そして、兄貴は俺を抱きしめた(2)

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 そんな、兄貴の受験を控えたある日の事だ。

 俺達兄弟の人生を、ちょっとばかし揺さぶる事件が起きた。

 

 

 それは、もう。

 

 唐突に、何の前触れもなく。

 

 

 

「え…………?」

「ウソだろ……」

 

 

 

 俺達の両親が死んだ。

 交通事故だった。

 

 

 家でいつものように兄貴に勉強を教えていた俺。問題が解けないストレスから、プロレスの技をかけてくるクソ兄貴。

 

 そこに突然飛び込んできた訃報。

 

 最初に知ったのは俺だった。

 リビングで勉強をしている最中に、突然電話が鳴った。兄貴に「お前出てこいよ」と背中を蹴飛ばされ、俺は口を尖らせながら電話のある玄関口へと向かった。

 

 リビングとは違いヒヤリとした冷気が俺の体を刺すように覆ってくる。

俺が息をする度、白い空気が目の前をちらつく。その間も電話は鳴り続けていた。

 

 

 電話に出た。

 

 

 そしたら、電話口で近くの病院の名前が告げられた。電話の相手は焦ったように状況を説明してきた。

 焦りながら、でも淡々と話される言葉が、俺には一切理解できなかった。

 早く病院に来て下さいと、電話口の人から言われた。俺は「わかりました」とだけ答えて、けれど電話を切った後もどうしたらいいのかわからず、しばらくその場に立ちつくしていた。

 

ひやり、ひやり。

 

 寒い筈なのに、俺はその場から動く事が出来なかった。

 

 どうしたらいい。

 どうしよう。

 

 混乱する中で、突然リビングの扉が開く音が聞こえた。

 

 兄貴が「どうしたんだよ」と言いながら俺に近寄ってくる。俺はなんと言えばいいのかわからず、ただ、「にいちゃん」と言って兄貴の顔を見上げる事しかできなかった。

 

 その後の事は、よく覚えていない。

 ただ、兄貴が俺の手を引っ張って走っており、そして気が付いたら俺は病院に居た。

 

 慌ててやってきた俺達兄弟に、病院の人達は、余り目を合わせてくれなかった。

 その間もずっと兄貴は俺の手を離さなかった。

 

 

 病院の人に通された霊安室。

 

 ひやり、ひやり、ひやり。

 体を刺すような冷気。

 

 俺と兄貴の目の前には、確かに俺達の“両親”と呼ばれている人達が横たわっていた。

 その顔は真っ白で、もう生きている人ではないんだな、と俺はどこか冷めたような気持ちで思った。

 

 隣で兄ちゃんが崩れ落ちたのが分かった。

 

 今日は両親の結婚記念日だった。

 だから、今日はデートだったのだ。

 二人で久しぶりの食事をと、兄弟で両親にプレゼントした。

 

 あの時の二人はどんな顔をしていただろうか。きっと、笑顔だったのだと思うが、俺にはその顔がもうハッキリとは思いだせない。

 

 両親の居ない夜。

 

 兄弟二人きりの夜。

 

 だから、俺達は出前を取った。

 兄貴と俺の大好物のうどん。

 

 近くに結構おいしいうどん屋さがあるのだ。

 

 兄貴はエビ天うどん、大盛り。

 俺は、かけうどん。

 

 いつも、食べに行くと両親が二人揃って「純ちゃんはかけうどんでいいわよね」なんて言うから、俺はかけうどんしか食べた事が無い。でも、そのうどん屋さんのかけうどんは本当においしいんだ。

 

 かけうどんがおいしい店は、多分他のどのメニューだって美味しい筈だ。

 

 途中、兄ちゃんがエビの衣が取れてしまったと、衣の残骸を俺のうどんに押し付けてきた。最後には尻尾の部分も押し付けてくる。

 

 いつもの事。

 いつもの風景。

 いつものやり取り。

 

 けれど、電話が鳴った。

 その電話だけは、全然いつもの事ではなかった。その瞬間、俺達兄弟の“いつも”は消えてなくなってしまった。

 

 

 俺達の中に突然現れた非日常、異常。

 

 

「ウソだ、ウソだ、ウソだ……」

 

 そう、隣で呟く兄貴。

 いつも両親に愛され、好き放題やってきて、顔がいいからモテて。

 そんなクソみたいな兄貴の両親が死んだ。

 

 まだ、まだ子供の兄貴を残して。

 

 両親の愛が全ての受け皿だった兄貴の心と、生活。別に家族仲がめちゃくちゃ良いわけではなかった。

 

 時には喧嘩もするし、兄貴は父さんに殴られた事だってある。

 母さんに叱られてご飯を抜きにされたこともある。

 

 でも、それが家族である当たり前の風景だった。両親は兄貴を愛し、そして兄貴はその愛の中で自由に生きていたのだ。

 

 

 だから、今。

 その最も大きな自分を包んでいた器を無くして途方に暮れているのだ。

 俺の兄貴は両親を失った。

 

 俺は、どうなのだろうか。

 

 俺は……?

 

「兄ちゃん……」

「っ」

 

 俺はとっさに兄貴を呼んでいた。

 何故だかわからない。

 けれど、俺の中の何かが兄貴を呼ばせたのだ。

 

 すると、その瞬間ハッとしたように兄貴は俺を見上げてきた。崩れ落ちた兄貴の目が、ハッキリと俺を捕えた。

 

 その瞬間、色を無くし涙を流そうとしていた目に力が宿るのを、俺は見た。

その目は俺の“兄ちゃん”をしてくれる時の、クソじゃない時の目だ。

そう言えば、電話の後からずっと兄貴はこの目をしていたような気がする。

 

 呆然とする俺に「しっかりしろ!」と怒鳴り、俺のコートとマフラーと手袋を取ってきて俺に着せた。

 

 そして、その後はずっと俺の手を握っていた。

 けれど、両親の死体を見た瞬間、兄貴の手は俺から離れしまっていた。

 

 そんな兄貴の手が、また俺の手を握る。

 その手は少しだけ震えていた。

 

「純……大丈夫だ……。まぁ、大丈夫だ。心配すんな」

「兄ちゃん」

 

 兄貴は俺の存在を思い出して、俺を見て。

 その瞬間ホッとしたような目をした。

 

 学校では、悪ぶって、クールみたいなキャラを演じている兄貴だが、兄貴は誰よりも一人を嫌っていた。

 怖がっていたと言う方が正しいのかもしれない。所以、群れないとイキがれない不良の典型的パターンだ。

 

 兄貴は一人が怖いのだ。

 一人だけで耐えなければならない状況が怖くて仕方ないのだ。

 

 置いて行かれるのが怖いのだ。

 

 だから、受験も、友達の前じゃ「ダリィ」なんて言っていても、家に帰れば必死に机に向かった。俺を殴りながら、文句は言いながら。

 

 けれど、勉強する手は止めなかった。

 

 自分一人だけ入試で失敗して、周りの仲間から置いていかれるのが嫌なのだ。

 だから、勉強だって頑張っていた。

 

 そんな、一人を誰より恐れる兄貴が、両親の死により強制的に一人になった。

 

 と、先程までの兄貴は思った筈だ。

 しかし、俺が「兄ちゃん」と兄貴を呼んだ時。

 

 兄貴は思い出したのだろう。

 

 一人じゃない。

 自分と同じ状況の人間が、もう一人居る、と。

 

 一人で耐えなければならない孤独な状況下と思いきや、兄貴の隣には俺が居た。俺達は兄弟で、同じ場所に住み、同じ物を食べ、同じ親から生まれた。

 

 全て“同じ”

 

 だから兄貴はホッとしたのだろう。

他の誰とも分かち合えないこの不幸の中、俺とだけは同じ不幸を分かち合えると思っているから。

 

 本当はそうじゃないのに。

 俺と兄貴は本当の兄弟じゃないのに。

 

「純、いいか?心配すんな。俺達は兄弟だ。だから……まぁ、一緒だ」

「……うん」

 

 

 通夜、そして葬式の最中。

 兄貴はずっとそんな事を俺に言って、俺を安心させようとした。

 

 否、兄貴は自分を安心させていたのだ。

 

 

「兄ちゃん」

「大丈夫だ、純」

 

 

 そう言い続ける兄貴の顔が、俺の手を握りしめてくる兄貴の手が。本当にずっと、ずっとクソじゃない兄貴の顔だったから。

 

 俺は黙って頷き続けた。

 

 頷きながら俺は、

 

 本当は一人になってしまった兄貴の横顔を見て、ただ何とも言えない空虚な気持ちを感じていた。

 

 兄貴は、一人だ。

 

けれど、兄貴の中では俺が居る。

二人、ずっと二人。

 

 

 

 

 

 

 しかし、そんな兄貴のたった一つの心の支えが、もろく崩れ去る時が、来た。

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