パターン2)ヤスキ編(ハッピーエンド)
書きたい部分のみ抜粋
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【新しい記憶より、愛をこめて】
「平川さんのご携帯で間違いなかったでしょうか」
「落ち着いて聞いて下さい。野澤ヤスキさんが交通事故にあわれました」
そう、突然、拓道の携帯にかかってきた見知らぬ番号からの連絡は、拓道の思考を停止させるのに十分な威力を持つものだった。
ただ、その言葉の後に続いた「命に別状はないらしい」という言葉が拓道の思考を停止させずに済んだ。
けれど、その後急いで病院に向かった拓道を待ちうけていたのは、ただ、ただ残酷で不条理な現実だった。
「……貴方は、誰ですか」
「っ!」
病院のベッドに横になっていたヤスキには外傷はなく、一見すれば事故にあったとは思えない程“普通”に見えた。
しかし、その口から発せられる言葉は、彼が既に“普通”でない事を、医者の説明より先にヤスキに伝えた。
その日を境に、ヤスキの中で拓道の存在は「一生忘れられない」人物ではなくなった。
平川拓道という人間は、ヤスキの中から綺麗さっぱりなくなってしまったのだ。
◇
「おい、忠孝……先生の記憶ばどうにか戻してくれ」
「……俺には、無理だ」
拓道は病院の中庭にあるベンチに腰掛け、項垂れながら自分の親友である伊藤忠孝に言った。その言葉の中にあるのは、ただひたすら縋るような懇願だ。
項垂れ、肩を落とし、弱弱しくそう呟いてくる拓道の姿に、その隣で白衣を着たままの忠孝は、ただひたすら首を振る事しかできなかった。
奇しくもこの病院は忠孝の勤務する大学病院。
忠孝はこの大学病院の心臓外科のエースだ。
しかし、そんな忠孝にもヤスキの記憶についてはどうする事も出来ない。
目に見える怪我や難病と言われる病気になら、忠孝もどうにか手を尽くして動く事ができる。
しかし、それが“記憶”となれば話は別だ。
「悪かね……専門外たい」
そう、本当に悔しそうに呟く忠孝に拓道は顔を上げた。
「なんかっち……ソレ。お前ほんと、がっぽり診療報酬ば国から患者からせしめよる癖に、肝心なところじゃマジで役立たずやんか。マジで、お前ほんと……地図でも書いてろよ!?」
「どうにもならない現状に苛立つのは分かるばってんが……。つか!この状況でも俺に地図製作ば強要してくる元気のあるなら、お前、意外と大丈夫ごたな!?」
そんな忠孝の言葉に、拓道は「は」と短く笑った。
「俺、切り替えん早か男として名ば馳せ取るけんな。伊達にバラエティの司会ば掛けもっとらんぜ。お前が無力発言ばした段階で、意外と前向きになった。自分自身びっくりたい。ありがとよ、無力な医者よ」
「……お前いちいちムカツクっちゃけど」
「※1医龍の朝田は言いよったばい。『技術のない外科医は、それだけで罪だ』っち。ばりかっこよかったけんね。その定義で行くとお前はもう罪ぜ。罪人ぜ?あ?」
「いやいや!待て!?俺の手術の腕は自分で言うのも何やけど、良いけんな!?多分朝田も記憶はどうにもしきらんぜ!?」
「ブラックジャック先生がおったら……」
「……あっちょんぶりけ」
そこまで淡々と会話し、忠孝は隣に座る拓道を見た。
その時映った忠孝の顔は、既に通常運転へと戻っていた。
「……空元気じゃなかところが、マジ尊敬に値すっけんね。お前」
忠孝はいつの間にか、訳のわからないタイミングで前向きになっている忠孝に乗っかりながらも本気で戸惑った。
最初にヤスキの記憶がなくなった事を知った時の拓道のあの絶望の顔が、今や本気で前を向いている。
「何だコイツ怖い」以外の何物でもない。
「まぁ、忘れたもんはしゃーなかたい。ともかくヤスキ先生が生きとるなら、今後はどうにだっちゃなる。お前は無力な医者で終わりばってん、俺は有能なアナウンサーであり、頼りになるヤスキの恋人やけんな。なんとかなるぜ」
「その自信はどこからくっとよ?」
「ま、俺は30年以上俺ばしとるけん、この俺が上手い事するやろうっちゆう俺自身への信頼は厚かぜ。まぁ、見とけ。無力な医者よ」
「お前……がばムカつく」
病院の中庭で白衣の男とスーツの男はかなり低いテンションではあるものの、徐々にテンションが上向きになりつつあるのを自身で感じた。
互いに心の底にあるのは「まぁ、なんとかなるやろ」という、その一点だけだった。
◇解説◇
※『医龍』
2002年より、『ビッグコミックスペリオール』(小学館)にて連載を開始。2011年4号にて完結。フジテレビにより4回のドラマ化を果たしている。
ハイジが大好きな医療漫画。
ヤスキが記憶喪失になっても拓道はけっこうすぐに前向きに考える。
『まぁ、生きてるならどうにだってなる』と。
拓道の自分に対する「なんとかする」という、自分への信頼はなみなみならぬものがある。
「え?貴方は俺の恋人だったんですか?俺、男みたいなんですけど?」
「愛や恋に、性別なんて関係ないのが現実ってもんなんですよ。これが」
ヤスキが記憶を失ってからの拓道は凄まじかった。
毎日、ヤスキの病室へと通いつめ、すぐにヤスキにも自分達が恋人同士だった事を告げた。
『医者からは脳に負担をかけるのは得策ではい云々』と口がしょっぱくなる程言われたのだが、そんな事拓道には関係ねぇ!状態だった。
「……すみません。何も覚えていなくて」
「いやいや、ヤスキが全てを忘れている事は現在まったく一切問題じゃないんだよ!こーれが!今は男同士やけん気持ち悪かとか、そういうのがあって不思議じゃない!しかし、俺はまぁ、ヤスキと恋人同士であるとう事を諦めたくない為!ここに一つ宣言させてもらおう!」
忠孝は病院のベッドでただぽかんとした顔で拓道を見ていた。
突然目の前で雄大に、そして一つの絵になるような弁論を繰り出してきた、己の恋人だったという男に、ヤスキはなんとも開いた口が塞がらないというのを地でやってのけてしまったのだ。
「無理に記憶なんか、思い出さなくてもいい!というか!そんな事必要なし!俺はまた今のヤスキと一から恋人になっていく楽しみを得た訳だから、ヤスキはどうぞありのままの自分で楽しくお過ごしてください!俺の、俺による力でまた、ヤスキは俺に惚れるだろう事は火を見るより明らかなので!そして、ヤスキはまた俺と雪だるま作ろう!」
「俺達は雪だるまを作る仲だったんですね」
「いや、一度も作った事はない!そしてもしそうだとしても、それは一体どんな仲だろうか!」
「ふふっ」
記憶を失ったヤスキが数十年前爆発的にヒットしたディズニーの映画のネタを知る筈もなく、ヤスキはただただ目の前のいやに陽気な男の言動に振り回されていた。
しかし、記憶もなく自分は一体誰なのかすら分からない現状での不安が、徐々に男との会話で無くなりつつあるのも、また確かに感じていた。
「つまり、俺が言いたいのは!ヤスキの記憶があろうとなかろうと、ともかく俺は今の新しいヤスキと新しい記憶を作っていこうと意気込んでるという事だ!つまり!雪だるま作ろうって事である!」
「わ、分かりました!作りましょう、雪だるまを!」
「まだ5月だけどな!」
「ら、来年あたりにでも……!」
「そう俺達には、まだこれから雪だるまを作るチャンスがいつまでもあるのだ!」
「そうですね!」
そんな、訳の分からない会話を通して、ヤスキはただ拓道につられるように前向きになっていた。
ヤスキはただ嬉しかった。
記憶を失くす前の自分を求められず、今の自分のままでいいのだと高らかに笑う目の前の男の言葉が。
拓道から全てを告げられても、ヤスキは医者の心配しているような『脳に負担をかけると云々』と言った自体には一切ならなかった。
それどころか、この一番不安定なタイミングでどんな自分でも受け止めて貰えるという体験をした事で、ヤスキの心は壊れずに前を向く事ができたのだ。
この時既にヤスキは男同士という事など関係なく、拓道を心から信頼するにいたったのだ。
◇解説◇
と、まぁこんな風に拓道はヤスキの不安を取り払いつつ愉快に楽しくをモットーに毎日病院へと通い続ける。
拓道も最初は若干空元気的なところがあったが、確かにまたイチからヤスキに好意を向けられていく過程を味わえる日々に、本気の喜びを抱きはじめる。
事故があったとは思えない程、お互いいきいきしまくる。
「じゃーん!ここが俺とヤスキの愛の巣です!ここで俺達は健やかな時も病める時も、ムラムラした時も共に過ごしましたー!」
「……うん」
ヤスキが退院した日。
その日、ヤスキはいつもの元気がなかった。
ただ、いつものように元気な拓道の後ろをトボトボという擬音がつきそうなテンションで歩いていた。
そんなヤスキに拓道も気付いてはいたが、ともかく彼は明るく振るまうのを止めなかった。
「ごめんなさい。俺、やっぱり何も覚えてません。何も、懐かしいものがありません」
そう、ヤスキは拓道との思い出の詰まっているであろう部屋を前に目を伏せて言った。
こんなにも優しく楽しくヤスキに尽くしてくれる拓道が居るのに、自分はどこまでいっても過去の記憶の片鱗すら見つける事ができないのだ。
それがヤスキには悔しく、そして腹立たしかった。
しかし、拓道はそんなヤスキに快活に笑ってみせる。
それはもうなんて事無いように。
「それは良い!同じ家なのに、2回も新居気分を味わえるなんて!お得極まりない!俺もヤスキにこの家を紹介するという事で同棲序盤の甘酸っぱさを再度体験できるなんて!お得どころの騒ぎじゃない!さて!中に入ろうか!」
「……っは、はい」
拓道の大きな手で腕を引っ張られながら、ヤスキは見覚えのない部屋を次々の紹介された。
部屋を紹介する際、拓道は一度も昔のヤスキがどうだったという話は一切しない。
全て自分がいかにこのキッチンを、風呂場を、リビングを使っていたのかを大仰に面白く語りつくして行く。
そんな、拓道にヤスキは己の中に巣食っていたモヤモヤを片隅に追いやりながら、ただ自分の手を引く男にどうしようもなく惹かれていくのを止められなかった。
「そして!ここが俺達の愛の迷宮!ベッドルーム!」
「…………」
しかし、ヤスキに巣食っていたモヤモヤは彼の言うところの愛の迷宮に迷い込んだ途端に、またしても頭をもたげた。
そこでヤスキはやっと、そのモヤモヤの正体に思い至ったのだ。
「ずるい……」
「へ?」
ヤスキはただ、記憶を失くす前の自分に強烈な嫉妬心を抱いていたのだ。
拓道の愛を一身に受け、きっと楽しい日々を送り、自分の記憶にはないが彼に抱かれた事だってあるのだろう。
そう、思うとヤスキはただひたすら腹立たしく、どうしようもない苛立ちを感じてしまったのだ。
「ずるい、ずるい!どうして……俺はキミとの記憶がないんだ!忘れる前の自分ばっかりキミに愛されて。俺は今すごく怒りたいよ。自分自身の事だとしても、そんなの腹が立つ。イライラする!」
「…………」
ヤスキは自分でもめちゃくちゃな思考の中、ただ明確に、分かる苛立ちを理屈など通らない言い分でぶちまけた。
ともかく、ヤスキは記憶喪失になる以前の自分を見つけて「拓道君は俺もものだ」と大いに叫びちらしたかったのである。
そんなヤスキに拓道は、次の瞬間思わぬ事を口走った。
「……おかしな事を言っていい?」
「?」
「セックスしよう!」
「っ……っは、はい!」
もちろん。
記憶のないヤスキには、それが一体何のフリでネタなのか分からなかったが、少しだけ、ネタとして成り立つ返答を二つ返事してしまった。
◇解説◇
「アナと雪の女王」を一度も見た事がありません。
そして、結局二人はその後数年間ヤスキが記憶を失う前と同じように恋人として、途中からは夫婦として過ごしていった。
ヤスキは知らないが、拓道が記憶を失う前にヤスキと約束していた事は全てやった。
一戸建ての家を建て、世界を回り、共におはようからおやすみまでを共に過ごしていったのだ。
そして、それは静かに起こった。
静かに起こり、静かに流れた。
「ヤスキー、ここ今度の休みに行こう」
拓道は旅行雑誌をめくりながら隣で本を読むヤスキに語りかけた。
拓道は何も言わないが、そこはヤスキが記憶を失う前に、拓道と初めて泊まった旅館だったのだ。
しかし、拓道は聡く優しい男であるため、今までも同じような状況が何度もあったがそれらは全て「ヤスキと初めて行く場所」として振舞った。
記憶を失ったヤスキを初めて抱いた日のヤスキの言葉を、拓道は心に刻んでいるのだ。
過去の自分に嫉妬し表情を歪めるヤスキは、とても貴重で、拓道にとっては愛おしい事この上ないものであるが、ヤスキにとってはそうではない。
故に、拓道はその旅館も二人で初めていくかのようにヤスキに誘いをかけたのだ。
しかし。
「あぁ、そこ!懐かしいねぇ、そこ。俺もまた行きたい」
「…………」
思わず笑顔で返ってきたその返答に拓道は一瞬反応が遅れた。
(あ、れ?)
その一瞬の間で拓道は素早く思考した。
拓道の記憶力は並みではない。
それがヤスキにまつわる事であれば、尚の事だ。
故に、この旅館はどう考えても記憶を失う前のヤスキと行ったっきり行った事がなかった場所だ。
なのに、ヤスキはハッキリと「また」行きたいと行った。
その時、拓道の頭に過去のヤスキの言葉が木霊した。
『先生、最近物忘れが激しくて、その年1年なにがあったのか、それはいつの出来事だったのか、よく分からなくなったりしててね』
あの、拓道の想いがハッキリとヤスキに通じたあの日のヤスキの言葉が。
拓道に一つの真実を示した。
そして、次の瞬間全てを理解した拓道はいつものように笑ってヤスキに返事をした。
「うん!また行こう!早いとこ予約せやんね!」
「ふふ、楽しみだなぁ」
ヤスキの記憶は戻っていたのだ。
そっと、静かに、いつの間にか。
それが余りにも自然で、記憶喪失前後の拓道との同棲生活に大差がなかったせいでヤスキ自身気付けていなかっただけなのだ。
記憶喪失前のヤスキも後のヤスキも、いつの間にか一つになって拓道の前で微笑んでくれていたのだ。
その事実に、拓道は全幅の信頼を置いていた自分自身に向かって呟いた。
「やっぱ俺、天才ばい。無能な医者とは大違いね。ブラックジャック並みたいね」
「へ?あ、ぁ!……あっちょんぶりけ?」
「何ソレ、先生ばり可愛かっちゃけど。あぁぁぁ、おかしな事言っていい?」
「?」
「セックスしよう!」
「ふふっ。俺もおかしな事言っていい?
もちろん!」
おわり
◇解説◇
アナと雪の女王は見た事ないけど、見たかのように振舞って過ごしている私の真骨頂とも言えるお話にお付き合い頂き誠にありがとうございました。
バッドエンド編とか比べ物にならないラブラブな雰囲気になってひと安心である。
以上【忘れられない記憶】×記憶喪失ネタでした。