その21:幕間7 道中

 

 

 野田 一郎はどうにもならないモヤモヤとした気持ちを抱えて、その道中を歩いていた。

 現在、午後1時55分。

 一郎は、瀬川 一郎宅の家庭訪問を終え、車一台通るのがやっとであろう、古い道路を一人歩いている。本来ならば車で各家庭まで回るはずなのだが、どうにも瀬川家と、次に訪れる予定である篠原 敬太郎の家は目と鼻の先にあるため、わざわざ車を出す必要性を感じなかった。

 故に、イチローの母親の厚意により、一郎は瀬川家の敷地内に車を置かせてもらっている。

 

 スタスタスタ。

 

 聞こえるのは自分の靴と地面が擦れる音だけ。そんな静かな道路の端で、一郎は先程のイチローの家での奇妙な出来事に思考を埋め尽くされていた。

 

『うちの子、トマトは昔から大好きなんですよ?』

 

 そう口を開く母親の顔は、とても嘘をついているようには見えず、それどころか一郎の言っている事が何の事だか全く分かっていないと言う表情だった。ただ、隣に座るイチローだけは、その後、終始うつむいたままで、その後一切その口を開く事はなかった。

 

 別に気にする程の事でもない。

 たかだか生徒の好き嫌いの話だ。

 

 どんなにそう思いこもうとしても、一郎には気になって仕方なかった。確かに昨日の給食の時間、イチローはトマトが嫌いだと言い、そのトマトを敬太郎へと食べさせていた。

 何故、イチローはトマトが嫌いなどと嘘をついたのか。

 あれは一体何だったのか。

 この事を、敬太郎は知っているのだろうか。

 

そこまで考えて、一郎は少しだけ歩調を緩めた。

 もしかして、敬太郎に何らかの原因があるのではないだろうか。いや、原因と言っても一体何の為に。

 一郎は、あの少し大人びた、自分の幼馴染と似た少年の事を頭に思い浮かべた。

 

 あぁ、何だろう。何かひっかかる。

 だが、考えても考えても何の答も示さない自分の脳内に一郎は考える事を一旦止めた。そして、歩調を緩めていた足も、それと同時にピタリと止める。

 

「……ここか」

 

 一郎は先程のイチローの家とは全く異なる完璧に洋風な一軒家を前に、そう呟くと、そのまま入口にあるインターホンに手を伸ばした。

 何故か、自分の疑問の答えはこの中にあるような気がしてならなかった。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

篠原 敬太郎の母親、篠原 律子はグッスリと眠る息子のベッドの隣で、ゆっくりと息子の頭を撫でていた。

 現在、午後1時50分。

 眠る息子、敬太郎は、律子が思っている以上に熱が上がってしまったようで、時折、呼吸が苦しそうに乱れている。そんな息子を起こさぬように、律子はやはり、静かに敬太郎の頭を撫でる。

 家庭訪問を終えたら、急いで病院に連れて行った方が良いのかもしれない。今、こんなに熱が上がっているのだから、夜はもっと高熱になってしまうかもしれない。

 そう思う律子であったが、敬太郎にそれを伝えた場合の息子の反応を予想し、胸が締め付けられるような気持ちになった。

 

『お母さん、俺、大丈夫だから』

 

 きっと敬太郎は、律子にそう言うだろう。この小さな我が子は、どんな時も自分達にそう告げ、一人でこ抱え込んでしまうのだ。

 自分は親であるにもかかわらず、この子供に親として認められていない。

 小さな体で、親の自分も知らない大きな何かを抱え込んでいるように見える我が子を、律子はどうにもならない気持ちで見守る事しかできないのだ。

 

『お母さん』

 

 そう呼ばれる前。律子は敬太郎に『おばさん』と呼ばれて居た。

 あの時も、自分は親として認められていないんだと嘆き、日々涙を流していた。しかし、今思うと、あの頃の方が敬太郎も随分子供らしかった。

『帰りたい、帰りたい』とどこか遠くを見て嘆く息子に、懸命に律子は向き合おうとした。

 泣き、喚き、怒り、そして叫ぶ。

 そういった子供の持つ、最も力強く直接的な表現方法を駆使し、敬太郎は自分達に何かを求めているようであった。しかし、それはある日を境にピタリと止んだ。

 

『お母さん』

 

 そう自分の事を呼ぶようになった息子は、今までとは見違えるほど聞き分けの良い、一般的に言う“いい子”になっていた。しかし、それと引き換えに敬太郎は自分の感情に蓋をしたように、律子に本心をぶつけなくなった。

 

 お母さん、お母さん。

 

 そう呼ぶ息子の声は、いつもどこか固かった。これならば、まだ本心をぶつけてくれていたあの日の頃の方がよっぽど親らしい事ができた。

 自分を親だと思えた。

 しかし、どんなに律子が嘆いても、敬太郎は“いい子”の仮面を取り払ってくれない。

 

「……あなたは、私の息子よ」

 

 そう言って、眠る息子の頭を撫でる瞬間だけ律子はいっぱしの親になる事ができる。

 

「敬太郎……、あなたは何を抱えているの?」

 

 そう静かに律子が呟いた時、玄関から機械的なインターホンの音が鳴り響いた。

 

「……敬太郎」

 

 すぐ戻ってくるからね。

 律子は眠る敬太郎にそっと告げると、急いで玄関へと足を走らせた。

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