「啓次郎、帰んぞ」
会下 孝太には日課というには大袈裟過ぎるのだが、毎日決まって行う事がある。
それは、高校に入って出来た新たな友人である雑餉隈啓次郎と共に帰る事だ。
いや、“帰る事”というと語弊があるだろう。何故なら二人の家は互いに逆方向だ。共に帰る道すがらは無い。
故に正しく言い換えるならば、会下孝太と雑餉隈啓次郎は共に放課後の時間を共有していると言えばいいだろうか。駅近くにある本屋を覗いたり、ファミレスで下らない事を喋ったり、ゲームセンターの中をブラブラしたり、カラオケに繰り出したり。その過ごし方はなんとも絵に描いたような男子高校生の放課後である。
それは二人だけの時もあるし、友人である鷹正宗や諸富桃太が一緒の時もある。
けれど、会下孝太と雑餉隈啓次郎のどちらかが欠ける事は基本的にない。この二人に追加で一人、二人が増えるかどうかの違いなのだ。
しかし、その日は違った。
「こうちゃん……今日、俺図書委員の当番で本棚整理しなきゃいけない」
「あー、そうか。どのくらい時間がかかる」
「めっちゃ時間かかるって言われた。男の子には重いのたくさん持ってもらうって……だから、こうちゃん、今日は先に帰ってておくれ」
そう、この世の終わりのような表情で言ってのける啓次郎に、孝太は少しだけ間を開けて「わかった」と小さく頷いた。大した事はない。こんな日もある。
そう、頭では分かっているのだが毎日毎日共に過ごした放課後と、そうして目の前で口をへの字に曲げてヘタリと眉を落とす啓次郎の姿がなんとも孝太の後ろ髪を引かせた。
「また明日な」
「うん」
か細い声で頷く啓次郎に、孝太は背を向けると3組の教室を後にした。ポケットにある携帯を見る。
現在4時15分。
すぐに家路に着くには早すぎる時間だ。
孝太はどこかぼんやりしたような、どこかモヤモヤが残るような気持ちのまま小さく息を吐いた。啓次郎と会う以前、自分がどのように放課後の時間を過ごしていたのか、孝太は思い出そうとしても浮かんでこない。
たった一人の存在の有無が、ここまで自分の生活に影響を与えている事実に孝太は少しばかりの危機感と焦りを感じていた。
「(タカとモモでも誘うか……?)」
孝太はやっとの事で思い至った啓次郎よりももっと付き合いの長い筈の友人二人の存在に、孝太はそれぞれの居る教室へと足を向けた
時だった。
「こうちゃぁぁぁーん!!!!」
孝太の背後、だいぶ後ろからこれでもかというくらい聞慣れた大声が廊下中に響き渡った。
その声に、孝太はビクリと背中を揺らす。放課後と言うことでワラワラと廊下にたむろっていた沢山の生徒の目が、自分と声の主へと向けられる。
不良と名高く、一般生徒からは嫌煙されている孝太が「こうちゃん」という呼び名を持つ事は、今やこの学年、いや学校中に知れ渡っている。
彼を「こうちゃん」と呼ぶ人間が、たった一人しか居ない事も、誰もが知っている。
「………」
孝太は静かに振り返る。
すると、廊下の向こう、丁度3組の入り口の前辺りに立ってブンブンと手を振る、先程までぶすくれていた啓次郎の姿がそこにはあった。
「どうした、啓次郎」そう、いつものように孝太が口を開こうとした時。啓次郎の顔がいつもの力の抜けるようなへにゃりとした笑顔に彩られた。
「俺はここに残るけど……いつかまた会えたらもう一度仲間と呼んでくれますか!!!?」
「っ!????」
どこかで聞いた事がある台詞だった。孝太はすぐにわかった。孝太でなくとも、その廊下にたむろっていた多くの生徒がすぐにわかった筈だ。孝太は大声で叫ばれた台詞を頭の中でリフレインすると、廊下の向こうで満面の笑みを浮かべる啓次郎の顔を見た。ここは啓次郎は号泣するシーンの筈だが、その目には孝太に対する期待の眼差しで輝いている。
「…………」
孝太に集まる多くの視線。無視したい。
何を言っているんだと突っ込んで流してやりたい。
しかし、孝太には啓次郎の求める答えも行動も全て分かるため、どうしてもそれができなかった。ここでノリよく乗っかってやるなんて自分のキャラではない。しかし、啓次郎は笑っている。笑っているのだ。
孝太は次第に己の顔が熱で赤く染まるのを感じながらも、黙って啓次郎に背を向けた。
そして。
「…………」
左腕を上げた。
公衆の面前で、誰もが見守る中。
震える肩、羞恥に揺れる脳髄。高まる熱。
しかし、それは次の瞬間彼の鼓膜に響き渡った言葉による衝撃で全てが反転した。
「っっっ!!!こうちゃん好きぃぃぃ!!大好きぃぃぃ!!」
廊下中、そしてそれに付随する教室中に響き渡る程の大声。
今、啓次郎がどんな顔をしているのか孝太には容易に想像がついた。バタバタと聞こえるせわしない足踏みの音と「好きぃぃぃ」と何度も繰り返されるその言葉。そして、きっと誰にも真似できないような弾ける笑顔を顔いっぱいに讃えている。
まだ、その体は羞恥で熱く、周りからの視線で死ぬほど恥ずかしいが、なんだかその言葉を聞けただけで、その笑顔を想像するだけで、孝太は満足だった。
しかし。
「恥ずかしいならやらなきゃいいじゃない」
そう、通り過ぎ様に吐き捨てるように言い放っていった一人の綺麗な顔の女に、孝太は「あ゛ぁ!?」と思わず真っ赤な顔を晒しながら相手を威嚇した。
しかし、女は孝太のそんな顔を振り返る事なく風のように去って行く。
「あのクソ女が……」
握りしめた拳が痛い程手のひらに食い込む。
しかし、それは背後から聞こえてきたなんとも真の抜けた嬉しそうな言葉ですぐに解かれる事になる。
「こうちゃーん!また明日あそぼうねー!!」
へにゃりと笑う啓次郎の顔。腹を見せて飛び込んでくる啓次郎を見ていると、羞恥心なんて些細な事に思えてくるから不思議だ。
孝太は先程までの危機感や焦りなどとおに忘れて、すぐに今まで歩いて来た廊下を戻った。
先程まで満面の笑みを浮かべていた啓次郎の顔が不思議そうな色に染められる。孝太は歩を早め、またしても啓次郎の前に立つと当たり前のように言った。
「待っててやる」
「うえお!?でもめっちゃ時間かかるって先生言ったよ!こうちゃん絶対暇だよ!」
「手伝ってやる」
「うえええ!?こうちゃん図書委員じゃないのに!?え!?え!?」
「早く終わらせて一緒に帰るぞ」
「…………」
そう言ってポカンとする啓次郎を余所に、孝太は無言で啓次郎を見下ろし続けた。
そして、しばらく孝太の言葉の意味を呑みこめていなかった啓次郎であったが、すぐに孝太の言葉を理解すると顔を真っ赤に染め上げていった。
啓次郎のソレが羞恥からくる熱でない事くらい、孝太にはわかっていた。
嬉しすぎる状態になると、啓次郎は興奮から顔を真っ赤にして、そしてバタバタと足を鳴らす。そして。
「うひょう!こうちゃん!ありがとう!すきすき!大好き!」
孝太の腹に飛び込むように抱きつくとグリグリと顔を孝太の制服に擦り寄せてきた。
啓次郎の愛情表現や喜びの表現は動物の子供と一緒だ。
深い意味はない。
けれど、そんな深い意味のないその行動に孝太はとても心揺さぶられ、そして優越感を擽られ、心を満たされる自分が居るのを自覚していた。
「こうちゃんすきすき!すきすき!俺がビビだったら国捨ててこうちゃんについて行く!」
「わかったから、ほら行くぞ」
「らじゃー!わかったー!すきすき!」
孝太は未だに頭を擦り寄せてくる子犬のような友人の頭を撫でながら、3組の教室に入って行った。
会下孝太には習慣がある。大袈裟に言っても言い尽くせないくらい、彼の楽しみにしているその習慣は。
彼、雑餉隈啓次郎と放課後の時間を共にする事である。
【雑餉隈啓次郎の心のこうちゃん好きなところノート】
※略してこうちゃんノート
今日、こうちゃんが俺のワンピースごっこに付き合ってくれた。
中学の時は誰もノってくれなかったけど、こうちゃんはノッてくれた。
こうちゃんはどんな時も俺のおふざけに付き合ってくれる。だから好きだ。
それに、図書委員の仕事も手伝ってくれた。待っててくれた。
こうちゃんは優しくて力持ちだ。
だから、俺も今度何かこうちゃんが遅くなる事があったら絶対待ってる事にする。左腕にバツを書いて誓う。
こうちゃん、ありがとう。