その20:振り返ってみたものの(2)

 

 

俺が全てを受け入れた日は、俺が全てを諦めた日でもあった。

俺が“森田 敬太郎”である事を

 

 

捨てた日。

 

 

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その20:振り返ってみたものの(2)

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 俺が現実から目を背け、壊れて行く家庭を見て見ぬふりをする中。

俺の頭の中を更に混乱させる人物が現れた。

 

『けーたろ!けーたろ!』

 

 瀬川 一郎。

 俺がイチローと初めて出会ったのは、生後間もない頃だった。

 同時期に出産を終えた、俺の母親とイチローの母親は互いの家を俺たちを連れて何度も行き来していた。

その中で、俺とイチローもその頃から友達として、共に遊ばされて居た。俺としては意識はずっと15歳の森田 敬太郎であった為、赤ん坊と共に遊ばされることも苦痛で仕方が無かった。

 しかも、相手の赤ん坊。そいつの名前も問題だった。

 

イチロー、イチロー。

 

 大人たちは俺の目の前の赤ん坊をそう呼ぶ。俺とイチローは、幼馴染という立場にあり、かつ相手の名前はイチローだった。その事実は俺の目の前に広がる新しい現実を、更に前世へと引き込む大きな足枷となった。

 

 イチロー?お前は、あの、一郎なのか?

 

 違うとわかっていても、俺はそんな甘い理想を追わずにはいられなかった。一郎ももしかしたら俺と同じように、生まれ変わっているのかもしれない。

 そんな都合の良い空想を思い描いては、現実の“イチロー”と過去の“一郎”の違いに苦しんだ。

 

 イチロー、お前はそんな事言わないだろ?

 イチロー、お前はそんな事しないだろ?

 なぁ、イチロー。

 お前は俺の望む“一郎”でいてくれるよな?

 

 俺はそんな事を思い、事あるごとにイチローの行動に口を出した。

 それはもう異常な程に。俺はあの頃、イチローに“一郎”としての人格を押しつけ、前世のあのイチローを演じさせた。

 その最たるものがモノに対する嗜好の有無だった。

 

『イチロー?トマト、嫌いだったよな?俺が食べてやるよ?』

『え……?』

 

 俺はイチローがトマトを好きな事を知って居た。保育園の菜園の時間に作ったトマトをおいしそうに食べているのを見た事があったから。

 しかし、俺は許さなかった。

 

一郎は……トマトが嫌いなんだ!何でそのお前が、トマトを美味しそうに食べるんだよ!

 

『イチロー、トマト嫌いだもんな?』

 

 そう、無理やりイチローに“一郎”を押し付けたのだ。

 あぁ、自分を通して他人を見られると言うのはどれほど辛いモノなのだろう。それなのに、イチローは一度たりとも俺に文句を言ったりする事はなかった。いつも、笑顔で俺についてきてくれた。

 

『けーたろ!俺トマト嫌いだから食べて!』

 

 そう言って、小学校で一生懸命育てたプチトマトの鉢植えを、そのまま俺によこそうとするイチローに、俺は自分がそう仕向けてきた筈なのに、心が締め付けられるような気持ちになった。俺が傷つく権利なんて、ありはしないのに。

 本当はトマトが大好きなイチロー。

 俺のワガママに黙ってついてきてくれたイチロー。

 全て摘み終わったプチトマト。

 夏の空の下、真っ赤に染まったソレは、イチローが一生懸命育ててきた証だった。

 

『けーたろ!食べて!』

 

 その日、俺は初めて他人の優しさに目を向けた。自分の事しか見えていなかった、新しい世界で、俺はやっと“他人”に目を向けたのだ。

 

『ごめん。ありがとう。イチロー』

 

 そう言った瞬間、俺は確かに幼馴染であった“野田 一郎”を忘れ、“瀬川 一郎”を受け入れた……

 

つもりだった。

 

 

                   ◇

 

夢か現か。

俺は熱にうなされながら一人、ベッドの中で過去をたどる。

 

どこまで、戻るのか。

どこに、戻るのか。

捨てた名前の、あの懐かしい人生の日まで、夢の中でくらいなら戻ってもいいだろうか。

 

父さん、母さんが居て。

一郎が居た。

あの、懐かしい日々に。

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