そして、兄貴は俺を抱きしめた(3)

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「優君、お母さん達の事、大変だったわね」

「……いえ」

 

 

 

 俺は通夜も葬儀も終え、小さな箱におさまってしまった両親を背に、奥の部屋から聞こえてくる兄貴と、親戚の声を聞いた。

 

 兄貴達が居るのは座敷。

 俺が立っているのはその前の廊下。

 座敷と廊下のふすまは綺麗に閉められている。

 

 

 兄貴の声に重なって、鼻をすする音を響かせている親戚は母の姉に当たる人。

 言うなれば、兄の伯母。

 俺にとっては、赤の他人。

 

 そう、血の繋がりのない真っ赤な真っ赤な赤の他人。

 俺は一人廊下で、ぼんやりと扉を挟んだ向こう側の世界の声を聞いていた。俺には到底足を踏み入れる事のできない、遠い世界が、そこにはあった。

 

 俺は先程、その伯母に近くのコンビニで好きな物を買ってきなさいとお金を渡された。

「おつりはいらないからね」と微笑んだ伯母の顔が俺の脳裏をよぎる。

 

 最初は、少しだけ浮かれてしまっていた。

 千円札なんてめったに手元に来る事がない、俺にとっては大金だ。

 

 だから、自分だけ好きなモノを買ってこようかと思った。その時の俺は、本当に、本当に少しだけ浮かれてしまっていたのだ。

 

 が、俺だけ好きなものを買ったのが見つかれば、兄貴に何を言われるかわからない。

 そう思った俺は兄貴は何か欲しいものはないか聞こうと、兄貴を捜していたのだ。

 

 そしたら、“声”が聞こえていた。

 

 兄貴と、伯母の声が。

 

「あの……話って、何?おばちゃん」

「今後の事でね、ちょっと話があるのよ」

 

 涙を堪えるような兄貴の声。

 少し罪悪感を含んだ伯母の声。

 

(あぁ、そういうことか)

 

 その二つの声に、俺は悟った。

 伯母は、兄貴だけを引き取るつもりなのだ、と。

 

 まぁ、確かにそれが道理だろう。

 俺は母方の親戚とは赤の他人なのだから。

 父親の方にはもう親戚と呼べる存在は居ないのだ。

 

 俺の本当の父親も死んだ。

 その父親の弟である今の父も死んだ。

 祖父母も、居ない。

 

 俺は本当に一人になったのか。

 

 俺はふすまのこちら側の、たった一人の世界でぼんやりと天井を仰いだ。

 

 兄貴は俺と同じだと思っているかもしれないが、本当はそうではない。

兄貴は一人ではないけれど、俺は一人だ。

今までだって、ずっと一人だったじゃないか。

 

 俺は手渡された千円札をクシャリと握りしめると、ふすまの向こうから聞こえてくる声に耳を傾けた。

 

「優君をね、私達の家で引き取ろうと思うの」

「………え」

「だって、優君。これから高校受験でしょう?できれば住み慣れた家の近くで、同じ校区で受験したいだろうし、その方が安心だと思うの?どう?」

「……っ!」

「ほらほら、泣かないの」

「おばちゃん……ありがとう……」

 

 兄貴の泣く声が聞こえる。

 俺の前じゃ、泣かなかった兄貴。

 

 一人だと思っていた所に指し伸ばされた手。

 暖かい言葉。

 血縁という唯一無二の盤石な繋がり。

 

 そして、友達と離れずに住み慣れた土地に住み、生きていける事への安心感。

 

 兄貴はまだ一人じゃない。

 じゃあ、俺は?

 

 その問いの答えは出た筈なのに、俺は諦めきれずに天井を仰ぎながらふと思ってしまった。

こちら側の世界と、あちら側の世界。

遮るふすまは簡単に開くけれど、それは俺にとって絶対開けられない、重い重い扉なのだ。

 

 俺は、一人なのか。

 

「心配しないで。優君。あなたの事は妹に代わってしっかりと面倒をみるから。おばちゃんの家を自分の家だと思って貰っていいんだからね」

「うん……うん……!」

 

 そう、しばらく俺の耳に聞こえてくる兄の泣き声。それを宥めるおばちゃん達の声。

 

 俺の手の中にあった千円札は、もうグシャグシャだった。

 あぁ、もったいないな、なんて頭の片隅でぼんやりと思っている俺は、もう全てが麻痺してしまったように何も感じていなかった。

 

 そして、やっと兄貴の涙が止まった頃。

 兄貴は鼻の詰まったような声で、おもむろに口を開いた。

 

 

「純にも……知らせてくる」

 

 

 俺はドキリとした。

 麻痺していた心が少しだけ何かを感じた。

 

 あぁ、そうだ。

 兄貴はまだ分かっていないのだ。

 俺が本当の弟ではない事を。

 自分の弟が、本当は兄弟でもなんでもない事を。

 

 だから、この話も、俺と一緒だと思っている。二人一緒、兄弟一緒。

 兄貴の日常は、俺を含めて日常になるのだ。そう思うと、俺は居ても立ってもいられなかった。

 

(兄ちゃん、違うよ、違う)

 

 俺は、違うんだ。

 麻痺した心が、疼き出す。

 その痛みは少しずつ広がっていく。

 何もなかった心が、様々な感情で埋もれ始める。

 

 俺がすうっと息を吸い込んだ時。

 

「優君……違うのよ」

「へ?」

 

 伯母が、言いづらそうな声を上げた。

 両親が言わずに逝ってしまった家族の大きな秘密を、親でもない伯母が言わなければならない。

 なんと重い、迷惑な大役だろう。

 

 

「引き取るのは……優君だけなの」

「っな、なんで!?俺だけなんだよ!?」

 

 ふすまの向こうの世界が揺れる。

 俺の知らぬところで、俺が原因で、揺れる、揺れる。

 

 

「あのね、ちょっと混乱するかもしれないけど、落ち着いて話を聞いてほしいの!」

「なんだよ!おばちゃん達も純が嫌いなのかよ!?俺とあいつ、一応兄弟だぜ!?俺だけってさすがにここではおかしいだろ!?」

「優君、落ち着いて!」

「それとも純は別の人引き取るのか!?誰だよ!?」

「違うの!」

「山岡のおじちゃんか!それとも静谷のおばちゃん達か!なぁ、純はどこに行くんだ!?」

 

 

 慌てた様子の伯母の声と、兄ちゃんを宥める親戚達の声。バタバタと音のするふすまの向こう。

 一体、兄貴は何をやっているのだろう。

 俺はこちら側の世界で少しだけ笑ってしまった。

 

 やっぱり、兄貴は兄貴だ。

 ジワジワと広がる心の痛みの中に、少しだけ暖かいものが混じった。

 

 その暖かさは、俺の心の兄貴にまつわる部分。ずっと俺は一人ぼっちだったけれど、兄貴の中ではずっと二人だった。

 

 兄弟だった。

 弟だった。

 家族だった。

 

(あぁ、兄ちゃん……)

 

 まったく。

 引き取って育ててもらう分際で、何を駄駄こねているのだろう。

 

 いつもみたいに、俺の事なんかほっといて優しいおばちゃん達に引き取ってもらえばいいのに。

俺だけ何もしてもらえないのなんて、日常茶飯事じゃないか。

 いつもの事だっただろう。

 兄貴だって、いつも笑っていたじゃないか。

 

 それとも何か。

 

 

「純はどこだ!おい!純!ちょっと来い!」

 

 

 やっぱり、自分と同じ“仲間”が一緒じゃないと寂しいのか。

 一人ぼっちじゃ、何もできないのか。

 

(やっぱ……兄ちゃんはクソだな)

 

本当に、クソ野郎だ。

 

 俺の名を呼び叫ぶ兄貴の声。

 その声に、俺はジワジワと広がる大きな感情のうねりに呑まれそうだった。笑っていた筈のその顔は、いつの間にか強張っていた。

 

 ずっと兄貴の中では二人だった。

 二人兄弟で、兄貴にとってはたった一人の弟で、家族だった。

 

 けれど、もうすぐ俺は正真正銘一人になる。

 

 ジワジワと広がるその感情は何だろう。

 グラグラと揺れる覚束ない足元に、俺は必死に耐えようと口をつぐんだ。

 

 その時だった。

 

 

「純君とあなたは本当の兄弟じゃないのよ!」

 

 

バタン。

 

 

 俺の目の前にあったふすまが勢いよく開いた。目の前には、驚いたような表情で俺を見つめる親戚達。

 

 そして。

 

目を真っ赤に腫らした俺の“兄ちゃん”だった人。

 

「純君……あなた、いつから……」

「…………」

 

 震える伯母の声をどこか遠くに聞きながら、俺は目の前の兄貴の目を見つめていた。

 兄貴は、突然目の前に現れた俺と、突きつけられた現実に、目を大きく見開いている。

 

 あぁ、この目はあの時の目だ。

 俺の手を離し、両親の死体を目の当たりにした、あの時の、一人だと悟った時の。

 

 あの時の兄貴の目だ。

 

「ウソ……だろ?」

「………」

 

 ウソじゃない。

 震える声を必死で絞り出す兄貴に、俺は心の中で返事をする。

 

 声なんか、出せそうにないから。

 だから、俺は心の中で兄貴に語りかける。

 

 ウソじゃない。

 兄貴と俺は本当の兄弟なんかじゃない。

 弟なんかじゃない。

 家族なんかじゃない。

 

 

 一緒にご飯食べても。

 一緒に勉強しても。

 一緒に喧嘩しても。

 

 

 俺達は“家族”なんかじゃない。

 

「ウソ……だよな?なぁ?」

「…………」

 

 兄ちゃんは、誰かに否定の言葉を求めるように、座敷に集まる親戚達の顔を見渡した。

 しかし、その目は誰とも合う事はなく、望む言葉も貰えない。

 

 仏壇の前には兄貴の両親の真新しい遺影が飾られている。その遺影は優しげに微笑むだけで、何の答もくれはなしない。

 

 なんて弱いのだろう。

 なんて危ういのだろう。

 

 そんな、たった一人になってしまった兄貴を前に俺は思った。

 

 このままじゃ、兄貴はダメになる。

 おかしくなる。

 立っていられなくなる。

 

 兄貴はクソなのが当たり前なんだ。

 俺の事をバンバン叩いて、俺への理不尽を楽しんで。

 勉強できなくて、弱い者いじめはするし、不良だし。

 金髪似合ってないし、ピアスばっかりで耳は気持ち悪いし。

 

 兄貴はクソ野郎なのだ。

 

 でも。

 

 格好いいんだ。

 綺麗なんだ。

 俺の手を引いてくれて。

 俺には笑ってくれて。

 たまに優しくて。

 

 兄貴は一人じゃダメなんだ。

 なのに、このままじゃ……兄貴が。

 俺の、兄ちゃんが。

 

 

「……にいちゃぁん……」

「っ!」

 

 

 あの時と同じ。

 両親の死を前にして、崩れ落ちた兄貴。

 けれど、あの時だって兄貴はすぐに立ちあがった。光の宿ったしっかりした目で俺をみてきた。

 

 あの時みたいに、兄貴は俺を見る。

 けれど、その時とは違って俺は……

 

 

泣きながら兄貴を呼んだ。

 

 

「にいちゃぁん……っ」

 

 

 兄貴が俺を見ている。

 さっきのようにユラユラな不安定な、おぼつかない目じゃなく。

 しっかりした、いつもの俺の“兄ちゃん”をやっている時の兄貴の目だ。

 

 あれ、なんでだろう。

 兄貴の中でも俺はもう“家族”でも“兄弟”でも“弟”でもなくなった筈なのに、なんで。

なんで、そんな目で俺を見てくれるんだよ。

 

 揺れる、揺れる。

 今度は俺の目のせいで、兄貴が揺れて見える。

ユラユラ揺れる。

 

 あぁ、俺は、何故。

 

「ぅあぁぁぁっ、にい、ちゃぁん」

 

泣いているんだろう。

 

 死んだのは俺の本当の両親じゃない。

 いつもクソみたいに兄貴ばっかり贔屓して、兄貴ばっかり可愛がって。

 兄貴はエビ天うどんの大盛りなのに、俺はいつもかけうどんで。

 

 俺だってエビ天とかごぼう天とか食べたいし。

 普通じゃ足りないから、大盛りにしたくて。

 

 いつも、いつも兄貴ばっかり可愛がって。

 でも……でも。

 

『ほら、純ちゃん?今日はあなたの好きなエビフライよ?誕生日おめでとう』

『こら、優。純にもちゃんとゲームを貸してあげなさい。一緒に使うって約束だっただろう』

 

 俺は……あの人たちしか。

 “お父さん”と、“お母さん”は、知らないんだ。

 1歳の時に死んだ本当の両親なんて覚えてない。どんな顔で、どんな風に愛情を貰ったのか知らない。

 

 俺は。

 

 俺だって、初めて……

 

 

“家族”を失ったんだ。

 

 

「純、心配すんな。大丈夫だ……一緒だ」

「うぁああああっん……にぃちゃぁぁん!」

「心配すんな。大丈夫だ……大丈夫。俺達はずっと一緒だ」

 

 

 

 兄貴は不安定だった足元を、俺という人間を支えることによって踏ん張った。

 俺は平気だと思っていた心が、意外にも脆く、グラグラだった事を知った。

 

 兄弟じゃない、家族じゃない。

 そう、知っていた筈なのに。

 俺の過ごしてきた10年以上の年月は、俺にその事実をわからせてくれなかった。

 

 俺は泣いた。

 兄貴に抱きついて、ワンワン泣いた。

 兄貴は、もう泣いていなかった。

 

 兄貴は俺の体を痛いくらい抱きしめて、俺の頭を撫でていた。

 

 少し落ち着いて俺が顔を上げると、そこには兄貴の顔があった。その時俺の見た兄貴の目は、初めて見る目だった。

 

 クソでもなく、兄貴でもなく。

 もっと別の何か。

 

 けれど、兄貴はやっぱり、少しだけホッとした目で俺をみていた。

 兄弟でなく、家族でもない。

 しかし、その目は確かに俺という“仲間”に向けられた、他の誰にも向けられる事のない目だ。

 

 クソな時の目。

 兄ちゃんの時の目。

 そして、今の俺を見つめる、他に向けられる事のない唯一無二の目。

 

 それは全部、俺の、俺だけのものだった。

 

 

 

 

 

 

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 俺の兄貴はクソだ。

 

 伯母の申し出を断り養子になるのを止めた。

 そして、高校行くのも止めてしまった。

 兄貴の髪の毛は未だに金髪で。

 兄貴は両親の保険金で、今まで住んでいた家で好き勝手やっている。

 

 兄貴はクソ野郎だ。

 

 本当に兄貴は親の金で好き勝手する。

 

「なぁ、純。今日出前取ろうぜ。うどんな、うどん」

 

 家族でも弟でもない俺を高校に行かせ、好きなモノを食べさせる。

 うどんだって大盛りを食べさせる。

 

「ばぁか、好きなの食べていいんだよ」

 

 でも、やっぱりたまに殴ったり蹴ったりはしてくる。

 

 けど、最近、兄貴は俺を見る時“あの目”をする。

 

「ん、純。どうした?」

 

 クソ野郎でも、兄貴でも、ないあの時の目を。

 

 俺の兄貴はクソだ。

 

 一人になるのが嫌で、俺を必死に弟にする。

 仲間にしようとする。

 そして、たまにもっと別の“何か”を俺に求めてこようとする。

 離れて行かないように、必死に繋ぎとめる。

 

「おかえり、純」

 

 俺の兄貴はクソだ。

 クソだ、クソ。

 

 

 だけど、俺の……

 

 

 

 

家族だ。

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