7:目覚め

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次の瞬間、野澤ヤスキの意識は朦朧とする中で確かに覚醒していた。

体が、頭が、焼けるように熱い。

呼吸一つが苦しく、一体今自分がどこで何をしているのか、しばらくの間理解できずにいた。

 

ぼやけた視界の中、ヤスキは目に映る見慣れた天井を見つめながら、少しずつ自分の置かれた状況を理解していった。

此処は、ヤスキの住んでいるアパートの寝室で、自分は今インフルエンザにかかって仕事を休み寝ているところだ。

そこまで理解して、ヤスキは苦しい呼吸の中、深い溜息をついた。

 

(また、だ)

 

ヤスキは必ずと言って良い程1月下旬から2月の頭は体調を崩す。

今まで40年以上生きてきて、それは紛れもない事実として立証済みだ。

良い大人がそれを分かっていながら同じように体調不良を起こすなど、それは社会人としてあるまじき事だとヤスキは自分の不甲斐なさに、静かに息を吐く。

 

これでも、ヤスキだって出来うる限り最大限の予防策はとっているつもりだ。

手洗いうがいは基本中の基本で、うがいは酸性水で行っている。

インフルエンザの予防接種もしたし、マスクは常備。寝る時の加湿だって完璧だ。

 

それなのに、どうやっても体調を崩すのは最早遺伝的に仕方ないのではとすら思ってしまう。

 

「は、ぁ…っ」

 

頭に敷かれた氷枕は既にただの水枕と化し、額に乗せていたアイスノンはその冷たさをなくし常温になっていた。

 

「いま……何時だ」

 

ヤスキは小さく呟くと、自分のものとは思えぬ程思い通りにならない体を起こし薄暗い部屋を見渡す。

そしてベッドの脇に置かれたスタンドの明りをつけて時計を見れば、時間は既に夕方の6時を回っていた。

 

(もう、6時)

 

昨日から体調を崩し、今朝起きたら熱が9度を超えていた。

ヤスキは嫌な確信と共に病院へ行くと、そこで予想通りインフルエンザの宣告を受けたのが朝の10時。

フラフラと帰宅して、どうにかヨーグルトだけ口にし、薬を飲んで眠りについたのが12時頃だった。

故に、もう既に6時間は眠っていた事になる。

 

なのに、体調はちっとも回復の兆しをみせない。

それどころか、節々の痛みや頭痛は今朝よりも酷くなっているように思われる。

きっと、夜になればもっと熱は上がるのだろう。

 

そう思うと、ヤスキはこのまま自分は死ぬのではないかと本気で思った。

その、熱の時特有の突飛な不安と恐怖と共に、ヤスキはふと先程眠っていた時に感じた妙に胸のつまった感覚を思い出した。

 

「……ゆめ、みてた」

 

そう、先程までヤスキは熱にうかされながら夢を見ていた。

何の夢か、ハッキリとは覚えていないが一つだけ覚えている事がある。

 

「拓道君が……出てきてた」

 

そう呟き、ヤスキは妙に泣きたい衝動に駆られた。

それは熱が辛いわけでも、体が痛いからでもない。

ただ、それは熱によって弱った心が引き起こすごく当たり前の感覚。

 

ヤスキは今、とても心細く寂しい想いでいっぱいだった。

 

そして、その心細さと共に浮かんでくるのは、あの元気で利発的で、ヤスキに新しい世界を見せてくれる恋人。

ヤスキは現在、平川拓道にむしょうに会いたくなってしまっていたのだ。

 

「……はぁっ、はぁ」

 

しかし、それはできない相談だ。

彼は今仕事で大阪に居ると言っていた。

昨日、体調が崩れかけている時に電話の向こうの拓道が笑いながらヤスキにそう言ったのだ。

 

(東京におる時より先生との距離が近かけん、なんか嬉しかね)

 

なんて、恥ずかしげもなく言ってのけた拓道の言葉が耳の奥で聞こえてくるようだ。

 

「ん。うれし、いね」

 

ヤスキはベッドの上で膝を抱えると、心細くなっている自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

呟いた言葉が本当か嘘かなんて明白であったが、ヤスキはその言葉を必死に“本当”にするしかないのだ。

 

毎年、体調を崩した時は一人でなんとも思わずやってこれた筈なのに。

ずっとそうやってきた筈なのに。

去年、突然ヤスキの人生の前に現れた旋風のような彼は、いつの間にかヤスキをこんなに弱くしてしまった。

 

12歳も年下で、生徒だった彼は、今やヤスキの人生において欠かせない大切な人だ。

だからこそ、会いたくてしかたがない。

そんな心細い想いが見せた夢は、なんとも懐かしく、そして暖かいものだった。

 

少しずつ思い出されてきた夢の詳細に、ヤスキは懐かしい気分になる。

あれは夢というより、追憶だ。

 

今と同じようにヤスキがインフルエンザに倒れていた時、小学生だった拓道は、彼特有の行動力でヤスキの家までやって来た。

 

ヤスキの寂しさを取り払う為に、インフルエンザをやっつける為に。

 

結局、ヤスキはあの後インフルエンザで上がる熱を抱えながら、拓道を自宅まで送った。

長縄大会で優勝して欲しい、なんて口から出まかせのヤスキの願いの為に、拓道は不満そうな顔をしながらも、ヤスキに背を向けた。

最後まで一緒に居たいと愚図る彼を、ヤスキは彼の優しさに付け込む形でその場を収めたのだ。

 

「でも、拓道君は……やっぱりすごかったね。ちゃんと、優勝、したもんね」

 

ヤスキは心細さをかき消すように、無理に笑って過去を振り返る。

 

あの時、ヤスキが職場に復帰した日。

朝から誰も居ない教室を前にヤスキが目を見開いていると、6年1組は全員外で長縄飛びの練習をしていた。

 

誰が先導したかなんて見ていればすぐに分かった。

 

『みんなー!足元ばっかに気ば取られよったらいかんばい!頭!上ん方も気をつけな!もう一回行くけん!せーのっ!』

 

そう言って、ヤスキの家に突撃してきた時のまま拓道は元気の塊のような姿で校庭で長縄を回していた。

見ていると、一人一人にアドバイスのようなものまでしているではないか。

 

その姿に、ヤスキはまたなんとも言えず胸を熱くしたのを覚えている。

自分との約束を必死に守ろうとしてくれる拓道の姿に、ヤスキの胸は酷く締めつけられた。

 

あの時は子供は純粋だ、なんて可愛いんだろう。

なんて、そんな的外れな事を思っていた。

けれど、拓道はあの時既にヤスキの事を“好き”で居てくれたのだ。

“好きな人”との約束をかなえてくれようと必死になってくれていた。

 

 

「…………だめだ」

 

そこまで考えてヤスキは自分の意思とは無関係に目の中に溜まってくる涙の膜を、必死に袖で拭った。

いけない、いけない。

拓道の事を考えると、どうあっても泣きたくなってしまう。

 

彼は今仕事で、もし休みでも会えはしないのだ。

会って、もし拓道にインフルエンザが移ってしまったりなんかしたら、それこそヤスキは自分を許せなくなる。

 

 

ヤスキは女々しい自分の考えを振り払うかのように無理やりベッドから降りると、ぬるくなったアイスノンと氷枕を持って冷え切ったキッチンへと向かった。

食欲は一切ないが、なんでもいいから口にモノを入れて薬を飲まなければ。

 

そう思ってヤスキが蛇口をひねろうとした時だ。

 

 

ピンポーン。

 

 

玄関のチャイムが鳴った。

 

 

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