142:つわり

 

 

「…………アバブ」

「なんすか、アウト先輩」

 

 シンスが去って、しばらく俺はぼんやりしていた。仕事は始まっていたが、事務所の中は先程のシンスの件もあり女性達は未だ色めきだっている。

 

「つわりって、どんな感じなのかな」

「いや、私妊娠なんてした事ないから分かりませんよ」

「ううん、どんな感じなんだろう」

 

 俺の問いにアバブが訝し気な様子で答える。そりゃあそうか。確かにアバブはまだ17歳だ。まだまだ子供のアバブでは、確かにつわりの事もよく分からないだろう。

 

 それなら、病気でもないのに女の人を苦しめるつわりとは、一体どんなものだ。

 そう、俺は腕を組んで考えていると、今度は後ろから先輩の女性が勢いよく話に割り込んで来た。

 

「なになにぃ、アウト。あんた悪阻がどんなか知りたいの?」

「あ、はい。気持ち悪くなるって事は知ってるんですけど。実際どんなモノなのかなって」

 

 そう、気持ち悪くなると言われても実際“どう”気持ち悪くなるのかが分からない。かくいう俺は、余り気持ち悪くなった事がないのだ。

 

「悪阻はね、人によって症状は違うけど私の場合は……そうね。アウト、アンタ酒飲みだったわよね?」

「はい。俺、酒大好きです!」

 

 酒。その予想外に飛び出してきた大好きな言葉に、俺の気持ちはパッと明るくなる。

 

 好きだ。好きに決まってる。このつまらない事務所の中ですら“酒”という単語を聞いただけで少し元気になれる位には大好きだ。そんな俺の元気な返事に、先輩はニコリと口元に形の良い笑みを浮かべると、そのまま俺の肩に手を回し、耳元で意味深に言葉を紡ぎ出した。

 

「なら、分かりやすく教えてあげるわ」

「は、はい」

「私の場合、悪阻がホント酷くてねぇ。あれはまるで……そう。ゼツラン酒を死ぬ程飲みまくった後の二日酔いが全く収まらない状態で、更に嵐の中を大荒れで進む船に無理やり乗せられて大航海中、みたいな?終わりのない二日酔いと船酔いの中を永遠に彷徨ってる感じね。あ、ここが一番重要なんだけど、収まる瞬間なんて寝てる時以外ないわよ?つまり、意識がある間はずーっと気持ち悪いワケ。『ちょっとよくなってきたなぁ』とかないからね!ずっっとよ!ずっと!慢性的なの?わかった?」

 

 わかった?と笑顔で問われるが、余りの情報に「はい、わかりました!」と元気良く言う事が出来ない。

 あの、史上最強のアルコール度数を誇り、酒飲み殺しと呼ばれるゼツラン酒を大量に飲んだ後の二日酔いの状態で、嵐の中を永遠に大航海中とは一体どんな状態だ。最早それは、つわり並に経験が無さ過ぎて分からない。

 

「……永遠に続く、二日酔い」

 

 けれど、いや、そうだ。もう永遠に治らない二日酔いってだけで、俺としては完全にお手上げだ。それなのに、そこから様々な修飾語ならぬ辛飾症状で彩られるとなると、もう言える言葉は一つだけだ。

 

「むり……」

「そ、もう無理よ。無理無理。完全にお手上げ!何回経験しても無理!ついでに、気持ち悪いだけじゃなくて、普段なら出来きる事も何も出来なくなるから無力感と脱力感と苛立ちと、夫への申し訳なさと、なんで私だけっていう不公平感の嵐!もう何が何だかわかんなかったわ!」

 

 そう、カラカラと笑う先輩に、俺とアバブは二人して顔を見合わせては眉を顰め合うしかなかった。

 赤ちゃんが出来るって、妊娠ってそんなに凄まじい事だったのか。

「やったー!」「おめでとう!」だけじゃない。そんな世界だったのか。恐ろしいにも程がある。

 

「……シンスさん、よく仕事に来てたな」

「そうっすね」

 

 俺は男だから今後も経験する事はないだろうが、アバブは女の子だ。いつかアバブも誰か好きな人との間に赤ちゃんが出来たら、そうなるのかもしれない。

 そんな気持ちで俺がアバブを見ていると、アバブはこれでもかと言う程顔を顰めて言った。

 

「アウト先輩が何を考えてるのか分かりますけど、私は妊娠なんてしませんから。子供なんて考えてません。むしろ誰かと結婚ってのが、まずもって考えられないっすから」

「え、そうなの?」

 

 それは意外だ。アバブは格好良い男が好きだから、将来的には格好良い男と結婚して自分の子供が欲しいのだとばかり思っていた。

 

「そんな事言ってぇ、アバブ。あんたも数年後には2、3人ポンポン産んでるかもよ?」

「いや、私。そもそも男が無理なんで」

「えっ、アンタ女が良いの?私はダメよ!もう夫と子供が居る身なんだから!」

「あっ、いや!そうでなくって!いや!ほんとセンパイ!何笑ってんすか!?」

 

 いつの間にか隣では先輩とアバブが笑いながら冗談を言い合っている。

 

 その隣で、俺は少しだけ考えていた。

 お腹に生命を宿した女性について。お母さんについて。

 みんな赤ちゃんが出来るとそんな辛い想いをするのに、先輩もそうだが、今はこうして笑っている。子供の為に毎日働いて、仕事が終われば急いで帰っていく。

 

——-ありがとう、アウト君。

 

 そう言ったシンスさんも、辛そうだけれど、けれどやっぱり「ありがとう」なのだ。望んで出来た好きな人との赤ちゃんは、きっとゼツラン酒を飲んで二日酔いの中大航海をしていても「ありがとう」で合ってるのだ。

 

 そういう事なんだろう。

 

「…………」

 

 だったら、バイは?

 前世はニアという女の子で、今は騎士をやっている男。

 前世と今世の性別が異なる事は、まぁ、よくある事だ。その場合、どうなるのだろう。「あぁ、今回は女だから」「男だから」と軽く受け止められるものなのだろうか。

 

 前世のない俺には分からない。分からないのだが――。

 

——俺の子供産んでくれない?

 

 そう言って笑っていたバイの声が、今になって妙に耳について離れないのは何故だ。

 

——お兄ちゃん!今日は早く帰ってきてなー!

 

 あんなに前世の“兄”に執着するバイが、今世で男として、北の大地で生きる為に傭兵まがいの事をしながら、今はこうして騎士として此処に居る。

 

 なぁ、バイ。お前は今何をどう思ってる?お前は俺を“お兄ちゃん”なんて呼びながら、何を求めてる?

 

 分からない。俺は自分の“ぎょうかん”すら読めないヤツだから。

 お前の事なんて、ちっともわからないよ。

 

「アウト先輩。夜勤の件、私が半分貰いますよ」

 

 そこまで考えて、いつの間にか先輩との話を終えたアバブが俺に改めて言ってきた。先程から妙にアバブは俺の夜勤の件を気にしてくれている。

 アバブだって女の子だ。そんなに沢山の夜勤を入れられたら大変だろうに。

 

「えっ、いいよ!そんな、急に!俺が頼まれた事だし!ほら、俺男だから!」

「生理もないし、妊娠もないから?」

「……う、うん」

 

 生理。その言葉に俺は少しだけアバブから目を逸らしてしまった。俺は男兄弟で育ったから、そう言った類のモノに余り免疫がないのだ。有り体に言えば、少しだけ気恥ずかしい。

 

「アウト先輩。男だからって一人だけ我慢しなきゃいけない事なんて無いんすってば。アウト先輩にはいつも私も元気貰ってるんで、もうここは諦めて半分夜勤ください。私だって少しは給料上げたいですしね」

 

 そう、どこか取って付けたような事を言って得意気に笑うアバブに、俺はなんだか不思議な感覚に陥っていた。

それはまるで、アバブが、そう、同性の仲の良い友達のような。

 そんな不思議な感覚。

 

 

「ありがとう、アバブ」

「どういたしまして」

 

 

 俺は観念してアバブにお礼を言うと、手元にあったシフト表に付けた印を一旦全て消したのだった。