その23:幕間8 家庭訪問(2)

 

 

「お忙しい中、お時間を作って頂きありがとうございます」

 

 

 一郎は綺麗に片付けられたリビングで、これまたぴしゃりと綺麗にスーツを着こなした女性を相手に、口を開いた。相手の恰好からすると、きっと今日、この家庭訪問の時間まで仕事をしていたのだろうというのがすぐにわかった。

 一郎は深々と頭を下げると、持参した鞄の中から、今日学校で配布した学級新聞やPTA総会についての連絡プリントなどを取りだした。

 

「こちらは、今日学校で配られたプリントです。どうぞ、後で目を通してください」

「あ、はい。わざわざ、ありがとうございます」

 

 そう言ってプリントを受け取る女性、つまりは篠原 敬太郎の母親は、少しばかり疲れた顔でそのプリントを受け取る。

子育てに、仕事に、家事にと、きっとこの女性は多くの事を全て自分で抱え込んでしまっているのだろうな、と一郎は密かに相手の表情から、そう読みとった。

 いや、読み取ったと言うよりは、見覚えがある表情だったからそう思ったのだ。一郎の母親も、よく昔はこんな顔をしていた。

 

「敬太郎君、体調の方はどうですか?」

 

 一郎は会話の皮きりにと、実際気になって居た敬太郎の様子を尋ねてみた。すると、その瞬間相手の表情が一気に曇る。

 

「はい、少し熱が高くて……今はゆっくり寝ていますけど」

「それは心配ですね。敬太郎君には早く学校に来てもらいたいですよ。彼、本当にいい子で私達教師も本当に助かっているんです」

 

 一郎が何気なく放った言葉に、母親はまた少し表情を曇らせる。一体どうしたのか、一郎には全くわからなかったが、とりあえず家庭訪問と言う目的の一端を果たすため、先程のイチローの時と同じく、家庭での敬太郎の様子を尋ねたり、学校での様子を話したりした。

 ただ、イチローの時と違うのは、この場に生徒である敬太郎が居ないという事だ。

 これはもう家庭訪問と言うより保護者面談というカタチに近いな、とイチローは密かに思った。

 そんな中で繰り広げなれる一郎との会話の中でも、敬太郎の母親は事あるごとに表情を暗く曇らせるばかりだった。それは、一郎が敬太郎での学校の様子を「良い子ですよ」とか「本当に大人ぽっい子ですね」などと、褒める時は必ずと言って良いほど表情がこわばってしまうのだ。

 

 その癖、一郎が「家庭で敬太郎君に何か気になる事はありますか?」などと聞いても、彼女は「特に……」と口をつぐむだけで多くを語ろうとはしない。

 何かあるのは彼女の顔を見れば一目瞭然である事は確かだ。しかし、だからと言って一郎も話そうとしない、いや、話したくないと思っている相手に無理やり口を開かせる事などできない。

 

故に、敬太郎の家での家庭訪問は先程のイチロー宅の家庭訪問とは全く逆の静かに淡々と進み何事もなく終わりを迎えた。

 

「あの、これで本日の家庭訪問は終わらせて頂きますね」

「はい。野田先生、これからも敬太郎の事をよろしくお願いします」

 

 そう言って互いに頭を下げた後、一郎は鞄を片手にチラリと見える2階へと続く階段を見つめた。きっと、敬太郎の部屋はこの上にあるのだろう。そう思うと何故か一郎は、今このままこの家から帰ってはいけないような気がした。

 先程のイチローの家での事もある。

 一郎は少しだけ息を呑み込むと、意を決したように母親に向かって口を開いた。

 

「あの、最後に、敬太郎君の様子を見て行ってもよろしいでしょうか?」

「え、あの……でも、今あの子は寝ていますし……話せないと思いますが」

 

一郎の申し出に、母親は少しだけ躊躇ったような表情を一郎へ向けた。しかし、一郎はそんな母親を安心させるように二コリと微笑んだ。

 

「いえ、話をしようと言うわけではなく……少し様子を覗くだけ。クラスの皆も心配していましたし、様子だけでも見れたらと思いまして」

 

 そんな一郎の言葉に、母親も少しだけ表情を和らげると「わかりました」と小さく頷いた。やはり敬太郎の部屋は2階にあるようで、上へと続く階段を一郎は母親の後ろをついて歩いて行った。

 その状態で、前に居た母親が一郎に聞こえるか、聞こえないかという本当に小さな声で一郎に対して口を開いた。

 

「先生、あの子は……子供、ですよね?」

「……どういう意味でしょう?」

 

 一郎は突然自分に向けられた、意味のわからない質問に少しばかり眉を潜めた。階段を上り終わった所で、母親は一郎へと向き直り、もう一度ハッキリとした声で一郎に向かって口を開いた。

 

「あの子は……しっかりしていても……やっぱり他の子と変わらない、普通の小学5年生ですよね?」

「…………」

 

 その妙に必死な表情で尋ねられた質問に、一郎は一瞬どう答えたらよいのかわからなくなった。しかし、次の瞬間には今まで教室で向き合ってきた、あの敬太郎の姿が次々に蘇ってきた。

 

 作文を読まれたくないと、顔を真っ赤にする敬太郎。

 イチローと喧嘩して、どうしたらいいのかと悩みを打ち明けてきた敬太郎。

 そして、算数でつまずく度に悔しそうには表情を歪める敬太郎。

 どれもこれも普通の小学5年生の姿と、なんら変りなかった。

 

「はい、敬太郎君はちょっとだけしっかりした普通の小学5年生ですよ。友達とケンカもすれば、書いた作文を読まれて真っ赤になったりもする。あ、それにちょっとだけ算数が苦手な……そんな、普通の小学5年生です」

 

 一郎が微笑んでそう言ってやると、それまで終始緊張の取れていなかった母親の表情が一気に明るくなるのを、一郎は間近で見た。

 

「そう、ですよね。……ごめんなさいね。変な事を聞いてしまって」

 

 言いながら、あの部屋ですと母親は一郎を敬太郎の部屋の前まで案内した。それは本当に今までの動作とは違って、少しの軽やかになっているようにも思えた。

 

「ここです、先生。多分寝てると思うんですが……」

「はい、少し顔を覗いたら、お暇しますね」

 

 一郎がそう母親に微笑んだ時。

 

ヴー、ヴー。

そう、くぐもった、しかし、どこか聞きなれた音がどこからか低く鳴り響いた。

 

「あ、すみません……私です」

 

 案の定、それは母親のポケットから鳴り響くケータイのバイブ音で、母親は慌ててそれをポケットから取り出した。どうやら、職場からの電話のようだ。

 

「すみません、先生。電話に出ないといけないので、先に部屋に入っていて下さい。少しだけ席を外させて頂きますね」

「お気づかいなく」

 

 一郎がそう言うと母親は、そのまま、そそくさと1階へと降りて行った。その背中を見送ると、一郎はチラリと視界の端に広がる、敬太郎の部屋の扉を見つめた。

 

ガチャリ。

 

 小さく音を響かせ開かれた扉に一郎は1歩足を踏み入れる。中には無駄のないスタイリッシュな学習机と、その脇に少し山になったベッドが置いてある。この部屋も下のリビング同様、全く無駄のない作りになっていた。

 

 一歩、そしてまた一歩。

 

 一郎はベッドで寝ているであろう敬太郎の元へ足を動かす。そして、少しだけ体をかがめて、布団の中に眠る敬太郎へ、体を近づけた。

 

「………敬太郎?」

「はぁ……、はぁ……」

 

 布団から控えめに出ている敬太郎の顔は、熱のせいか赤く染められており、呼吸も苦しげに荒く繰り返されている。予想以上に苦しそうな敬太郎の様子に、一郎はやはり今日はひとまず帰った方が良いな、とすぐに判断した。

 少しだけでも話を、とも思ったが、どうやらそんな余裕はなさそうだ。

 

「……敬太郎。先生、帰るな?早く元気になって学校に来いよ?」

 

 そう言ってベッドに近付けていた顔を離し、部屋から出ようと足を踏み出した。

その時だった。

 

「……ん、ぁ、い、ちろう」

「っ!」

 

 一瞬、だが確かに呼ばれた、自分の名前に、一郎はハッと顔をベッドに横たわる敬太郎へと向けた。振り返った先には、うっすらと目を開け、ぼんやりと一郎を見上げる敬太郎の顔があった。

 

「敬太郎……?」

「いち、……ろう」

 

 もう一度ハッキリと呼ばれる自分の名前に、一郎は自分の鼓動が速くなるのを感じた。

 

あぁ、何だ。

何なんだ……この感覚は。

酷く動揺する一郎の心とは裏腹に、一郎は落ち着いた動作で、敬太郎のベッドへと体を近づけた。

 

「敬太郎、どうした?」

「プリ、ント……持って、来た……」

 

 途切れ途切れになりながら、しかしハッキリと伝えられる意志を持つ敬太郎の言葉は、それに伴って一郎の鼓動を早めた。

 

「ん?プリント?」

「答え、合わせ……しようって、約束した……じゅけん、のプ、リント。お前……ちゃん、と、やったのかよ?」

「……敬太郎」

「きのう、約束した……。いっしょ、に勉強する、んだろ?明義、くらい受か、んないと」

 

 うっすらと開く瞳は、ハッキリと驚愕に目を見開く一郎を映していた。そして、どうしたらいいのか全く状況の掴めない一郎に、敬太郎はうっすらと微笑みを浮かべ、言った。

 

「……一郎?どー、した?」

 

 その瞬間、一郎は手に持っていたカバンを力なく落とし、息をするのさえ忘れた。

 

 敬太郎……敬太郎。

 お前は……。

 

「敬太郎、なのか?」

 

 そう掠れた声で向けられた一郎の疑問は、静かに目を閉じて眠りについた子供に届く事はなかった。ただ、部屋の中に一人残された一郎は、母親が戻ってくるまでの間……全くその場を動く事ができなかった。

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