12:過ち

 

 

 俺、会下孝太は悩んでいる。

 何に悩んでいるのか。

 

 それは、ある一人の人物についてだ。

 

 その人物というのは、名前を雑餉隈 啓次郎という。覚える気なんてなかった、その画数の多い珍しい名前を俺はこうして漢字まで覚えてしまっている。

 

 俺の興味の範囲は狭い。

 狭いどころか、自分でも自分の興味の及ぶ範囲がわからない程、けっこう何においても無関心である事が多い。興味のないものへの情報は、俺の頭の中ですぐに霧散し消えていく。

けれど、俺はその男の名前を覚え、そして呼んだ。

 

「けいじろう」

 

 そう、俺がどこかたどたどしく呼ぶと、啓次郎は心底嬉しそうな顔で俺を見て「ふへっ」と肩の力が抜けるような笑みを漏らしてくる。

あぁ、こんな顔をして喜んでくれるならもっと早く呼んでいればよかった。

啓次郎の笑顔を見て、俺は心底そう思った。

本当はもっと前から知っていた筈の名前なのに、俺はずっと啓次郎を「お前」とか「アイツ」と呼んでいた。

 

 けれど、あの日。

 俺のどうしようもない心が啓次郎によって暴かれたあの日をきっかけに、俺は啓次郎を名前で呼ぶようになり、そして同時に、こんなどうしようもない俺が啓次郎の名前を呼ぶ事に躊躇いを覚えた。

 

 啓次郎は凄い奴だ。

 地味で、阿呆で、愉快で、綺麗な。

 俺が自発的にこうして傍に居たいと思う人間は、啓次郎が初めてだった。

 

 それまでは特になんの努力も意識もないまま、俺の周りには人が居た。

良い意味でも、悪い意味でも、俺の周りには人で溢れていた。自分で言うのもなんだが、俺はそれなりに人目を惹く。容姿もそうだし、行動もそうだ。周りは俺に興味を持ち近づいてくる。

近づいてくるのも、離れていくのも、そいつらの自由だった。

 

 何故なら、俺がそいつらに興味がないからだ。

 

 だから、俺はこうして自分から自分の望みのまま他人に近づく事をした事がなかったのだ。

啓次郎の傍に居たい、啓次郎から名前を呼んで貰いたい。

「こうちゃん」なんていう、どこか甘えたようなふざけた呼び名も啓次郎から呼ばれると、それはたまらなくむず痒く、そして心地よい。

 

 けれど難儀な事に、未だに俺は俺自身を許せずに居た。

 啓次郎を軽んじていた馬鹿な自分を。

 啓次郎を駒のように扱っていた愚かな自分を。

 

 そんな想いが俺の気持の奥底に横たわっているせいで、俺はどうしても啓次郎をまともに見る事も、呼ぶこともできないでいる。多分、啓次郎はそんな事微塵も感じていないに違いないが、これは俺の問題なのだ。

 

 それに、今やどうあっても変えられない啓次郎と俺のファーストコンタクト。

俺は啓次郎をていの良いパシリや道具のように思っていた。啓次郎も俺がそう思って近づいてきたのを知っている。まぁ、当たり前だろう。

『ノート貸せ』とか『昼飯買ってこい』とか、そんなのパシリ以外の何物でもないだろう。

 

 故に啓次郎は未だに俺に何か必要な物はないかと頻繁に尋ねてくるし、頼まなくても昼飯を買ってくる。

あの購買は、昼になると相当な数の生徒達でごった返す為、昼飯を調達しようとするのは至難の技だ。なのに、啓次郎は何の苦もなく毎日毎日、俺に購買のパンを買ってくる。

笑顔で、そして何とも嬉しそうに。

 

 『これが今人気なんだよ』とか、『これは新商品らしい』とか。

 そんな、どうでもいい事を楽しげに話しながら俺に買ってきたパンを差し出してくる啓次郎に、俺はどうしようもない程の優越感を感じたりしている。

 啓次郎は何かあるとすぐに俺を呼ぶ。

 

『こうちゃん!』

 

 そう呼びながら俺に笑顔で向かってくる。パンを買って来て嬉しそうに報告をしてくる。

中学の頃のいろんな話をして楽しそうに笑う啓次郎は、タカやモモに向かって話しながらも最後には必ず俺の反応を伺うように、隣に居る俺を見上げてくるのだ。

それが、俺にはどうにも心地よく、そしてこれでもかというくらいに優越感を擽って来る。

 

 しかし、それと同時にそんな啓次郎の行動は、俺の罪悪感をも大いに擽るのである。

初めはていの良いパシリとして扱っていたが、今ではそんな昔の自分の行いのせいで、俺は苦しんでいるのである。

啓次郎はパシリなんかじゃない、惨めで阿呆なやつなんかじゃない。なのに、啓次郎は昔の俺が向けていたモノをそのまま受け止め、あの笑顔で俺に向かって走って来る。

 

 もう、お前が俺の良いように動く必要なんてないのに。

 教科書も、ノートも、昼飯も。そんな風にお前が俺の役に立とうと動けば動く程、俺は俺を許せなくなるのだ。

 

 周りは俺が啓次郎をパシリにしていると思っているだろう。

 俺より啓次郎を格下だと思っているだろう。

 けれど、本当はそうじゃない。何でも笑って許す啓次郎。啓次郎はこんな俺の事も、全て笑って許すのだろう。

 

 俺は啓次郎と対等で居たい。同じ場所に立って居たい。

 

 そう、思うのに。

 

 俺は啓次郎が俺のために動く、その行動全てに愚かな優越感を感じて正す事ができない。啓次郎が俺のために走る時間、パンを選ぶ時間、考えている時間。それを思うと手放すのが惜しい。

 

 そのせいで、俺は間違った。

 間違ってしまった。

 

 俺は「まったねー!」と走り去って行った啓次郎の背中を見つめながら、呆然としていた。

いつもの昼休みの筈だった。いつもの俺達の筈だった。

 

 けれど、俺は間違ってしまった。

 

 呆然とする俺の傍で二つの溜息が聞こえる。言わずもがな、それは俺の腐れ縁で、幼馴染でもあるタカとモモであろう。

その気持ちは痛い程よくわかる。溜息をつくどころか、俺はもう殴られた方がいいのではないだろうか。いや、いっそ殺してくれ。

 

「孝太、お前さっきのはねーぞ」

「そうだねぇ。いえす君、頑張って笑ってくれてたけど、あれはナイわぁ」

 

 二人の言葉に、俺は食べカスの散らかる机の上に体を突っ伏した。

そして、苛立ちを紛らわすように目を閉じる。しかし、目を閉じた瞬間に浮かんでくるのは先程の、一瞬だけ啓次郎の顔に浮かんだ悲しそうな顔。無理して笑うどうしようもない程泣きそうな顔。

 

 俺は馬鹿だ、阿呆だ、もう死んだ方がいい。

 俺はこんなにも自分にコミュニケーション能力がなかったのかと、自分のカスのような言動に見せつけられたようだった。

俺は啓次郎と対等でありたいと願った。

しかし、それと同時に啓次郎が俺の為に動く事に下らない優越感を感じていた。その事に俺は常に罪悪感を感じていた。

 

 その身勝手な罪悪感が、最悪な形で啓次郎を傷つけた。

 

 タカやモモまでもが啓次郎を格下のように扱う事が許せなかった。俺以外の奴の為に走る啓次郎を思って腹が立った。そしたら、俺の口は勝手に叫んでいた。

 

『頼んでもねぇのに、コイツが勝手に買ってくんだよ!?』

 

 そう言った瞬間の啓次郎の顔が瞼の裏から離れない。これのどこが対等でいたいと思う人間の言動だろうか。結局、俺は心のどこかで啓次郎を自分の思うように扱いたいと思っていたのだ。

 

「(謝らねぇと……)」

 

 俺はモヤモヤとする心の内を抱えて、しかしただそれだけはハッキリと思った。

 謝らないといけない。明日、またこの昼休みの時間に。

 啓次郎がなんて事ない顔して笑顔で現れても、俺は今日のこれを流さず謝らねばならない。そしたら、きっと啓次郎は笑って許してくれるだろうから。

 

 そう、俺が拳を握りしめながら思っていると、モモがとんでもない事をボソっと呟いた。

 

「あーぁ、もう明日からいえす君ここには来ないかもね」

「っ!?」

 

 その瞬間、俺は勢いよく顔を上げる。その時の俺の顔はさぞかし見物だっただろう。

ビビりまくって顔色は悪く、そして開いた口が塞がらない。そんな俺にモモは「孝太……お前ねぇ」と呆れたような顔でこちらを見てきた。その隣ではタカが同じく溜息をついている。

 

「メガネは、お前のパンを持ってくるのを、ここに来る理由にしてたんじゃねぇのか」

「何言ってんだよ……アイツはここには飯を食いに来てたんだよ」

「それはお前の勝手な思い込みだろうが。忘れたのかよ。アイツはお前にパンを買って来いって言われて買ってくるようになった。そして、ここに来るようになった」

 

 タカの静かで淡々とした言葉が俺の中に容赦なく杭を打ち込んでくる。そうだ、そうなのだ。アイツは俺が「買って来い」と言ったからパンを買ってここに来ていた。

 

「いえす君は多分、ここに来る為に孝太のパンを率先して買って来てたんじゃないの?結果、ここで一緒にご飯を食べてるのであれ、その過程と理由付けが、いえす君の中でどうされているのかわからない。だけど、俺の見た限りじゃ、多分いえす君は俺達と友達だから一緒にご飯を食べてるー!って純粋に思ってはいなかっただろうね」

「なんで、お前らに、そんな事がわかんだよ……」

 

 モモの言葉に、最早俺は信じたくないという負け惜しみで無理やり言葉を紡ぐ。これがただの苦しい言い訳にしかなっていない事なんて、俺が一番よく分かっている筈なのに。

 

「逆にお前はこの状況下でどうしてわからないんだよ、孝太」

「いえす君はお前の言うように阿呆っぽいよ。馬鹿やってて面白いよね。けど、それだけじゃないのはお前が一番わかってると思ってたんだけどねぇ」

「まぁ、お前は他人対して興味が薄いから、わかんなかったんだろ。じゃなきゃ、あんな事は言わねぇよな」

「っお前ら……俺の事の馬鹿にしてんのか」

 

 俺は苦し紛れに言い返してみるが、しかしそれは何の力も持たない言葉だった。発散しようもない怒りが、俺の中に蓄積される。二人の言い分は、きっと正しい。

 

 タカやモモは俺との付き合いが長い分、俺の事を良く知っている。下手すると俺以上に俺の事はよくわかっているかもしれない。俺は興味の範囲が極端に狭い。他人に対しても、そして自分に対しても。

 だからこそ、こいつらには俺には見えていない啓次郎の心の底が見えたというのだろうか。俺が行ってきた無関心のツケが、今こうして俺を苦しめているのだろうか。

 

「いえす君が周りからなんて呼ばれてるか、孝太は知ってる?」

「……なんだよ」

 

 モモの言葉に俺は、モモから目を逸らしながら尋ねる。そんな俺にモモは吐き捨てるように言った。

 

 

 

 

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