114:本職

 

 

「俺はやっと理解した。一見当たり前の事ながら、俺は結局、何も理解していなかったようだ。他人の気持ちなど、どう予想しても、それが予想でしかない事を、今初めて目の当たりにしたよ。言わなくても伝わるだろう、分かってくれるだろうと言うのは、伝える努力を放棄した驕り、いや、甘えに過ぎない。人間同士は言葉を尽くしても尚すれ違うのに、尽くさなければ相手との距離は決して近づく事はない。近づくどころか、相手はこちらの思いも寄らぬ、あらぬ方向へと向かってしまっている可能性だってある。そう、今のように。あぁ、もう、分かった。俺は賢いからな。あぁ、理解したさ。十分過ぎる程に」

「おいおい、ウィズが壊れたぞ」

「……マスター。あんた一体どうしちまったんだ?」

 

 目の前に居る美しい舞台役者は、狂気に染まったような目で眉間に添えられていた自身の手の隙間から俺を見ていた。

 

 怖い、怖すぎる。

 先程の怒っていたウィズを前にした時の怖さとは、また違った種類の怖さだ。ウィズの放たれる狂気に、あのアボードまでもが恐れをなしているようだ。

 

「俺は……自らの心に、素直になるぞ。トウ」

「は?」

 

 ウィズの短い宣言に、トウの短い戸惑いの返事が店内に響く。やはり、そのトウの短い返事にも俺は多いに共感した。最早、ウィズが何を言いたいのか、どうしたいのか、何一つとして理解できない。

 

「俺は一切のしがらみを取り払う。そして、素直になってみせる」

「そ、そうか。頑張れよ。ウィズ」

「いいや、トウ。お前とて他人事ではないんだ。早くお前もこちら側に来なければ、永遠に欲しいモノは手に入らないぞ。お前の意見を否定するようで悪いが、心を隠したままでは、いくら優しくとも、どうにもならないモノは確かに存在するのだからな」

「………はあ」

 

 返事にならないトウの返事。重ねて同感だ。

 それに、こんな狂気を抱いた目で、そんな“素直になる”なんて純粋な宣言ありだろうか。言葉の純粋さと、携える目の放つ狂乱さのちぐはぐさよ。

 

「……ふうむ」

 

 俺は腕を掴まれたまま、考える。

 ただ、このウィズのセリフも何やらあのビィエルの初級教本を少しだけ彷彿とするものがあるのだ。

 

 それはビッチウケとハラグロゼメの共通の友人が、二人それぞれに言う『いい加減素直になったらどうだ。そうでなければ、お前らの欲しいモノは絶対に手に入らないぞ』と、苦言を呈していた台詞とそっくりだったからだ。

 

 しかし、ウィズの場合、苦言を呈する先が、まさかまさかの自分自身だ。自分が“素直になる”と宣言し、そのついでにトウも巻き込んでいるだけ。

 その事が、俺にはちょっと意味が分からない。

 

「なー、アウトー。帰らねーの?早くお前ん家で教本の読み合わせしようぜー」

 

 そこへ、一切の涙を封印したバイがもう飽きたと言わんばかりの声で俺とウィズの間に乱入してきた。

 

 いやはや、バイは全くもって俺をギョッとさせてくれる。

 あの狂気のウィズを前に、なんと怖いモノ知らずなのだろうか。さすが末っ子。周りの状況などお構いなしである。

 

 しかし、確かにバイに早く帰るぞと言って急かしていたのは俺の方だった。特に週末の予定には何の問題もなさそうなので、ひとまず安心してバイと共に帰っても良いだろう。

 

「えっと、そうだな。かえ」

「帰るな」

「は?」

 

 そう、頷き、放たれかけた俺の言葉を、ウィズは容赦なく遮ってきた。それはもう、有無を言わさぬ不思議な力を持った声色で。

 

「アウト、先程も言ったように、俺はお前に此処に居て欲しいと思っている。それに週末の約束も当たり前だが違える事などない。なにせ俺は、お前との約束を指折り数えて楽しみに待っているのだからな」

「そう、だったんだ。そっか。そっか」

 

 俺はウィズからの思いもよらぬ言葉に、改めて胸を撫でおろした。どうやら週末の予定は無くならないらしい。それどころか、ウィズも楽しみにしてくれているという。

 なんだ、俺とおんなじじゃないか。

 

「良かったぁ!」

 

 俺はハッキリと無くなった懸案事項に、ホッとし過ぎて思わず笑ってしまっていた。その瞬間、先程までの狂気に満ちていたウィズの目が、いつもの静かな目に戻っていた。口元にはうっすらと浮かべられた笑みまである。

 

 そして、今しがたまで俺の腕を痛い程握りしめていたウィズの手は、次の瞬間には何事もなかったかのように離されていた。

 

 あぁ、やっといつものウィズに戻ってくれた。

 

「バイ、やっぱりまだ此処に居ていい?ウィズも居ていいって言ってくれてるし」

「はぁ?お前が最初に帰るっつったんじゃねぇかよ。俺、ここ居たくねーよ」

「なんで?」

「だって」

 

 そう、目を合わせないように、しかしハッキリとバイが視線を向けた先にはトウの姿があった。そんなバイの言葉を受け、トウは先程のウィズのように、苦い表情で自身の口元を手で覆う。そして、何か思いを巡らすように視線を空中に彷徨わせると、次の瞬間には意を決したように、バイの方へと顔を向けた。

 

「なぁ、バイ」

「ふん」

「アウトと何を揉めていたんだ?俺にも教えてくれないか」

「……ふん」

 

 トウの穏やかな問いかけにバイは取り付く島を一つだって与えようとしない。ただ次に口にされた「バイ、頼むよ」という、トウの少しばかり力の無くなった声に、バイの耳がヒクリと反応した。

 

「あぁ、もしかしたら、お前らの揉め事を解決できる手助けになるかもしれない。俺にも聞かせてくれないか。なぁ、」

——-バイ。

 

 そう、トウの声色はどこまで行っても優しい。先程、ウィズは「優しいだけでは手に入らないモノもある」と言った。けれど、こんなに優しい声を自分に向けられる相手を、人は無視し続ける事など出来るのだろうか。

 

「…………」

「バイ?」

「……本の、」

 

 あぁ、その答えは、すぐ目の前にあった。

 

「うん?」

「教本の、読み取り方について、意見が分かれたから。どっちが正しいか、決めたいんだ」

「そうだったか」

 

 バイの言葉に満足気に頷いたバイは、少しだけ得意な表情でウィズに目をやった。それはまるで「どうだ、俺の言った事に間違いはなかっただろう?」とウィズに言って聞かせているような表情だった。

 

「教本の読み取り方……なぁ、こういうのはウィズの専門分野だったろう。お前の仕事は図書の釈義を説く事じゃなかったか?」

「……まったく、トウ。お前はとんだ弱虫になったものだな」

「言ってろ。俺はこれでいいんだ」

 

 なにやら訳の分からない言い合いをしている二人に、俺はその隣で「その手があったか!」と天啓が下ったような思いだった。

 

 そうだ、確かにそうじゃないか!ウィズは教会図書館の担当神官で、世界各地の禁書庫の図書を解読する仕事をしていると言っていた!なんで俺はそれを今の今まで忘れていたのだろう!

 

 

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