その7:幕間2 仕事が手につかないもの ※一郎視点

 

 

いつも俺の背中を押してくれた。

いつも俺の傍に居てくれた。

 

なのに、俺は俺の勝手でお前を傷つけて遠ざけた。

けど、お前は結局、そんな身勝手な俺を受け入れてくれたよな。

実はあの日、俺はホッとして少しだけ家で泣いたんだ。

これでまた元通りの俺達に戻った。

 

 

これからはまた、ずっと一緒だ。

そう思った。

その5ヶ月後、お前はあっさり俺の前から居なくなったんだ。

 

 

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その7:幕間2 仕事が手につかないもの ※一郎視点

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俺はビールを片手に、自宅であるボロアパートの居間でぐったりとテレビを見ていた。画面を目で追ってはいるが、番組の内容は一切頭に入ってこない。

そんな俺の脇には30人分の春休みの宿題が鎮座している。そう、俺は今からこれを全部チェックしていかなければならないのだ。

 クソ面倒過ぎる。

 と、思いつつも先生という肩書上、見ないわけにはいかないので俺はしぶしぶテレビを消し、ビールを机の上に置くと、そのまま一番上の生徒の宿題からざっと目を通していく事にした。

 すると、鬱陶しい事に風呂からお袋の上機嫌な歌声がやたら大声で居間にまで響いてきた。先程まではテレビの音のお陰で耳につく事のなかったそれは、静まり返った居間には、かなりの存在感をもって俺の鼓膜を揺さぶってくる。

「あー、クソ。集中できねぇ」

 俺は更に募って行く苛立ちを言葉にする事により何とか発散を試みたが、その呟きも母の歌声によってかき消されてしまった。これでは、何の為にテレビを消したかわからない。

 だが、それを母に怒鳴ろうものなら自分の部屋でやれとうるさく言われるのは目に見えている。故に俺が文句を言う事はない。

 今夜は4月にも関わらず冷える。ウチの唯一の暖房器具であるストーブはこの居間にしかないのだ。自分の部屋など、今度は寒過ぎて集中できないに決まっている。

 それなら、お袋のヘタクソな歌を聞いていたほうがまだ我慢が出来ると言うものだ。

 そんな些細な生活上の不便さに俺は小さくため息をつくと、風呂から聞こえてくる声になるべく意識を持っていかれないように目の前にある宿題の山に集中した。

 大学時代など何度一人暮らしをしたいと思ったかしれない。しかし、奨学金でやっとギリギリのラインの学校生活を送って居た俺にとって一人暮らしなど夢のまた夢だった。

 昔から父親が居らず、母一人子一人で貧乏暮らしをしてきたが、それは俺がこうして25を迎える今となっても変わらない。

まぁ、今となっては通える距離にある職場(とは言っても車で1時間はかかる)の為に、わざわざ一人暮らしをしたいなどという贅沢な事は思わなくなった。それに、そろそろ働きつめだった母親に楽をさせたいと思っているので現状に大きな不満はない。

 俺がそんな事を考えながら一つ一つの宿題に訂正と確認印を押していると、次に回ってきた人物の名前に知らず知らずのうちに笑みがこぼれていた。

 

 篠原 敬太郎

 

 その名前は、まさに今日職員室で教頭の小言の嵐から俺を助け出し、そしていつの間に俺自身、素で喋るようになってしまっていたおかしな生徒の名前だ。

俺は漢字ドリルのページをパラパラとめくると、意外な事実を目の当たりにした。

「案外、字は下手クソだな」

 あの、若干大人じみた少年の、幼さの残る歪んだ字。それは、何故だか少し懐かしい感じのする字だった。どこで見たのか覚えていないが、このハネの部分がやたらと主張の激しい独特の字は自然と懐かしさを感じさせる。

 と言うより、あの子供とは正直言って初めて会った気がしない。

 今日だってそうだ。職員会議の後、俺はまたしても笹渕教頭に説教と言う名の嫌味をクドクド受けていた。そんな俺に、周りの教師達は若干同情じみた、しかし明らかに俺とは関わりたくないという目を向けて来る。コソコソと話される俺への評価は、どれも一様に俺を格下として扱う発言ばかりだ。そんな状況の中、俺はあと一歩というところでキレかけていた。

 俺は昔からキレる寸前と言うのは一切喋らなくなる傾向があるらしかった。

そう、10年前死んだ幼馴染に言われた事があるのだが、それはまさしくその通りで、あの時俺は募る怒りで返事すらまともにできない状態だったのだ。

 そんな俺があと一歩と言うところで取り返しのつかないキレ方をしようとした時だった。

 

『失礼します!!』

 

 アイツは大声でそう言いながら職員室に入って来た。その手には、今俺が見ている宿題の山を抱えながら。

 そしてあろうことか、アイツは周りの教師たちが此方に注目している中、信じられない事を言ってきやがった。

 

『俺、先生が新しい担任の先生で本当に良かったなぁ!』

 

 アイツがそう言った瞬間、俺はアイツが言っている訳のわからない「算数教えて」発言の意味をやっと理解したのだ。

 アイツは俺を助けに来のだ、と。

 そうでなければ、アイツの発言は本当に訳のわからない事になる。俺はアイツに算数なんか教えた事もなければ、アイツから教えてと頼まれた事もなかったのだから。

 昨日、アイツにした事と言えば、まぁ言いにくいが大人気なくアイツに向かって怒鳴り散らした事くらいだ。

――アイツは、俺を助けてくれたのだ。

 そう、俺が悟った瞬間。

俺は過去の記憶が鮮明にフラッシュバックするのを感じた。そして、思い出された過去の記憶に、俺は一瞬息が止まったような気がした。

『一郎!今日、俺と勉強する約束だったよな!』

 そう言って俺を助けてくれた、あの幼馴染。あれは、確か中1の頃だっただろうか。

 あの時も俺は似たようなシチュエーションの中、職員室で髪の色だの校則だので教師に呼びだされ怒られまくっていた。

 あぁ、今思い出すと本気で若気の至りだとしか言いようがない。金髪って、正直似合っていたかは微妙だ。

 しかし、あの頃の俺は中学に入って急に広くなった世界に、自分は何でもできるような気分になっていたのだ。周りが自分を怖がるのが気持ち良くて、つるむ連中と馬鹿やっている自分が最高に楽しくて。

 つまりは、ガキだったんだ。

 そんな時だったからだろうか。俺はアイツに酷い事を言った。

 職員室で怒られて切れる寸前だった俺を止めてくれたアイツに、俺は取り返しのつかない事を言ってしまったのだ。

 

『お前、ウゼェんだよ』

『いつまでも幼馴染だからってくっついてきてんじゃねぇ!』

『お前と一緒に居るとこ、他の奴に見られたくねぇんだよ!』

『わかんねぇのか。恥ずかしいんだよ、お前』

 

 今、思い出しても昔の俺を殴りたくなる。

 アイツはいつもみたいに笑って俺を助けに来てくれたのに、俺は急にアイツと居るのが恥ずかしいと感じるようになっていたのだ。俺はこんなダセェ奴の一緒に居ていい人間じゃねぇって。こんな奴、もう友達でもなんでもねぇと。

 だから、俺は自分勝手にもアイツを遠ざけた。自分のメンツの為に。自分の我儘の為に。

 そんな事を勢いで言ってしまった俺は、あの時アイツの顔なんか見ずにアイツを突き飛ばし、さっさとアイツから離れた。

 アイツが、どんな顔で、どんな気持ちで俺を見ていたのかはわからない。

 けれど、俺はすぐにその事を後悔する事になった。

 アイツは、それ以来、俺に近寄らなくなったのだ。目すら合わせなり、俺の家に来る事もなくなった。

 まぁ、当たり前と言えば当たり前だ。あんな事言った後で、俺に近寄ってくる筈も無い。

 けれど、時間が経つにつれ、その事実に俺はイライラし始めた。

 そりゃあそうだろう。

 中学に上がるまで、俺はアイツと毎日のように遊んで、毎日のように一緒に居た。中学に入ってつるむようになった仲間とは比べ物にならない程の時間を、俺はアイツと共有してきたのだ。

 それからの毎日は違和感だらけだった。アイツと話さない日が当たり前に過ぎていく事への違和感。俺の隣にアイツが居ない事への違和感。アイツが俺でない誰かと楽しそうに話している事への違和感。

 落ち着かない毎日。

 結局、俺はどんなに悪ぶっても、どんなに見た目が変わっても、アイツの隣が一番落ち着くのだと、改めて思い知らされたのだ。

 まぁ、その後は結局我慢できなくなった俺がアイツの家に無理やり押しかけて、俺たちは普通通りの関係に戻る事が出来たのだが。

それはアイツが死ぬたった5カ月前の事だった。

 結局、俺は1年以上も自分からアイツに声をかける事も、謝る事も出来ずに中学時代を過ごしてしまったという訳である。

 

「……はぁ」

 

 俺はいつの間にか止まってしまっていた自分の手に、ハッと意識を取り戻すと、そのまま手元にある癖のある字へと意識を戻した。

 

 篠原 敬太郎

 

 変な子供。そして、どことなく、懐かしさを感じるあの子供は一体何者なのだろうか。

「いや、別に何者でもねぇか」

 ぼんやりと浮かんできた自分の思考に、自然と否定の言葉が漏れてくる。何故かアイツと話すようになってから、俺は昔の事を思い出して仕方がない。

 もう10年も前の話だ。

 今さら感傷に浸った所で、それはただの思い出に過ぎない。

 しかし。

『先生、先生は本当に良い先生だよ』

 そう言われた瞬間、湧きあがってきたこの感情は、想いは、一体何なのだろう。思い出や懐かしさと言うには、それは明らかに鮮明でハッキリとした鮮やかな感情の噴出だった。

 俺はあの言葉をあの子供に言われた時、もう居ない筈のアイツから背中を押してもらったような気がしたのだ。

 

――負けるな、一郎。

 

そう言って、いつも俺の隣に居てくれたアイツの声を、俺には確かに聞いたのだ。

 俺はいつの間にか止んでいた母親の歌声に、ぼんやりとノートを眺めると、あの子供、敬太郎の書いたヘタクソな字をそっと指でなぞった。

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