7:新しい世界

 

 

拓道の視力の低さが発覚した後のヤスキの行動は早かった。

すぐに彼の母親あてに、連絡帳にその旨を記載し早急な視力の矯正が必要な事を電話でも伝えた。

 

最初、拓道の母親にその事を伝えた時は『まさか、そんな』の一点張りだった。

確かにそうだろう。

これまでの視力検査で視力に問題があった事はなく、生活の中でも彼が見えないという事を言った事はなかったのだから。

それに加え、ヤスキがまだ若い新任の教師だという事も、彼の言葉の信用性を低くしていた。

 

特に大きな問題はなかったが、里田めぐみの妊娠により後任を誰にするのかという事でヤスキの名が上がった時は僅かだが保護者からの不満の声も上がった。

まだ正式な担任を持った事もない新任教師に、6年生の担当など、と。

 

その声を最も強く発した保護者こそ、彼、平川拓道の母親だった。

彼女は特に自分の息子の事に関してはADHDを疑っていたりと、神経を尖らせて教育に当たっているようだった。

 

子供に対し一生懸命向きあう親に多い悩みの連鎖。

『どうしてこの子は他の子のようにできないのか』

『私のしつけが悪かったのか』

『私が悪いのか』

そういう思考の歯車に囚われてしまっていた彼女にとって、里田めぐみという女性教師は頼りになる相談相手でもあったに違いない。

同じ女性として、分かち合える事も多かったのだろう。

 

それが突然、経験もなにもない若造が担任としてやってきた。

しかも、小学校最後の1年という大事な時に。

 

ヤスキは保護者に信用がなかった。

信用を得る為の経験と時間がなかったのだから仕方ないといえば仕方ない。

 

けれど、その“仕方ない”によって拓道のこれからの学校生活までが脇に片付けられてしまうのは我慢ならなかった。

故にヤスキは頼み込んだ。

小1時間によるヤスキの説得もあり、拓道の母親はやっと『とりあえず眼科にだけでも連れて行きます』と言って電話を切った。

 

眼科ならば検査板による視力検査だけでなく機械による検査も行われる。

あとはその結果により、拓道にきちんとした眼鏡なりコンタクトなりが与えられればいい。

別にそれで何が変わらなくてもいい。

今まで通り授業は聞かないし、忘れ物はするし、人の話は聞かないかもしれない。

けれど、それでも。

“見える”という事を知った拓道が、それをきっかけに何かを変えるかもしれない。

 

それに、もし何も変わらなくても、0.01レベルの視力では日常生活が危ない。

 

そこまで考えてヤスキはふと笑いが込み上げてきた。

よくもまぁ、あの視力で今まで何事もなく生活出来てきたものだ。

そう、ヤスキが心底思って吹き出していると、一瞬クラスの中でふざける拓道の姿が頭をかすめた。

 

拓道はジッとしていられない元気な男の子だ。

そういえばよく彼は机にぶつかっていなかったか。

体育のドッジボールでボールを顔面に受けて、あらぬ方向に投げたりしていなかったか。

机に落書きをする時の姿勢は悪くなかったか。

読み書きを異様な程に避けてはいなかったか。

 

そこまで考えてヤスキは唇を噛んだ。

どうして今まで気付いてやれなかった。

周りの大人が気付いてやらなければならなかった筈なのに。

 

自分は彼の担任の先生なのに。

もっと、ちゃんと見てあげていれば。

 

『……早く、先生になりたい』

 

ちゃんとした先生に、なりたい。

 

ヤスキは楽しそうに駆け回る拓道の横顔を想い、静かに息を吐いたのだった。

 

 

 

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——

 

それから数日後の事だ。

拓道が得意気にクラスメイト達に、小さな箱を見せびらかしていたのは。

 

『それメガネー!?』

『拓道君メガネかけっとー?』

『いつ買ったとー?』

 

そう言って興味津津で拓道の眼鏡を取り囲むクラスメイトに拓道は何故かこれでもかと言う程得意気に胸を張っていた。

そんな様子をヤスキは教室前にある教師用の机で眺めていた。

 

どうやら無事に眼鏡を買ってもらえたようだ。

『ジャジャーン』と言って眼鏡を取り出す拓道の姿は、まるでヒーローだ。

ヤスキがクスリとその姿に笑みを浮かべていると、それまで子供達の中心に居た拓道が、走ってヤスキの元へとやってきた。

 

『ヤスキせんせー見てん!メガネばい!メガネば買った!』

『おおー、良かったなぁ。拓道君、これで何でもよく見えるようになるな!』

『そげん!こればかけっと、何でん見えると!オレびっくりした!』

 

そう言ってニコニコ笑いながら、拓道はおもむろに手にもっていた眼鏡をかけてみせた。

 

すると、その瞬間。

それまで笑っていた拓道の顔から笑顔が消えた。

笑顔が消え、ポカンと口を半開きにし、目をこれでもかという程見開く。

 

そんな拓道の激変ぶりにヤスキも戸惑い『拓道君、どうした』と彼に向かって手を伸ばそうとした。

しかし、その伸ばそうとした手は途中で止まった。

いつの間にか、ヤスキの顔は拓道の両手でガシリと掴まれていた。

 

そして、何かを確かめるように拓道はヤスキの顔に、その小さな手を遠慮なく這わせる。

突然の事に固まる事しかできないでいたヤスキは、次の瞬間呟かれた拓道の言葉に己の耳を疑った。

 

『先生ち、こんか顔ば、しとったったい……』

『へ?』

『先生の顔、オレ、ちゃんと知らんやった』

 

呆然と呟く拓道の言葉は、その後もブツブツと続きヤスキの顔が解放されたのは授業のチャイムが学校中に鳴り響いた時だった。

 

その後も拓道は眼鏡をかけたまま授業を受け、時に周りの生徒達に彼なりのヒソヒソ声で『先生があんか顔ち、知っとった?』と聞いてまわっていた。

その質問をされたクラスメイト達は皆『はぁ?』と怪訝そうな顔をし、最後には『知っとったに決まっとるやん』と言って話を終わらせていた。

 

そんな拓道の戸惑いと驚きの様子に、ヤスキ自身はどうにも頭を抱えて落ち込みたい気分だった。

自分の顔はそんなにも衝撃的な程、変なのだろうか、と。

 

拓道がメガネという最強のパートナーを得たその日、ヤスキは授業中も休み時間も常に拓道の視線にさらされて過ごした。

それがまたしてもヤスキの落ち込みに拍車をかけているなど、当の拓道は知る由もない。

 

故にヤスキは知らない。

拓道が『先生ちあんか顔ち知っとった?』という質問の後、決まって周りから『知っとったに決まってるやん』と答えられた後、彼が小さな声で呟いていた言葉を。

 

ヤスキは知らない。

 

 

 

 

『みんな、ズルかねー』

 

 

 

 

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