その6:夢を見たものの

 

今まで喧嘩もいっぱいしてきたよな。

 殴ったり、蹴ったり、お互い酷い事言い合ったり。

 けど、どんなに喧嘩しても次の日のはいつも通り普通に戻ってた。

 だから、あの時だっていつかは仲直りできるだろうって密かに思ってたよ。

 

 

いや、思ってたって言うより。

 そう、信じたかったんだろうな、俺は。

 

 

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その6:夢を見たものの

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『お前、ウゼェんだよ』

 (え……)

『いつまでも幼馴染だからってくっついてきてんじゃねぇ!』

 (一郎、どうしたんだよ……)

『お前と一緒に居るとこ、他の奴に見られたくねぇんだよ!』

 (っ!)

『わかんねぇのか。恥ずかしいんだよ、お前』

 

 (……一郎)

 (なぁ、一郎)

 (お前は、俺と一緒に居るのを嫌だと思ってたのか?)

 (恥ずかしいって、そう思ってたのか?)1

 (答えてくれよ、一郎)

 

 

                      ◇

 

 

「けーたろ!宿題持ってきた!」

 そう言って勢いよく教室に飛び込んできたイチローの声で、俺は深く落ちかけていた意識を一瞬にして覚醒させた。

 ヤバい。どうやら、俺はいつの間にか寝てしまっていたようだ。

 俺は未だにボーッとする頭に手を当て、教室に居る自分の状況がイマイチ理解できずに辺りを見渡した。目に映るのは見慣れた教室。そして、目の前に立つのは、更に見慣れた俺の幼馴染の姿。

 あれ、俺、何で教室で寝てたんだっけ?

「あれ!?けーたろ!どーしたんだよ!?」

「は……?」

 どこかぼんやりしていた俺に、目の前に立っているイチローは驚いたような顔で首をかしげた。

「けーたろ?何で泣いてるの?なんかあったのか?」

「泣い……は?」

 俺はイチローに言われるがまま顔に手をやると、そこには確かに俺の涙と思われる雫が頬を濡らしていた。しかも、泣いていると自覚すると、止まっていた涙が急にまた流れ始めた。

 一体、俺はどうしたと言うのだろうか。

 俺がボロボロ流れる涙を勢いよく拭っていると、手に漢字ドリルと計算ドリルを持ったイチローが慌てたように目の前で焦り始めた。俺はと言えば、自分の机の上にある宿題の山と、イチローの持つ2冊のドリルに、やっと自分が此処に居る経緯を思い出した。

 俺はイチローが宿題を持ってくるのを待っていたのだ。

「けーたろ?何で泣いてんだ?お腹痛いのか?怖い夢見たのか?大丈夫?」

「あ、いや……えと」

 俺は未だに少しだけ混乱した気持ちを抱えたままイチローの問いにコクコクと頷くと、泣いてしまった事に少しだけ恥ずかしさを感じた。

そう、俺はこの2回目の人生で人前で泣く事など殆どなかった。

 生きた年数で数えると既に俺は25歳という年齢を迎えるせいか、見た目が子供といえど、人前で泣く事は憚られてきたのだ。

故に、イチローは俺の余り見る事の無い……と言うか見た事のない俺の涙に酷く動揺しているようだった。というか、俺は何故泣いていたのだろう。。

 なんか、夢の中で一郎が居たような。

 夢?

 俺は先程まで全身を強張らせていた声の正体を思い出して、やっと涙の訳に思い至った。

 そう、イチローの言う通り、俺は

「怖い夢をみた……」

「怖い夢かー。どんな?」

 涙も止まり、冷静な声で答える俺にイチローも大分落ち着いたような表情で俺の前の自分の椅子へと座りこんだ。

 どんな夢。確かあれは一郎の夢、だった。そう、あれは夢というより、俺の記憶。遠い過去の現実で起こった出来事だ。

「一郎が、俺に近寄ってくんなってキレてくる夢」

「えぇぇ!?俺!?俺そんな事言わないよ!絶対言わない!」

「あー、あぁ。そうだよな」

 いや、一郎ってお前の事ではないのだが。

 と言っても、イチローにそんな事言ったって話がややこしくなるだけなので、何も言わない。俺は先程、脳内で反芻していた一郎のセリフを思い出し苦笑すると「そうだよな」と言ってもう一度ゴシゴシと目元を擦った。

「ほら、イチロー。宿題」

「あ、そうだった!」

 そんな風に俺がいつもの調子で言ってやると、イチローもすぐに調子を取り戻したように笑顔になった。単純な奴だなぁ、とイチローを見て思いつつ、俺の感情にここまで同調してくれるイチローに、俺は先程の夢の余韻を忘れてほっこりしてしまった。そうして現実世界でのやりとりの中で、俺は先程の夢の世界が徐々に遠のいて行くのを感じた。

「よし、これで全員分だ」

「ふー、間に合ってよかった!」

「だな。じゃ、丁度時間だし、俺はこれを先生のとこに出してくるけど……、イチローはどうする?」

「俺は、けーたろ待ってる!そんで今日はお昼をけーたろん家で食べます!」

「は?なんで俺ん家?」

「なんとなく!」

 そう言ってニコニコと笑うイチローに、俺は袋ラーメンが2袋もあったかなぁと考えながら、とりあえず頷いておく事にした。まぁ、足りなかったら店に買いに行けばいい。

「あぁ、まぁいいけど……ラーメンしか作れないぞ?それにお前、そう言うのちゃんとおばさんに言って来てんのか?勝手にうちで食べたら、また怒られるぞ」

「ダイジョーブ!!帰った時、けーたろん言え食べるって言ってきた!」

 あぁ、なんてぬかりない奴だろう。そして、コイツの中では最初から昼は俺の家で食べる事は決定事項だったという事か。

 一応事前に俺に確認しとけよ、と思いつつ俺はイチローの言葉にはいはいと頷いておいた。

 なんだかさっきの夢のせいで、一人で昼ごはんを食べるのはなんだか気が進まなかったのだ。

 丁度良かったと言えば丁度いい。

「ん。ならいいや。じゃあ、ちょっと待っててよ。すぐ渡してくるからさ」

「へーい!」

 俺はそう言ってブンブン手を振って来るイチローに背を向けると、27人分の薄いドリルを両手に抱えて教室を出た。

 時刻は13時。

 学活が終わって大分経つせいか、どの教室にも人の気配はない。

シンとした校舎内で本格的に鳴りだしそうな腹に、俺は少しだけ力を込めると足早に廊下を歩いた。

「……恥ずかしい、ねぇ」

 知らず知らずのうちに口からこぼれていた言葉に俺は先程の夢を思い出すと、また緩みそうになる涙腺に頭を振った。

 あぁ、もう。25歳にもなって夢くらいで泣くなんて。いや、一応身体的にはまだ10歳だけど。

 だいたい、一郎が現れてから、仕方ないとは言え、やたらと昔の事を思い出してしまって困りものだ。

 良い思い出ならいいさ。けれど、どんなに頑張ったっていい思い出だけの人生など歩めるはずない。嫌な思い出だってたくさんある。ずっと一緒に居た一郎とは特にその傾向が強い。良い思い出も共有してきたし、もちろん悪い思い出だって共有している。

 そう。あれは、一郎の夢だった。

 一郎が、俺を拒絶する夢。

 中学に入って、俺とあまりつるまなくなって、素行が悪くなって、学校にもあまり来なくなった一郎。それでも、俺はあの瞬間までは一郎は俺の幼馴染で、俺達の関係は変わらないものだと思っていた。

 しかし、それは大きな間違いだった。

 どんな状況だったかは余り詳しく覚えていないが、久しぶりに会った一郎に俺はバッサリと関係を断ち切られたのだ。

そう、あの夢は俺が一郎に背を向けられた、あの日の夢だった。

「あー、もう止めだ、止めだ!考えてるとテンション下がる!」

 あの瞬間、奴と俺はあの瞬間一度、幼馴染という関係から他人へと一気に距離が遠のいたのだ。

きっと不良と化したアイツには、平凡で目立たない俺という存在が、きっと小さく、みっともなく見えていたに違いない。

 だが、それももう過去の事だ。

 俺はやっと辿り着いた職員室を前に、フゥと息をつくとそのまま床に宿題を下ろした。さすがに両手が塞がった状態で扉を開ける芸当は、この細っこい腕をした非力な小学生にはできそうにない。

 さっさと一郎に宿題を渡して、昼飯でも食べるか。

 俺がそう思って、職員室の扉に手をかけた時、中からヒステリックな叫び声が俺の鼓膜を揺さぶった。

「野田先生!」

 野田先生?あぁ、一郎か。

 職員室の中から突然響き渡ってきた大きな声に、俺は扉を開けようとしていた手を反射的にひっこめた。そして、そのまま小さく溜息をつく。

 あぁ、一郎のヤツ。先生になっても怒られてやがる。

 俺はうんざりした気分で、とりあえず黙ってドアの前で怒声が止むのを待つことにした。

 ジクジクと続く一郎への説教。聞いてみれば、その内容は説教と言うよりお小言に近いようだった。

 一郎のヤツ、また目を付けられている。そう、「また」だ。

 俺は黙って職員室の前に立つと、中から聞こえてくる長ったらしい小言を聞きながらそんな事を思った。

 一郎は目立つ。

 その整った容姿もさることながら、その堂々とした立ち居振る舞いは子供のころから同級生には憧れの的であった。しかし、それは同じ立場に立つ人間から見た感情であり、必ずしも万人受けする目立ち方ではなかったのだ。

 特に、一郎の堂々とした姿は(まぁ、不遜とも言うかもしれないが)全くもって年上受けするモノではなかった。

 故に、目を付けられる。

「野田先生、あなたちゃんと聞いてるんですか!?」

 俺が一郎への説教が終わるのをぼんやりと扉の前で待っていると、今までより一際大きな声がドア越しに響き渡ってきた。その瞬間、俺の中の何かが警報を鳴らした。

 

――あ、ヤバいかも。

 

 そう言えば、先程から説教者の声はずっと聞こえているが、一郎の声は一切聞こえてこない。俺は全く聞こえてこない一郎の声に少しばかり背筋を伸ばすと、説教中である事も忘れて職員室のドアに手をかけた。

 一郎は不機嫌になったり、キレたりする直前、必ず静かになる。

 それはもう嵐の前の静けさのように。

 そう、今現在がまさにソレだ。

 あぁ、もう面倒なヤツ。

 俺は半ばヤケクソになりながら、怒鳴り声の響く扉にかけた手へと力を込めた。

「失礼します!!」

 俺が勢いよく職員室の扉を開けて叫ぶように言うと、中に居た職員達の視線が一斉に俺の方へと向けられた。

 もちろん、その中にはお説教の真っ最中だった一郎の視線もあった。その顔は、昨日までの不機嫌そうで苛立ったようなソレではなく、ただ本当に目を見開いて心底驚いているという表情だった。そういう顔を見ると、この一郎は本当に俺の幼馴染だった、あの一郎なのだと思い知らされる。

 そんな一郎の表情に、俺は勢い込んで職員室に入って来た甲斐があったと思った。今の一郎は、突然現れた俺にただひたすら驚いている。驚きが勝って先程まで、きっとその顔に宿されていたであろう凶悪な顔はなくなっているのだ。

俺は扉を開け、床に置いたままにしておいた春休みの宿題ドリルを抱えると、視線の集まる状態の中、何食わぬ顔で職員室に入り込んだ。

 

 俺は小学生、俺は小学生、俺は小学生。俺は空気など読めない子供。

 刺さる視線に俺は全く周りの状況など関知してないし、できませんよ、と言う態度を崩さぬまま、ポカン顔でこちらを見つめる一郎の元へ足を進めた。

 ダラダラと流れる冷や汗を背に、俺は一郎を怒っていた笹渕教頭の脇をするりとすり抜けると、今の状況で俺が出来うる限りの子供っぽい表情で一郎を見上げた。

「先生!宿題、持ってきました!」

「……あ、あぁ。ありがとうございます」

 未だにポカンとした顔が戻らない一郎に俺は一瞬吹き出しそうになるのを堪えた。何だよもう。この驚いた時の顔は間近で見れば見る程、昔の一郎のままだ。

 俺は大人になっても変わらぬ一郎のその姿に懐かしい気持ちになると、そのまま少しだけ、本当に小さな気まぐれが俺の中に芽生えた。

 

――一郎、負けるな。

 

「先生!昨日、放課後に教えて貰った算数の問題、凄くよくわかりました!でも、今日もまたわからない問題があったので教えて貰っていいですか?」

「……は、算数?」

「はい!昨日の先生の説明、凄く分かりやすかったので今日も教えて欲しいです!教室に問題があるので、先生、また教室で教えてください!」

 突然の話に戸惑う一郎に、俺は更に大きな声で口を開いた。そりゃあもう、職員室中に、俺の声が響き渡るように。

 

「俺、先生が新しい担任の野田先生で本当に良かったなぁ!」

――頑張れ、一郎。お前、先生なんだろ?

 

俺の言葉に一瞬、今までにない位大きく目を見開いた一郎は、そのまま俺の目をジッと見つめていた。

 何でお前が怒られているのか、俺は知らない。けれど、せっかく何かの縁でまたこうして会えたのだ。あんまり幼馴染の怒られている姿なんて、見たくないよ。

 

「先生。算数、教えてくれますか?」

 

 再び響き渡った俺の声に、一郎はすぐに意識を取り戻すと戸惑った表情のまま……しかし、薄く口元に笑みを浮かべて「いいですよ」と頷いた。その言葉に、俺はなんだか胸の中につかえていた何かがポロリと音を立てて取れたような気がした。そして、後からジワジワくる、よくわからない気持のワクワク感。

次の瞬間、俺は周りの教師からの視線とか、教頭の呆気にとられた顔とか、そういうのは全部忘れて、心の底から思い切り笑っていた。

「ありがとうございます!先生!」

《ありがとう》そう、心の底から俺は一郎に対して思っていた。一郎の「いいですよ」という言葉と笑顔が、俺の言葉に乗せた別の想いを汲み取ってくれたような気がしたからだ。

『頑張れ、一郎』

『おう!まかせとけ!』

そう言って自信満々に笑った、幼い日の一郎が俺に向かって笑いかけてくれたような、そんな錯覚を起こしてしまった。

 すると、俺の言葉に今まで俺の後ろでこの状況を見守っていた笹渕教頭が一つ大きな咳払いをして、俺の後ろから離れていくのを気配で感じた。それをきっかけに、今まで俺達に注目していた他の教師たちも戸惑いながらではあるが、自然と各々の仕事に戻っていった。

 俺は周りの様子に小さく息を吐くと、そのままペコリと頭を下げて一郎に背を向けた。

 すると次の瞬間、後ろに居た筈の一郎がいつの間にか俺の真横に来て俺の肩をポンと叩いた。とっさに顔を上げる俺。そして、目に映る一郎のにこやかな表情。

あれ、何だろうか。この満面の笑みは。

そして、一郎は俺の肩を握ったままニコリと微笑んだ。

「さて、敬太郎君。一緒に、算数の勉強でもしましょうか?」

「……は、はい」

 そう、俺は肩に食い込む一郎の指に、やはり余計な事はすべきでなかったと心底後悔した。

 

 

                     ◇

 

 

「で、敬太郎君。どの問題がわからないんですかー?」

「………………」

 野田先生。それは、誰も居ない薄暗い準備室で言うセリフじゃないです。そして、俯く生徒をニコニコ見下ろしながら言うセリフでもないです。

 そう、俺の心は大声を上げるが、それが口をついて出る事はなかった。口をついて出られる筈もない妙なプレッシャーが、一郎からはだだ漏れだった。

 俺は現在、一郎と二人きりで、普段は殆ど使われて居ない教材準備室の中に居る。使用頻度が極めて低いせいか、部屋の中は埃っぽく、そして薄暗い。

 この状況でもし何かあっても、誰も居ない校内でここに気付いてやってくる人間はまず居ないだろう。何かって何とは考えたくない。考えたくもない。

 そして、俺の恐怖を増強するのが、目の前に立つ、それはもう楽しそうな表情で俺に向かって言葉を投げかける一郎の姿だ。

「あれ、さっき言ってたじゃないですか?わからない問題があるって。あれは嘘だったのかなぁ?」

 そう、わざとらしく声に笑いを含ませながら聞いてくる一郎に俺は一気にハァと溜息をつくと、とりあえず観念して一郎の方を見上げた。

 やはり、そこにあるのは一郎の楽しそうな笑顔。しかし、どう考えてもこの笑みは、教師が生徒に浮かべる笑みでは決してない。こんな邪悪な笑顔を俺に向けないで欲しい。

「先生、あれ、嘘なんで、もう帰っていいですか?」

「だろーなぁ?俺は昨日お前を締めあげた記憶はあっても、算数を教えた記憶はどう探してもねぇからなぁ?」

 俺の言葉で一気に敬語すら使わなくなった一郎に、俺ももうヤケクソな気持ちで一郎の好奇心に満ちた目を真正面から受け止めてやった。

 もう、ここまできたらこちらも10年前と同じように普通通りに対応させてもらう。

 一郎だって俺を小学生として扱ってくれないのだ。それならば、こっちだって一郎を先生として扱う義理はない筈だ。

 もう猫かぶんのはよそうじゃないか。

「先生、俺もうイチローが待ってるんでもう帰りたいんだけど」

「へぇ、お前、ただの優等生じゃないんだな?」

「俺はただの小学生だよ」

「ふーん、まぁそれでもいいさ。んな事よりお前、何でさっきあんな嘘ついた?あ?」

 コイツはどこのチンピラだ。

 俺は中腰になって俺の目の前に目線を合わせてくる(ムカつく)一郎の面白いモノでも見るような表情にムッとすると、それを隠すことなくぶっきらぼうな口調で言い放った。

「先生が怒られてて可哀想だったからだよ!」

「へぇ」

「何だよ!俺が行かなかったら先生、絶対ブチ切れてただろうが!」

「まぁ、そうだな」

「だろ?だから、何かあって先生が問題起こさないように俺が話に割り込んで行ったんじゃないか!」

本当なら、地面に手をついて感謝して欲しい位だ。

そう、俺がムッとした表情のまま一郎に言い放つと、一郎は今まで浮かべていた表情から一転して何やら真剣な眼差しを俺に向けてきた。

 そんな一郎の表情の変化に、早くもそれまでの勢いを削がれて一歩後ろへ下がる俺。それを見た一郎は、俺を見つめたまま、また一歩俺へと歩を進める。俺達の向きあう距離は変わらないままだ。

「お前さ……」

「何だよ」

 俺が目の前にある一郎の表情にビビっていると、一郎は若干眉間に皺をよせながら俺をジッと目を見つめて来た。これは睨んでいると言ってもいいのだろうか。それとも何とも思っていないのだろうか。俺にはわからない。

俺が混乱の渦中にありながら、ただひたすら一郎を見上げていると、一郎の薄い唇から笑いを含んだ言葉が放たれた。

「老けてるって言うわれねぇ?」

「ふぁ?」

 更に一郎は突如として俺の頬をつねり結構強い力で横に引っ張ってきた。

 何なのだろうか、この状況は。

「でんでー、いだい」

「そりゃぁ、痛くしってからなぁ。それにしても、お前、ほっぺたプニプニだな。さすが小学生」

 一郎はそう言いながら面白そうに俺の頬をつねったり引っ張ったり、挙句の果てには顔を両手で挟んで俺の顔で遊び始めた。

 俺はあまりにどうしたらいいのか分からない状況に抵抗できず、ただ一郎のされるがままになっていると、一郎は楽しげに笑いながら俺の顔から手を離した。

「ま、ただの小学生だな。お前は」

「一体なんだ!?」

「あははは。まぁ怒るな、怒るな。ただの小学生よ」

 そう言って一郎は心底面白そうに俺を見つめながら、俺の頭を撫でると「悪い、悪い」と罪悪感のかけらも感じていなさそうな謝罪をくれた。

 俺は引っ張られて熱くなった頬を撫でながら、ちらりと一郎を見上げる。一郎は、やはり笑って俺を見ていた。その笑顔に、俺はまた過去の一郎の姿が目の前にちらつくのを感じると、なんともたまらない気持になった。

 普段から、教室でもこうして笑っていればいいのに。

 笑っていれば、一郎はきっと誰よりも生徒から好かれる人気の先生になれるのに。そうすれば、今みたいにしてれば他の教師にも馬鹿にされる事などないだろうに。

 

一郎、俺はお前が馬鹿にされたり、嫌われたりするのが悔しいんだよ。

お前は凄い奴じゃないか。

いつだって、俺の前を走っていく、

かっこいい奴じゃないか。

 

「おい、どうした。そんなに痛かったか?」

いつの間にか黙ってしまった俺を不審に思ったのだろう。

一郎は少しだけ心配そうな顔で俺の顔を覗き込むと、俺の頭を撫でてきた。

 

一郎……、一郎。

 

「先生、先生は本当に良い先生だよ」

「そう、か?」

「今みたいに、教室でも笑ってれば、絶対どの先生より皆に好かれる先生になる。皆、怖がったりしない。そしたら先生も教頭先生に怒られたりしない」

「………………」

「先生を、誰も馬鹿になんかしない」

 

 一郎。

 お前、《大人》なんだから、もう俺にこんな事言わせるなよ。

 お前が凄いとこを、皆に見せてやれよ。

 

 俺がいつの間にか俯いていると、俺の頭に置いてあった一郎の手がいつの間にか髪を撫でるような、少しくすぐったい動作になっていた。

「お前、髪サッラサラだな」

「……もういいよ!」

俺は全く関係ない事を呟いてくる一郎に、一気に気持ちがしぼむのを感じると一郎の手を勢いよく叩き落とした。

 あぁ、こう言う好き勝手なところも本当に変わっていない。

「俺、もう帰る!!」

「おい」

「さようなら!」

 俺は一郎が呼びとめる声などお構いなしに、一郎に背を向けると、そのまま教材準備室の入口に向かって1歩踏み出した

 

筈だった。

 

「ぐぇ」

「だから待てって」

 俺は背後から一郎に首根っこをつかまれると、先程踏み出した筈の1歩を前へ進める事なく一郎の元へ引き戻された。

「俺もうかえ……」

「やってみるわ」

「は?」

 今、一郎は何と言った。

 俺は自分の言葉に被った一郎の声に、とっさに首根っこを掴まれたまま勢いよく後ろを振り返った。

「だーかーら。お前に言われた通り、ちょっと先生の路線変更してやってみるわって事だよ」

「路線?」

「そーだ。俺の教師キャラ路線。ま、うまくいくかはわかんねーけど」

――お前が上手く行くって言ったしな!

 そう言ってニカッと笑った一郎の表情が、余りにも昔の一郎の笑顔過ぎて、俺はなんだか無性に泣きたくなった。

 

 あぁ、畜生。

 何だよ。

 俺はもう昔の俺じゃないのに。

 なんでお前は昔のままなんだよ。

 もう。

 何で、俺はもうお前の幼馴染じゃないんだよ。

 

けれど、悔しくても、歯痒くても、俺は泣けない。だって俺はもう、お前の幼馴染でもなんでもないからだ。

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