9:軽んじた代償

 

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 結局、まともに昼食を取れずに終わった昼休み。

ただ笑い過ぎて痛む表情筋を抱え、俺はフラリと一人で便所に向かっていた。もうすぐで授業が始まる。

 

まぁ、いつもの如くノートはアイツに借りたので問題ない。俺は急ぐ事もなく、階段下の廊下を歩いていた。

すると、そこで聞いた事のある声が聞こえてきた。

 

「なんかさぁ、私あぁいうのみるとヤな気分になるんだよねぇ」

 

 それは上白垣の声だった。

 俺はつい先程話題に上ったソイツの声に、何故か妙な焦りを感じると、階段から下りて来る上白垣から隠れるように、廊下の角に身を潜ませた。

 

 なんで、俺が隠れてるんだ。

 

「あぁ、雑餉隈君?」

「そうそう。なんかさー最近いっつも会下達にいいように使われてるじゃない?」

 

 会下、とはどう考えても俺の事だろう。

俺は上白垣の声に、ヒヤリと胸の内が冷え切るのを感じた。

俺達にいいように使われている。

 

ざっしょのくま。

 

 名前なんて覚える気はなかった。呼んだ事もない。けれど、俺はもう覚えていた。借りるノートや教科書、辞書のどこにだって書いてある、その、ここらにはない珍しい名前を。

 

ざっしょのくま けいじろう。

 

 アイツだ。

 俺は冷え切る心の中に、一瞬だけ浮かんだあの力の抜ける笑みに、体がふわりとしたのを感じた。しかし、それも一瞬だった。

 

「ヘラヘラ媚びちゃってさ。見てるこっちが気分悪いし、惨めになっちゃう」

 

 冷え切った心に、深々と突き刺さる言葉。

誰がヘラヘラ笑ってる。誰が媚びてる。誰が惨めだ。

 

 俺は冷え切った心が、そのままマグマのように煮えたぎるのを感じた。

その矛先は、もちろん上白垣。しかし、すぐに俺はその怒りの矛先が別の方にも向くのを感じた。

 

 どうしようもない程の怒り。

 それは俺自身にも向いた。

 

 アイツの笑顔を媚びている惨めなものに見せているのは、他でもない俺だ。

俺のせいなのだ。

 

 そう思うと俺は居ても立ってもいられなくなって、その場を駆け出していた。無秩序に動き回るその足は、しかし確かな目的地を持っていた。俺が無意識のうちに向かった先。

 

 それはアイツの、啓次郎の居る教室。

 上白垣と同じ教室。

 俺は勢いよく3組の教室に飛び込むと、教室中の視線を一心に受けながら、ある一人だけを見ていた。もう、既に教師も居る。

 

 しかし、俺はズンズンと教室に入ると、啓次郎の机の前まで向かった。すると、啓次郎は驚いたような顔で俺を見上げ「チャート式も借りてく?」と的外れな事を言ってくる。

その、ボケボケとした言葉に俺は一瞬絆されそうになったが、視界の端に映る上白垣に、またしてもヒヤリと気持が冷え切ってしまい、啓次郎の腕を思い切り掴んだ。

 

「え、どした。こうちゃん」

「来い」

 

 俺はパチパチと目を瞬かせる啓次郎を引っ張ると、そのまま教室を出た。背後でざわつく3組の生徒達の声が聞こえる。しかし、そんなの知った事ではない。

 

 俺は俺の後で「何かあったのか?こうちゃん」「どうした?こうちゃん」と少しだけ焦ったような声で話しかけてくる啓次郎を無視して、さっきまで一緒に飯を食べていた理化準備室に入った。

 

 その瞬間、5限目始業のチャイムが学校中に響き渡る。

俺は勢いよく準備室の扉を閉めると、無理やり連れて来た啓次郎の顔を見た。啓次郎は何も分かってないような顔で俺を見上げて来る。

 

 ここまで来て、俺は啓次郎に何を言いたいのか、何でここまで連れてきたのか自分自身理解できていなかった。

ただ、「どうした、こうちゃん?」と心配そうに俺の腕に触れてくる啓次郎に、俺は思わず口を開いていた。

 

「上白垣は止めておけ」

「はぁ?」

「アイツは……お前が好きになってやる程の女じゃねぇよ」

「こうちゃん!もしかして上白垣さんの事す」

「好きじゃねぇよ!あんな奴!マジでぶっとばしてぇよ!」

 

 啓次郎の身の毛もよだつ程の勘違いに、俺は間髪いれず否定する。

 

 好き?あんな女好きになるわけがない。アイツはお前の事を馬鹿にしていた。惨めな奴と見下していた。あんな女を啓次郎が、あの笑顔で「好き」だと言う事すら許せない。

あぁ、ムカムカする。

 

 俺の余りの形相に啓次郎は、いつもより更にその目を大きく見開くと、ぽかんと口を開いたまま俺を見上げている。アイツの大きな瞳に、俺の姿が映る。

 

「上白垣は駄目だ!だってアイツはお前の事を……」

 

 そこまで言って俺はひゅっと口が空気を抜ける音を響かせたのを聞いた。

俺は何を言う気だ。何を言おうとした。

 

 俺は、何を。

 

 そう、俺が何も言えず啓次郎を見下ろしていると、啓次郎はいつもの気の抜ける、あの笑顔を浮かべていた。

 

 へにゃり、ふわり。

 そう音がするような、肩の力が抜ける笑み。そして、啓次郎は言った。

 

「知ってる。上白垣さんは、俺の事嫌いなんだ」

「っ」

「俺の事、みっともないって思ってるんだよな。知ってるんだ。だから大丈夫だ」

 

 何が、大丈夫なんだよ。

 いや、違う。大丈夫なのは啓次郎の事を指しているわけではない。啓次郎は“俺に”大丈夫だと言っているんだ。知っている、だから気にするな。そう、俺に対して言っている。

 

「こうちゃん、ありがとな!」

 

 そう言って満面の笑みを浮かべる啓次郎に、俺は俺を殴りたくなった。俺は啓次郎を軽んじていた。

 

 ずっと、軽んじていた。

最初は眼鏡で地味な頭が良いだけの奴。ノートさえ借りれれば、名前なんて、性格なんてどうでもいい。

 

 次はちょっと面白い、いじってやってもいいかなと思える奴。昼飯を買いに行かせて、気まぐれで一緒に飯を食べて。俺の周りには居ない、毛色の違う珍しい奴。

 

 最後は……何も知らない、みじめで、阿呆な奴。

俺が守ってやらないと、教えてやらないと、傷付く可哀想なやつ。

 

 ずっと俺自身も、目の前のコイツを軽んじていた。

こいつは相手を丸裸にする。腹を見せて警戒心を抱かせない。懐に飛び込んで、腹を見せる。だから、コイツはいつだって捕食対象の弱者だと、勝手に俺が、軽んじていただけだった。

 

 けど、そうじゃない。

こいつは笑っているけれど、全てを知った上で笑っているのだ。

こいつは阿呆じゃない。弱者じゃない。

格下なんかじゃ、惨めな奴なんかじゃ。

 

 

ない。

 

 

「けいじろう……」

「うひょ!こうちゃん!俺の名前知ってたんだな!ふふふー」

「けいじろう、けいじろう……」

 

 俺は、黙って俺の背中を撫でながら笑い続ける啓次郎に、ただ、ずっと名前を呼び続ける事しかできなかった。

 

 俺は俺を絶対に許さない。

 啓次郎の笑顔は、俺を丸裸にするのだ。

 

 

 

 

 

高校に入っても変わらなかったどうしようもない俺は、こうして変な奴、雑餉隈 啓次郎に心を丸裸にされた。

 

 

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