8:またやって来た!

 

「え?」

 

 

こんな時間に誰だろう。

ヤスキはとっさにそう思ったが、その考えは次の瞬間消え失せた。

 

ピンポンピンポンピンポンピンポン。

 

デジャビュ。

ヤスキは先程の夢の中に出てきた光景を現実で追体験しているような感覚に陥った。

こんな元気で非常識なチャイムの鳴らし方をする人間は、そうは居ない。

それが、ヤスキの知り合いの中に限定すれば、もう答えは一人しか居ない。

 

「っぅ、あ」

 

呆気に取られながら連打されるチャイム音を聞いていたヤスキだったが、次の瞬間チャイムの音はピタリと止まった。

ここからがあの夢と現実の違い。

あの時の彼はチャイムを鳴らしてヤスキが玄関の扉を開けるのを待つしかなかった。

 

12歳の彼はそうするしかなかった。

けれど、今は違う。

33歳の彼は持っているのだ。

 

ガチャリ。

 

ヤスキの家の、合鍵を。

 

「ヤスキ先生―!俺、来たばい!生きとるー?」

 

そう言ってガチャガチャと音を立てて部屋へと入ってくる拓道に、ヤスキはとっさに戸棚からマスクを5枚取り出した。

取り出して無理やりソレを装着すると、ふらつく体を引きずりながら玄関へと走った。

 

フラフラするし、冷え切った玄関は寒くて体中ゾクゾクする。

しかし、目の前に当たり前のように現れた恋人の姿に、ヤスキは表情を歪めた。

 

そんなヤスキに拓道は彼特有の快活な笑みを浮かべて言った。

 

「ヤスキ先生?インフルエンザげなね?大丈夫?ってか、マスクそれ何枚しとるとよ?」

「った、たく、たくみ君。どうして……此処に」

 

笑う拓道に対して、ヤスキは一体どういう顔をすればいいのやら分からなかった。

会いたいと思っていた所に、こうして当たり前のように現れる拓道は、比喩でも誇張でもなくヤスキにとって英雄、ヒーロー、王子様。

そういう言葉で表現して差し支えない程に、それらしい。

 

けれど、それと同時にそんな喜びの感情だけ表に出す事が出来ないのがこの現実の世の中だ。

 

仕事はどうしたのか?

どうしてインフルエンザだと知っているのか?

もし移ってしまったらどうするつもりなのか?

 

それはもう、あの夢の中の自分とまったく同じ思考回路だ。

嬉しい、けれどそれではダメだ。

 

そんなヤスキの心の葛藤など素知らぬふりをしながら、拓道は片手にコンビニの袋を抱えて何でもないように一歩、また一歩とヤスキに近寄ってくる。

そんな相手にヤスキは一歩、また一歩と後へ下がる。

 

「先生に会いにきたとよ。昨日の電話から何か先生の様子がおかしかっち思ってね。今日、学校に電話させてもらったと。そしたら、先生インフルエンザで休みっち言うやん?やっけん来た。先生も、オレに会えんくて、寂しかったろう?会いたかったろう?俺も先生ん事が心配で仕事どころじゃなかし」

「………っ」

 

まったく、なんて事を言うのだろうか。

ヤスキは何だかいろんな感情がないまぜになった、奇妙な気持を吐きだすようにあ「はぁぁぁん」と鳴き声を漏らすと、その場にうずくまった。

 

「だめだめだめだめ。なにしてるの、帰りなさい。もう、キミは何を考えてるの。もう、ほんと。なにしてるの、もう、もう」

 

蹲りながら必死にそう言った。

あの頃は、勢いよく言えたその言葉が、今では言うのがとても難しい。

とてもじゃないが、拓道の目を見ながら言えそうにない。

 

「なんで帰らんといかんと?こんか先生ば置いて?俺にどこに帰れっち?」

「…………しごとに」

 

どこか落ち着いたようにヤスキの頭上から降ってくる言葉に、ヤスキはただただ蹲って彼の足だけを見て呟く。

これではどちらが子供か分からない。

 

「意味わからん。仕事に帰るっち。俺ん帰る場所は仕事じゃなかし。俺が今、この状態の先生ば置いて帰らやん根拠ば言ってばい」

 

あの時のように、そんな事を言ってくるものだからヤスキは思わず顔を上げて叫んだ。

 

「キミにインフルエンザが移るかもしれないからに決まってるじゃないか!キミももう大人だから分かるだろ!なんで自分から体調を崩すようなろころに来るかな!?もしキミがインフルエンザなんかになったら迷惑する人がいっぱいいるでしょう!?なんで、そういうの考えないの!?いい加減にしなさい!」

 

 

叫びながらヤスキはもう自分の気持ちがどこへ向かっているのか、自分自身意味が分からなくなっていた。

 

あの時は子供だった彼の純粋さが嬉しくて、ただたしなめるように言葉を紡いだ。

 

しかし、今目の前に居るの彼は33歳。

立派な大人で、業界人で。

彼を求める人はたくさん居る筈なのに、大人なのに。

どうして、どうして。

 

寂しかった。

会いたかった。

一緒に居たい。

来てくれて嬉しい。

 

根底にはその想いでいっぱいな筈なのに、現実がヤスキの発する言葉を気持ちとは異なるものにする。

熱が上がる、寒い、辛い。

 

ヤスキは必死に拓道の目を見つめながら叫ぶ。

うっすらと涙の膜が瞳を覆う。

けれど、今はそれを拭っている暇はない。

 

ヤスキは一刻も早く拓道を此処から出さねばならないのだ。

あの時のように、彼の手を引いてでも。

 

しかし、その想いは次の瞬間ヤスキの息を呑む音と共に消え去った。

ヤスキの見つめていた拓道の目が、スッと細められたのだ。

 

ただ、それだけの事なのに、ヤスキは背筋が冷え切るのを感じた。

 

自分を見下ろしてくるその目が、とてつもなく静かに怒っているのが分かったからだ。

 

「いい加減にするのはアンタでしょう」

「っ」

 

そう、静かに放たれた言葉は、テレビで聞くような綺麗な標準語であったものの、それはテレビでは聞いた事がない程冷え切っていた。

ヤスキは短く息を吐きながら、けれど拓道から目を逸らす事ができなかった。

 

「アンタ、いつまで俺の事を子供扱いすれば気が済むんですか?大人だから分かってますよ。周りに迷惑かける事も、自分が居ない事で空く穴の大きさも。全部分かった上で来てるに決まってるでしょう。それに何なんですか。俺の帰る場所はいつから仕事になったんですか。ハッキリ言いますけど、あんたが俺のものになってから、仕事は全部二の次ですよ。周りの事とか知らない。どうでもいい。あんたが一番という行動理念のもと俺は動く。だから、それによって生じた不都合は全部俺は自分でケリをつけるだけの覚悟がある。わかるか?あんたが俺にとって一番なんだよ。もう力の無い、あの時の俺じゃない。あんたが手を引いたって俺はもうあんたに引きずられて帰ったりしない。ここに、俺は帰ってきたんだ。もう一度言いう。俺はもう、子供じゃないんだ。ヤスキ」

 

一気にまくしたてられて放たれた言葉は、彼の渾身の怒りがこもっていた。

目は薄く細められ、睨まれる。

見下ろしてくる拓道の、なんと大きな事だろうか。

 

しかし、そんな拓道にヤスキが背筋を凍らせたのも最初だけだった。

放たれる言葉を聞くたびに、ヤスキの中にあった“現実”が壊れて、底にあった本来の気持が表に湧き上がってくる。

 

そして、ヤスキは程なくして悟ってしまった。

 

もう、自分は。

 

「っふ、ふぅぅぅ」

「よしよし、先生。泣かんでよかよ。オレが一緒におっちゃるけんね。先生のインフルエンザはオレが倒すけんよかよ。先生、はよ寝らんね」

 

拓道の手を引くなんて、出来なくなってしまった。

手を引くなんてできなくて、むしろ、もう逆なのだ。

 

ヤスキはシクシクと涙を流しながら肩を震わせると、いつも通りの口調に、いつも通りの笑みを浮かべた拓道によって手を握られていた。

 

握られ、頭を撫でられ、耳元で囁かれる言葉は、21年前のまま。

なのに、そっと手を引かれるのは拓道ではなくヤスキの方だ。

 

「ふぅぅ……きつい。きついよう」

「大丈夫、大丈夫やっけん。先生。俺がずっと一緒におってやるけん」

 

ボロボロと涙を流すヤスキの手をしっかりと握りしめ、肩を抱く。

 

その拓道の顔に浮かべられた笑みの、なんと満たされている事だろうか。

もう子供故の無力さを前に悔しい想いをせず、存分に恋人を甘やかし、優しくし、頼ってもらえるという事の幸福が、今の拓道にはあった。

 

「先生、答え合せばさしてね」

「………っふ、ん」

「先生?俺に会いたかったろう?寂しかったろう?一緒におりたかったろう?」

「っひく、っひく……うぅ。うん、うん。ぅん……会いた、かった。ざみし、かった。いっしょに、居たかっ、た」

 

必死に涙を擦りながら、嗚咽まみれで答えられるその言葉は、拓道の全問正解を意味していた。

それは、言葉だけでなくヤスキの体全体で拓道に正解だと伝えられる。

顔は熱と興奮で真っ赤になり、左手は拓道の体を必死に掴み、目は真っ赤になりながらも拓道から逸らされる事はない。

 

「今回のは、がば簡単やったよ。先生に成りきらんだっちゃ、想像するだけですぐ分かった。今日は来て正解。俺、天才ばい」

 

 

そう言って笑う拓道に、ヤスキもつられて笑う。

そんな二人の背中はゆっくりと寝室へと消えた。

 

 

 

 

 

【忘れらない記憶より、愛の手を】

おわり

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