11:先生と

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「なぁ、敬太郎。……鼻、大丈夫か?」

手洗い場で鼻をすすぐ俺の隣で、タオルを持った一郎が、どこか気まずそうな声で俺に話しかけてきた。

「んー、別に。ちょっと打っただけだから」

そんな一郎に、俺は何でもない風に言葉を返してやった。
しかし、一郎は、やはりどこか落ち着かない様子で俺の周りをうろうろする。

一体、何だって言うんだ。

「一郎、どうしたんだ?」

俺が蛇口を閉めて顔を上げると、そこにはタオルを持ったまま、俺から若干視線を外す一郎の姿があった。

「あー、あのさ。今日の算数の時の事、なんだけど……」
「……あぁ、あん時の事か」

俺は一郎の少し沈んだような表情を見て、何となく一郎が気にしている事に思い当たった。

「別に、気にしてないからいいよ。あのお陰で、俺、お父さんといろいろ話、できたし」
「……そうなんだけどさ」

一郎は、あの算数の時間の事を気にしてる。
俺が算数苦手なのに、無理やり問題を当てた事を。
けど、なんとなく、あぁして一郎が無理やり俺に問題を当ててきた理由には思い当たる節があるので、何とも思わない。
多分、一郎はわざとあの時俺に問題を当ててきたんだろうな、と。

「一郎さ、俺がお父さんと一緒に勉強できるように、きっかけ作ってくれたんだろ?」
「っ!」

俺の言葉に一郎は少しだけ驚いたように目を見開いてきた。

「一郎、わかりやすいんだよ」
「……そうか?」
「そう。志郎さんが後ろでゴチャゴチャ言いだした瞬間、あんな心配そうな目してさ。あれじゃあ、意地悪して俺に問題当てても、全然意地悪っぽく見えないよ」
「…そうかもな」

一郎は、俺の言葉に小さく苦笑すると、そのまま持っていたタオルを俺の顔に優しく擦りつけてきた。
そのお陰で濡れた顔が柔らかいタオルに包まれる。

「前、お前に家で父親に勉強教えて貰えばいーじゃねぇかっつった時、お前俺に言っただろ?“お父さん、疲れてるだろうから迷惑かけたくないんだよ”って」
「…………」
「あれ、聞いてさ。お前が未だに親に気ぃ使ってんのかと思うと、俺、モヤモヤしちゃってさ。親なんだから、いくらお前が前の記憶があっても、もう少しワガママ言えばいいのにーとか思って……」
「…………うん」
「俺、父親の事覚えてねーからわからんねーけど。父親って、多分息子に頼られると嬉しいと思うんだよ。だから、さ……お前、これからはもうちょっとお父さんを頼れよって……そんな事思ってました。俺は」

そう言って、どこか照れ臭そうに俺を見下ろしてくる一郎に、俺はタオルごと勢いよく一郎の腰にだきついた。

「っ、敬太郎?」
「……ありがとう。一郎」

上から聞こえてきた驚いたような声に、俺は小さく一郎にお礼を呟いた。
一郎には父親が居ない。
一郎は、一郎が小さい頃に病気で父親を亡くしている。

だから、きっと一郎が一番父親という存在に夢を抱いているに違いないのだ。
なのに、一郎はその気持ちを、こうして俺に託して「お父さんに甘えろ」なんて言ってくる。
その気持ちの裏には、きっと自分の寂しかった子供の頃の気持ちも隠れているに違いない。

『お父さん、帰ったら、算数、教えて』

そんな甘えた言葉を一郎だってお父さんに言いたかった筈だ。
俺とお父さんの姿を教壇から見つめていた、あの時の一郎の気持ちを想うと、俺は妙な意地で素直になりきれていなかった自分に少しだけ腹が立ってしまう。

「一郎、本当に、ありがとう」
「……どうしたしまして」

しっかり抱きつく俺の頭を、一郎はきっと笑いながら撫でている。
サラサラと流れるような手の動きで、俺の髪をすいていく。

俺はそんな一郎の手の感触をその身に感じながら、もう一度、一郎に強く抱きついた。

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