8:ポタポタボタボタ

 

 

「う」

「庄司……悲しいのか」

 

 宮古のストレートな問いに、そう言えば宮古の前で泣くのは、これが初めてではなかったな、と思い出してしまった。あの時も、今と全く同じように宮古は庄司に尋ねてきたのだ。

 

——–庄司……泣く、のか?

——–……悲しい?

 

 そう思うと、今更宮古の前で大人だからと意地を張るのが非常に馬鹿らしい気がしてくるのだった。

 

「ん」

「そうか、何が悲しい」

 

 庄司は静かな頷きと共に零れた涙を、最早拭う事なく流しておいた。どうせこの1滴で終わるだろうとタカを括ったのだ。

 

「風呂が、こわれたし」

「ああ」

 

ポタリ。

 

「おれ、30歳にもなって、まだフラフラしてて」

「ああ」

 

ポタリ。ポタリ。

 

「お前のおや、あんなにわかくて、こどもふたりいて」

「ああ」

 

ポタリ。ポタリ。

 

「いっけんや、もたてて。こども、しんがくさせて」

「ああ」

 

ポタポタポタポタ。

 

「なのに、おれ、なんて。こんなバカみたいにがくせいふく、なんかきて」

「ああ」

 

ポタポタポタポタポタポタ。

 

「はだかまでみられて」

「ああ」

 

ボタボタボタボタボタボタボタ。

 

「みやこも。おこらせた」

「ああ」

 

 ここまで来て、庄司は自分が想像以上に涙を流し、想像以上に悲しかったのを悟った。最早ポタポタの中には、庄司の鼻水も混じっている程だ。

 きっと、相当にみっともない顔をしているだろう。けれど、この家に来てから庄司はずっとバグっていた。

 

 勝手に宮古の家庭を見て、それを人生の“正解”みたいに思って。

 

 そう、世間の普通と自分の状況を勝手に比較して、またしても自分で自分も攻撃していた。しかも、今回は攻撃する側はサラリーマンと高校生の二人共だった。小学生の庄司だけが、その気持ちについて行けず、ただ悲しい想いをした。

 

——普通ってなんだ!世間って誰だ!俺はダメなヤツなのか!?

 

 その小学生の庄司の問に答えられる者は、庄司の心の中には居なかった。

 

「庄司、お前またそんな訳わかんねぇ事考えてたのか」

「うっうっうっ」

 

 いつの間にか裸のまま宮古に抱きしめられ頭を抱きかかえられていた。前もこんな事があった。あの時も庄司の涙は宮古の肩を多いに濡らした。あの時と違うのは、もちろん庄司が服を着ていない事。

 

 そして、

 

「庄司、お前さ。もう俺以外見るな。毎度毎度、お前は訳わかんねぇもんに振り回され過ぎだ」

「うう。み、みやこ、だけ?」

 

 宮古が庄司に対して、たった今、完全に“決意”をした事だ。

 宮古は周りの事など気にしない。自分の重要なモノだけが重要であり、それ以外は驚く程どうでも良い。

 故に、重要なもの、大事なものに対してだけは、全身全霊で大いに全力なのである。

 

「庄司。これからは、俺だけ見て俺だけを重要にしろ。あとは気にするな。俺も、既にそうしてる」

「…………そ、れは」

 

宮古は他人の目など、世間など、普通など、一切気にしない。歯牙にもかけない。

 山戸 宮古とは、元来そういう人間なのだ。

 

その点において、宮古と庄司は互いに対極に居る。

 

「今、決めろ。今だ。今しかねぇ。今以外返事は認めない」

「…………いま」

 

 そう、まっすぐ庄司だけを見て、物凄い眼力で口にしてくる宮古は、いつもの宮古のようでいて、いつもの宮古ではなかった。それはまるで、あの、金平亭で庄司に対して制服を着てくれと懇願した時のような、

 

「頷け。頼む。頷くだけでいいんだ、庄司。もうお前はそれ以外何もしなくていい」

「……うなずく」

「ああ……この通りだ。おねがいします」

 

 一見すると表情などまるで変わらないようなスンとした顔の癖に、間近で聞く宮古の声と、その瞳の向こうまで見えるような、この互いの間に隙間などないような距離感は、庄司に宮古の本心を突きつける。

 

 宮古は本気だった。

本気で、橘庄司を欲している。

 

 それを理解した瞬間、庄司は心の中の理性と大人と高校生が多いに狼狽え、どうすべきかの判断に迷い『時間をくれ!』と叫ぶのを聞いた。けれど、その隣でランドセルを背負った小学生の庄司は、泣き喚いた目をこすりながらこちらへと駆けてくる。

 

小学生の彼は庄司の“本能”だ。他人との差異など気にせず、思ったままに生きていた、あの頃の、庄司の心からの本心が駆けてくる。その足に、理性など追いつこう筈もない。

 

「『うん』」

 

 脳直というやつだ。庄司は何もかもを頭の中から排除し、本能で答えた。この時確かに庄司も本能で宮古を欲したのだった。

 

「……庄司」

 

 その庄司からの頷きに、宮古は必死だったその表情を一気に緩めると、その目を大いに見開いた。自分であれだけハッキリ口にして、懇願まがいの事をしておきながら、頷いた庄司に一番びっくりしていたのは、何より宮古自身であった。

 

「頷いたな。庄司、お前は今、頷いた」

「うん」

「だったら、もうお前。わかってるな。他のモノに目をくれるな。もうそんな暇は、これから先お前にはない。俺達の関係に、他の面倒くせぇもんを入れて寄越すな。迷ったら、まず、俺だけを見ろ。いいな」

「うん」

 

 庄司は幼い子供のように、宮古の言う事に頷いた。宮古を見ながら、それ以外に目もくれず。お陰で、宮古にしては庄司を前にしているとは言え、それでも普段の宮古に比べたら、えらく饒舌で機嫌が良くなっていった。

 

「……とりあえず、庄司」

「うん」

「風呂はもう止めにして、俺の部屋に来い」

「う……ん?いや、なんでだよ。風呂は入るし」

「っち」

 

 うん、うん、とリズム良く返事をしてくれていたのに、ここでは引っかからずに庄司はきちんと頷いた。あとから走って来ていた大人と高校生と理性が、やっと自分の仕事をした瞬間であった。

 

 そして、その晩。

 

「ちょっ、待て待て待て待って!?待って!?」

「今だ、今決めろ。今しかない。庄司」

「待って!ほんと!お前18歳!俺30歳!これ、マジのアウトだから!せめて20歳!20歳になってから!」

「この通りだ。おねがいします」

「こんな全然お願いする気ないお願いしますは初めて聞いたよ!?ほらほらほら!手!その手を止めなさい!」

 

 庄司と宮古の激しい攻防がベッドの上で行われつつ、夜は更けて行った。

途中、余りの攻防の激しさに隣の伊中の部屋から激しめの壁ドンをお見舞いされたりもしたが、かねがね二人は元気に夜を越した。

 

それと同時に庄司の中でも3人の庄司が激しく言い合いをした。

 

『おい!?どーすんだお前!あんな簡単に頷いて!?相手は未成年だぞ!?犯罪だ!』

『俺、刑務所になって入りたくねーよ!?俺の未来はバルされんのか!?無理無理嫌だ嫌だ!』

『バルサれ……?だいじょうぶだって!みやこが何とかするって言ってたぞ!』

 

果たしてその夜、どの庄司が勝ち、どの庄司が折れたのかは。

 

 

 また、別の機会に語るべき物語である。

 

 

 

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