12:おわかれ

 

 

あの、作文の出来事を経て何か大きな変化があったのかと言えば特にそんな事はなく。

 

ヤスキは生徒に授業を教え、拓道はその授業を受ける。

ただ、ヤスキはそれまでより一層生徒達へと目を配るようになり、拓道は誰よりも熱心に授業に取り組むようになった。

 

ただ、それだけ。

 

そうやって毎日を当たり前のように一歩一歩進むうちにも時間は粛々と流れて行く。

そうして季節は秋から冬になり、とうとう春になった。

 

春。

それは始まりと終わりの季節であり、出会いと別れの季節でもある。

対極のモノが並び立つその季節は、拓道とヤスキに当てはめるならば、それはまごうことなき“別れ”の季節であった。

 

その“別れ”を前に、12歳の拓道はただひたすらに戸惑っていた。

そんな拓道を前に、ヤスキ自身も多いに戸惑っていた。

何故なら――。

 

『せんせー、オレ達が小学校から卒業したら、せんせーはどうすっと?オレ達おらんごつなったら先生クラスないやん。仕事なくなっじゃん!』

『だからね、拓道君……』

『そやったら、せんせーもオレ達と一緒に中学校来たらいいっちゃん。ね?そしたら、せんせー、また授業できるよ?』

『拓道くん、あのね……』

『せんせー、小学校の勉強ができるっちゃけん、中学校もできるやろ?ね!そうしようばい!』

 

この不毛な会話を一体何回した事だろうか。

卒業の日が近づくにつれ、ヤスキは微かな疲労を覚えていた。

それは肉体的なものでも、精神的なものでもなく。

 

感情的な疲労だ。

 

『拓道君?みんなが卒業したら、先生は、また別のクラスの先生になるんだよ?だからクラスはなくならない。それに、小学校の先生だからってすぐに中学校の先生になれるわけじゃないんだ』

 

感情にも疲労が伴うなんて、ヤスキはこの時初めて知った事だった。

 

拓道は明らかにヤスキと離れがたく思っているのだ。

いくら彼が12歳の子供と言えど、自分達が卒業した後ヤスキが本当に中学校の先生になどなれない事くらい理解している。

自分達が卒業した後は、ヤスキがまた別の子供達のクラス担任になる事も理解しているのだ。

 

しかし、理解していても、拓道は言わずにおれないのだろう。

ヤスキと離れたくないという想いを、どうにかして叶える為に、無茶を承知で言葉にする。

言葉にして発散していかないと、彼自身どうしようもない気持ちでいっぱいになるのだ。

 

『……先生はオレば置いていくっちゃん』

 

故に、最後には拓道はいつもこう言う。

 

そう言われると言われたヤスキも様々な感情がせめぎ合う。

 

初めて担任を持った生徒達が無事に卒業式を迎えられる事への誇らしさ。

そして、卒業してしまう彼らに対する寂しさ。

ここまで自分に心を開いてくれた拓道の存在への愛おしさ。

数か月後には、学校のどこにも居なくなってしまう彼への悲しさ。

 

置いていかれる事への苦しさ。

 

全てが初めての事で、ヤスキは感情の本流におぼれてしまいそうになる。

『置いていくのは君の方だろう!』と大人気なく叫びたくなる。

 

12歳の彼はきっとこれから沢山の輝かしいものたちに出会うに違いない。

それこそ、人生を大きく変えてしまうような出会いも山ほどあるだろう。

そして、拓道自身もこのキラキラした目で多くの人間の人生に影響を及ぼすに違いないのだ。

 

ヤスキ自身が、彼によって教師としての在り方を考えさせられたように。

ヤスキの中で、この“平川拓道”という存在は、きっと永遠になる事は、早い段階で分かっていた。

彼には人を変える力がある。

それだけのものが、拓道にはあるのだ。

 

けれど、拓道にとってのヤスキはきっと6年生の時に担任だった、名前は忘れたけど男の先生。

きっとそれ位のものだ。

大きく成長していく彼の、自分は通過点の1点に過ぎない。

 

『…………っはあ』

 

そう、考えるとヤスキはたまらなくなる。

毎日、毎日、そんな気持ちでいっぱいになって。

苦しくて、寂しい。

 

一直線に向かってくる拓道の真っ直ぐな目を前に、ヤスキは感情が疲労を起こしていた。

もう、グルグルし過ぎて分けがわからない。

故に、ヤスキは卒業式を目前に控えたその日。

 

『せんせーは、オレば置いていくっちゃん』

 

教師という立場を忘れ、ただ“野澤ヤスキ”という人間のまま、ポロリと呟いてしまった。

 

『……拓道君はきっと、先生の事なんか……すぐ忘れるよ』

 

呟いた後でヤスキはハッと我に返った。

一体自分は何を言っているのだろう、と。

子供、しかも生徒相手に一体何を。

 

しかし、どんなに後悔しても一度吐いた言葉は聞かれた相手が居る以上、なかった事には出来ない。

ヤスキは、とっさにどう誤魔化そうかと思考を巡らせたが、その思考は次の瞬間ピタリと止まっていた。

 

『せんせー』

『……ぁ』

 

ヤスキの顔はまたしても拓道の手によって挟まれていた。

それは丁度、ヤスキの前で初めて眼鏡をかけた時に拓道がやった行動と全く一緒だった。

拓道は目を見開き、ジッとヤスキの目を見つめ、頬を彼の両手で挟まれる。

そして、あの時同様、拓道はヤスキの予想もしていなかった言葉を言った。

 

『ごめんね』

『っ!』

 

拓道はジッとヤスキの目を見ながら、静かにそう言った。

小学生とは思えぬ程穏やかなその声。

そして、全てを受け止めるかのようなその声色に、ヤスキはそのままあらん限りの感情を全て吐露しそうな衝動にかられた。

 

『(忘れるのはキミの方だ!キミは先生の事なんてきっとすぐに忘れて、楽しい毎日に寂しかった記憶なんて消えてしまう!忘れるのはキミだ!キミだキミだキミだ!!なぁ、お願いだから……先生の事、忘れないで)』

 

なんて。

叫びそうになる気持ちをヤスキは寸での所でせき止め、ゴクリと唾を呑み下した。

 

教師は生徒にとって過去の1点でよいのだ。

いや、むしろ1点であるべきなのだ。

1点を振り返ることなく、子供は前へと走っていくべきだ。

 

ヤスキは拓道の成長が楽しみだと言った。

その言葉に嘘はない。

だから、最後まで自分は教師として彼の前に立っていなければ。

 

『ほーら、何で拓道君が謝るんだー?ほら!早く教室に戻れ戻れ!卒業式の練習に送れるぞ!』

『……うん』

 

頷く拓道と共に、ヤスキの頬から離れた手。

その小さな温もりにヤスキは寂しさを覚えながら、彼は“教師”へと戻った。

 

“ごめんね”

 

そう、拓道がヤスキに言ったその日から卒業式まで。

もう拓道はヤスキに我儘を言う事はなかった。

 

そして。

拓道は卒業式の日もケラケラと笑っていた。

涙を流すクラスメイトの中で彼は最後まで彼らしかった。

ヤスキはうずまく感情の中で、最後まで教師として走り去っていく彼の背中を見送った。

 

拓道は振り返る事なく駆けだした。

あれほど感情のうねりに呑まれそうで、苦しかった割に、最後はとてもあっけなかった。

あっけなく、彼は目の前から消えた。

 

そのあっけなさの中で、ただ、ヤスキはその胸のうちにぽっかりと大きな穴を残した。

 

 

『(みなさん、元気で。どんどん、大きくなってください)』

 

 

穴を残したまま、ヤスキも前へ進んだ。

一歩一歩、踏みしめるように。

教師として、一人の人間として。

 

 

 

 

その月日は、いつの間にか20年に及んでいた。

 

 

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