『ヤスキ先生はインフルエンザにかかってしまって学校に来れないので、今日から先生が戻ってくるまでは、教頭先生と一緒に勉強しましょう』
その言葉は教室の入り口に駆けこんだ拓道の耳にもハッキリと入った。
そして、その瞬間、拓道は本気の本気な表情で叫んだ。
『いやじゃああああ!』
叫んだ瞬間、教頭先生はチャイムが鳴っても席にも着かず机の上も片付いていない拓道をこっぴどく叱り付けたのだった。
しかし、そこからの拓道の様子は見るも無残であった。
生きた屍とはまさにこのことかと周りに知らしめる程の、意気消沈ぶりだったのだ。
いつも薄着で、素足でも元気に走り回り、汗すら浮かべる拓道が、何故か今更ながら死んだような目で『寒い、寒い』と言うのだから、忠孝も何も言えなかった。
そりゃ、その格好なら寒いだろ。
と、喉まで出かかったが止めた。
拓道の寒いは体温的なものではない事は、忠孝もよく理解できたからだ。
詩人と言われそうだが、拓道は好きな人の居ない教室で“心”がめっきり冷え込んでしまっていたのだ。
『忠孝……ヤスキ先生は明日来るやか』
『いや、来れんやろ。朝、教頭も言いよったやんか。先生9度くらい熱があるっち。今日9度なら熱が下がってから2日は学校に来られんけん、先生が次学校にくっとは多分、来週やろ』
『来週っち……!そら、むごかばい。オレ、来週まで先生に会われんとね?なんね、ソレ』
忠孝の無常にも現実的な目算は、どこまで行っても事実に他ならなかった。
それをどことなく理解できた拓道の目は、更に絶望へと染まった。
3月には卒業を前にしているというのに。
この1分1秒というのが、拓道にとってヤスキと会える残りわずかなかけがえのない時間というのに。
『むごかばい……』
拓道は呟きながら机の上に顔を埋めた。
もう、今日は……いや、今週1週間は何もする気になれない。
その日の給食、拓道は休みも多くおかわりし放題の給食のデザートのムースじゃんけんに参加しないという、天変地異の前触れといえる意気消沈っぷりを発揮した。
最早、彼を復活させる事ができるのは、その場に居ない“野澤 ヤスキ”彼だけであった。
◇
『それではみなさん、風邪をひかないように帰ったら手洗いうがいをきちんとしましょうね』
そんな拓道の意気消沈っぷりの発揮された1日も、早くも帰りの会を迎えていた。
今日一日6年1組を担当した教頭の帰りの会の進行を右から左へ聞き流しながら、拓道は色の無い目で窓から空を見上げた。
余りの寒さに空気は澄み渡り、空は真っ青だ。
綺麗とすら言える。
そしてその空を見ながら拓道は思った。
それはもう詩人のように思ったのだ。
『(この空は先生のおるところとも繋がっとっちゃんね……けど、先生には会われん。切なか。本当にむごかよ)』
恋は小学生男子をも詩人にするという、良い例である。
しかし、空をぼんやりと見つめていた拓道の目はじょじょに見開かれていった。
そして、やはり詩人のように思ったのだ。
『(空がつながっとるっちゃっけん、オレも先生とつながっとるこの空の下ば歩いていけば、先生にだっちゃ会われる。会われん理由がどこにあるか!)』
恋は人を盲目にする。
思考を奪い、行動力を与える。
拓道はカッと目を見開くとそのまま勢いよく椅子から立ち上がった。
その衝動的な行動に、まだダラダラと手洗いうがい、流行りに流行っているインフルエンザの脅威について語っていた教頭と、それをぼんやりと聞いていたクラスメイト達は一気に拓道へと目を向けた。
『拓道君、どうしました。まだ話し中ですよ。座りなさい』
そう言って冷静に対応しようとする教頭に、拓道は勢いよくランドセルを背負うといつものキラキラした彼の目を復活させて言った。
否、叫んだ。
『オレは会いにいかなんけん!行く!さようなら!』
叫んだかと思えば、その場に既に拓道の姿はなかった。
帰りの会中の静かな廊下を、彼特有のバンバンとうるさい足音が駆け廻る。
その、余りの突然の出来事に教頭もクラスメイト達も、ただただポカンとしていた。
そんな中で拓道の幼馴染たる忠孝だけがマスクの下で笑いを堪えていた。
彼だけが、拓道の向った場所を理解できたからだ。
そして、思った。
『(アイツ、バカばい)』