と裏で友人達に盛大に話しているのを偶然聞いてしまい、挙句の果てにその次の日にフラれた事の後遺症と言ってよかった。

 

しかも、以前この話を酔った勢いのまま飲み会で話してしまったせいで、今や会社中に広まってしまっているのだからたまらない。蛇足だが、この高校時代のしょっぱい思い出は日比谷の庄司お気に入りエピソードその1でもあった。

 

「(……コノヤロウ)」

 

庄司は「ふう」と、疲れ・焦り・煩わしさその全てを吐きだすように深く息を吐いた。

 

「橘先輩!彼女さんってどんな人ですかー!?」
「……ひみつ」

 

そう、庄司はその一言と共に意味深にニコリと笑うと、ひらりと上着をなびかせて同僚達に背を向けた。いつもならば、ここで庄司が架空の彼女についてペラペラと口八丁手八丁で語るのだが、そんなサービスしてやる暇はない。

正直、有休最後の2日間を潰され、庄司とて腹が立っていない訳ではないのだ。
庄司は後ろで手に戸を閉めた向こうから「マジで!?」と大騒ぎし始めた同僚達に、小さくほくそ笑むとそのまま勢いよくビルの階段を駆け下りた。

 

エレベーターを待つなんて今は出来そうもない。ちょうど、走りたい気分だ。走ってやろうではないか。
庄司は少しだけフラつく体を支えながら、6階分の階段を駆け下りた。途中、膝に痛みが走ったが、そんな老いの片鱗など今は無視だ。

痛む膝を抱え、事務所から勢いよく飛び出した庄司は急いで駅へと向かう。駅へ近づくにつれて、どんどん人間の数は多くなっていく。その誰もが、普段ならしないような面白おかしい恰好で楽し気に写真を撮り合ったり、騒ぎ立てたりしている。

 

「あぁ、そうだよな」

 

庄司は知っている。

 

「今日がハロウィンか」

 

格好を変えただけで少しだけ気持ちが大きくなる事も、酩酊したような気持ちで思いもよらぬ行動を起こせる事も、普段とは違う自分になれたような気になれる事も。
庄司は全部、全部もう知っている。

もう制服は着ていないけれど、もしかしたらこのスーツ姿だって本当の庄司の中の1つの仮面に過ぎないのかもしれない。そうなのだとすれば、この格好の庄司も、最早ハロウィンの仮装の1つとして捉えてもなんらおかしくはない筈だ。

 

庄司は集団が向かう駅の方向へと軽い足取りで駆け出した。
今、庄司は初めて29歳、サラリーマンの“橘 庄司”として、伊中に会いに行く。これもまた、一つの仮装だよと笑って言ったら、彼は受け入れてくれるだろうか。

まぁ、受け入れてくれるかは置いておいて、庄司の心は何故か高校生の制服を身に纏っていた時同様、とても、とても軽やかだった。

 

 

 

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