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『あっち行けよ』
僕は静かに感じた人の気配に、ソイツの方を見ないで言い放った。絶対に顔など上げてやるものか。
そう、僕はいつもの木の下で本を読んでいた。これは、れっきとした勉強だ。僕はこれから本を読まなければならないのだ。
『昨日はごめん』
『あっちに行け。貧乏人。お前は臭いんだよ』
今、三行目を読んでいる。皇都の歴史と成り立ちについてだ。議会が発足したのは325年。西北西戦争の後。
『本当にごめんな。昨日は家の手伝いがあって来れなかったんだ』
『別に、お前なんかと約束したつもりはない。勘違いするな。邪魔だ。どっか行け』
この小汚い貧乏人は不快甚だしい勘違いをしている。僕は決して約束を破られたから怒っているわけではない。勝手に約束して、勝手に来なかった。だからなんだ。
僕はそんな事気にしちゃいない。僕はもともと約束なんかしちゃいない。
今は7行目だ。貴族議会から国民議会と名前が変わって、王政は様変わりした。
『なぁ、なぁ。オレ、お前の話が聞きたいんだよ。一緒に話そう!』
『あっちへ行け。僕はお前となんかと話したくない。くさい』
『……まだ怒ってる?』
『怒ってない。あっちへ行け』
今、僕は15行目を読んでいる。貴族議会から国民議会へと名前が変わって王政が様変わりし……あれ、ここはもう読んだ気がする。
『なあってば!!』
『あっち行け』
『友達になったら話してくれる?!』
『あっち行け』
『このケチ!いーじゃん!ちょっとくらい友達になってくれたって!』
『はぁ!?』
僕は突然こちらに放たれた不本意過ぎる言葉に、思わず顔を上げてしまった。
そして上げた瞬間、しまったと思った。僕の目の前には、僕と目が合った瞬間嬉しそうに笑う小汚い貧乏人の姿があった。
小汚いソイツは僕の前に乗り出して座り込むと『一緒に喋ろう!』と、目をキラキラさせ始めた。
—-だから!汚いし臭いんだって!
僕は意を決すると、負けじと小汚いソイツを睨みつけてやった。呼吸は全部口でする事にする。これもこれで凄く嫌なんだけど。
『こんな辺鄙な村の子供風情が僕の話し相手になれるなんて思い上がるのも大概にしろよ!のぼせ上がるな貧乏人!』
『もうっ!難しい言葉ばっかり使うなよ!意味わからん!』
『だーかーら!お前じゃ話にならないって言ってるんだよ!』
『話なら今してるじゃんか!ちゃんと話になってるよ!こないだだって“かいちゅうどけい”の事教えてくれたじゃん!』
『それはお前が無理矢理聞いてきたんだろ!』
『それでも、教えてくれたじゃん!話したじゃん!話しになってるじゃん!』
小汚いそいつは懸命に顔を真っ赤にしながら言い返してくる。コイツにとって僕と話す事が何になると言うのだろう。もしかして、僕に取り入って何か企んでいる……
“キラキラして丸いなんて、もしかして月?”
訳ないか。そんな頭が、この学のない貧乏人にある訳がない。
じゃあ、何でだ?どうしてコイツは僕に話しかける?こんな事を言う僕と居て、コイツ自身楽しいとは思えないのに。
そんな事を考えていたからだろうか。僕に思わず口に出してしまっていた。
『どうしてこんなに僕にこだわるんだよ。お前、他にも友達たくさん居るんだろ』
いつの間にか足元に落ちていた本が、風に靡いてパラパラとページが捲れていく。この村は、空気だけなら首都のアマングより綺麗だと思う。
ここに来て、咳が出なくなったんだ。
『なぁ、何で時計って必要なんだ?』
小汚いソイツは僕の質問には答えず、あろうことか自分が質問をしてきた。こないだ同様、僕の腰に引っ掛けてある懐中時計を見ながら。
その目はやっぱりキラキラと輝いていた。
僕はため息をつくしかなかった。
『……人と人とがすれ違わない為だよ』
『人と人とが……』
小汚いソイツは目を瞬かせながら僕と懐中時計を交互に見ていた。
『この村みたいに対自然が仕事なら、そりゃあ時計なんてものは無くてもいいだろうさ。太陽とか季節とか、そういう時間の流れで事足りる。けど、対人が仕事になると、それじゃあ大雑把過ぎるんだ』
『うん、うん』
『昼に話そうと言っても、昼っていつだ?自分はまだ太陽が高い時を昼だと思っているかもしれないが、相手もそうだとは限らない。いつ来るか分からない相手と待ち合わせをするなんて、時間の無駄だ。そうこうしている内に相手は帰ってしまうかもしれない。そういう時にこれを使うんだ』
『うん』
『会いたい人とすれ違わない為の手段が時間であり、それを知る為に使う道具が……時計なんだよ』
『………っ!』
僕が懐中時計の蓋を開いてやると、小汚いソイツも一緒に中を覗き込んでくる。ソイツの耳は何故か真っ赤で、目も潤んでいた。
意味がわからないが、僕の話を聞いてそうなっているらしい事は確かだった。
僕の時計の話は一例であり、その為に時計が作られた訳ではないだろう。
けれど、この学のない人間に時間の存在意義を教えるには、この例えしか僕には思いつかなかったのだ。
『もう教えてやったからいいだろ?もうあっちへ行け』
『そっかー。そっかー。会いたい人とすれ違わない為かー……すごいなぁ』
『おい、聞いてるのか?早くあっちへ』
——行けよ。
僕がそう言うか言わないうちに、小汚いソイツは、またしてもキラキラした目で僕を見つめてきた。
近い。近い。そして、くさい。
『くさい』
『なぁ、オレに時計の見方を教えてくれ』
『はぁっ!?お前ほんとに図々しいな!?』
『知りたいんだよ!頼む!』
『お前みたいな田舎の貧乏人が時計なんか覚えてどうするつもりだ!』
この小汚い奴め。どんどん調子に乗りやがって!
そう僕が思っていると、小汚い貧乏人は興奮したように赤い耳を携えたまま、僕の方を指差した。
『会いたい人とすれ違わないようにする為!』
ソイツの真っ黒な目には、僕の姿しか写っていなかった。