【そして、兄貴は嘘になった】
あのクソ兄貴がアルファという事は、クソ兄貴が15歳の適正検査を受ける前からなんとなく分かっていた。まず、あのクソ兄貴の両親がアルファ同士の夫婦であった事。
そして、
『おい!純!それよこせ!』
あの傍若無人で俺様な態度に違和感のない、あのクソっぷり。そのどれを取っても、兄貴はアルファ以外の何物でもなかった。
俺がクソ兄貴をアルファだと思うように、兄貴の周りの人間も兄貴の事をアルファだと信じて疑わなかった。しかし、それは俺達の両親が死んで、俺達兄弟が二人であの家に暮らすようになって突然起こった。
「なんか、体がダリィ」
その日、兄貴は具合が悪そうだった。顔は赤く、息も荒かった。
いくらクソ兄貴とは言え、俺は兄貴が心配だった。俺の家族はもう兄貴しかいない。
ただの風邪だと分かっていても、俺は両親の死の直後という事もあり怖かった。だから、俺はその日、学校を休んで兄貴の看病をする事にしたのだ。兄貴は俺に学校へ行けだの何だのと言っていたが、俺は首を縦には振らなかった。
その日、俺達兄弟は両親の死後、またしても大きな困難を前にする事になるとは露ほども思っていなかった。
「兄貴、入るよ」
俺は兄貴の氷枕とヒエピタを取り返る為、兄貴の部屋の扉を開いた。しかし、扉を開けた瞬間、俺は思わず鼻を腕で覆ってしまった。兄貴の部屋は、なんとも言えない甘い匂いで充満し、むせかえるような状態になっていたのだ。
俺はどうしたのかと走って兄貴の眠るベッドに近寄った。そこに居たのは、俺の知らない“にいちゃん”の姿だった。
「っはぁ、っく、……じゅん、み、るな」
「っ!にいちゃん!」
そこに居たのは発情期を迎えた雌。
オメガの姿だった。
俺が駆け寄った兄貴は熱を帯びた目で俺を見上げながらも、その体の熱に支配されて苦しげだった。必死で快楽を押し殺すようなその目に、部屋に充満する甘い匂いに、俺は悟ってしまった。
「くそっっ。ぁ……クソが……オメガかよ……ちくしょうっ」
兄貴はボロボロと泣きながら、喘ぎながらそう呟いた。俺はそんな兄貴を前に、どうしてよいか分からず、ともかく兄貴の苦しみを取り除くにはどうしたらよいかだけ考えた。
そうしないと、俺自身も苦しくて倒れそうだったのだ。
「ちくしょう、じくじょう……うっ、うぁぁ……」
「にいちゃん、泣くなよ……っ熱いの?俺、どうしたらいい?」
泣き続ける兄貴に、俺は聞く。
ショックだろう。
辛いだろう。
卒業式直前には学校で適正検査がある筈で、遅かれ早かれその事実は本人の知るところになる。しかし、こんなまだ両親の死への傷が癒えていない時に、こんなカタチで知る事になるなんて。
俺は泣く兄貴の涙をティッシュで拭いながら顔を歪める。そんなちょっとした動作さえも、快楽に繋がるのか兄貴は絶えず喘ぎ声を漏らす。
そんな自分がたまらなく嫌なのだろ、兄貴は必死に俺を睨みながら「部屋から出ていけ」と、うわごとのように言い続けた。
けれど、俺だってこんな兄貴を放っておくなんて怖くて出来なかった。兄貴の体以前に、兄貴の心が壊れそうで離れたくなかったのだ。
オメガへの差別や偏見は、以前より少なくなってきたとは言えなくなったわけではない。こうして一度オメガとして発情期を迎えてしまったならば、もうその性から逃れられないのだ。
3か月に1度はこうした発情期が兄貴を襲う。そして、自分のつがいを見つけない限りその体から出るフェロモンは見境なく多くのアルファやベータさえも引き付けるのだ。
もちろん、それは自分の雄として。
兄貴はもう雌なのだ。
こんな言い方、してはいけないのだろうけど。兄貴は支配者ではなく、支配される側になってしまった。
「にいちゃん、にいちゃん、にいちゃん」
不安で不安でたまらない。
あの傍若無人でクソな兄貴が俺は嫌いな筈だったのに。あの傍若無人でクソな兄貴こそが、俺をいつも当然のように引っ張って行ってくれてた存在だったのだ。
「じゅ、ん……泣いて、んじゃ……ねぇよ。泣きてぇ、のはこっちだっつの」
俺が兄貴のベッドの横で顔を歪めていると、それまで「出ていけ」と言い続けていた兄貴が必死に表情を緩めて俺を見ていた。
そして、苦しいだろうに熱を帯びた手を必死に持ち上げ、俺の頭に置いた。それは、やっぱりクソじゃない時のあの、兄貴の顔だった。
「……泣くな、純」
両親が死んだ時も、葬式の時も、そして、今も。
兄貴は俺を支えようとした時、物凄い力を発揮する。
あの日から涙腺も緩く、弱くなってしまった俺とは違い。兄貴はどんどん強くなっていくようだった。
「にい、ちゃぁん」
弱い俺を支えながら、兄貴は初めての発情期を必死に乗り切った。
その日から、俺達兄弟の闘いは始まったのだ。
————
「俺は死んでも誰の番にもならねぇ。誰ともしらねぇヤツに雌扱いなんてまっぴらだ」
「うん」
発情期の明けたその日、兄貴は俺に言った。それは、とても兄貴らしい言葉だと思った。
「で、俺はこれから抑制剤を飲み続ける。俺のフェロモンが少しでも漏れりゃ、面倒な事は避けられないからだ……ただ」
「うん」
兄貴の言葉を俺は聞き逃すまいと必死に頷いて聞いた。
広い広い家の、広い広いリビング。
この家に居るのは、もう俺達二人だけで、俺達の家族も、もう互いしかいない。クソだろうがなんだろうが、俺は兄貴を助けて守る。
俺のたった一人の家族なのだから。
「発情期は日数が短くなっても、なくなる事はない。いつ発情期が起こるのかは記録をつけて備えていくしかない。だから、純。俺が発情期になったら絶対にこの家には誰も入れるな」
「入れない。絶対に、誰も近寄らせない」
俺は深く頷く。
もともと、俺個人の友人でも知りあいでも、この家に入れた事はない。ただ、それ以外の突然の来訪者も俺は退けないといけない。
兄貴を守る為に。
「そして、こんな事をお前に頼むのは……本当は嫌だけどな……俺が発情期になった時の処理の仕方を……覚えろ」
「うん」
兄貴の決意を帯びたその言葉に、俺も覚悟を決めた。オメガの発情期は本能であり、理性で抑えるのは無理だ。あの時、初めて発情期を迎えた時の兄貴は、俺の兄貴であろうと必死に頑張ってくれたが、本当につらそうだった。
だから、少しでも兄貴を楽にさせてあげたい。
兄貴は誰の雌にもならない。しかし、同時にその本能のもたらす快楽を、その望みをかなえつつ和らげられるのは“弟”の俺だけだ。
「悪いな」
兄貴が謝った。
俺はその姿が嫌で、思わず兄貴に抱きついた。俺はいつからこんな気持ちの悪い弟になったのだろう。14歳にもなって、不安で兄貴に抱きつくなんて。
けれど。
「お前は俺がいねぇと……ほんっとダメだな」
そう言って背中にまわされた、兄貴の大きな手に俺は兄貴を絶対に誰の雌にもさせるものかと決心した。
————-
———-
—–
兄貴がオメガだと判明して1年。
俺は兄貴が発情期を迎える度に、必死に兄貴の苦しさを紛らわせるために頑張った。今や兄の生殖器と化した兄貴の尻穴に手で触れる度、俺はその事実を思い知る。
そして、むせかえるようなフェロモンをまき散らす兄貴に、俺は冷静に対応する。
兄貴は誰の雌にもなりたくないと言った。
俺はその願いをかなえるのだ。
もとより、兄貴が誰かの雌なんて似合わない。
ぜったいに、それは嫌だ。
兄貴は自分がオメガだと分かってから、仕事以外で余り外に出なくなった。もともと友達は多い方で、そしてその友達とツルんで夜の街やらに繰り出していた兄貴が、それをピタリと止めた。
兄貴の友人の中には当然ながらアルファも存在する。
どうもそれが気がかりのようなのだ。いくら抑制剤がで抑え込んでいても、本能的な所で兄貴は自分がオメガである事を理解し、警戒している。
不遜でふてぶてしくて、それでも誰よりも友達との交流を楽しんでいた兄貴がその付き合いを断ったのを、俺は少し寂しい気持ちで見ていた。
両親が死んで、オメガになって。兄貴は思いの外、いろんな事を我慢している。
それが、俺にはとても悲しかったのだ。
「なぁ、お前さ……」
「何?」
ある日、兄貴が俺に向かって尋ねて来た事がある。いつになく、真面目で、真剣な顔で。
「俺を、抱きたいと思った事は、ないのか?」
その言葉に俺は思わず本気で「はぁ?」と、開いた口を塞げなくなってしまった。
俺が兄貴を抱きたいかだって?
俺は発情期中の兄貴を思い出して、勢いよく首を振った。あんな苦しそうな兄貴を前に抱きたいとかそんな事思えない。可哀想だとすら思うのに。
俺は表情を歪めたまま勢いよく首を振る。
それに、兄貴は誰の雌にもならない、なりたくないと言った。
なのに、何故そんな事を言うのだろうか。
俺は訳がわからないと言った風に、兄貴を見たが兄貴は次の瞬間いつもの兄貴に戻っていた。
「っは、まぁ抱きたいなんて戯言言いやがった日には、もれなく俺がテメェをボコボコにしてやるところだけどな!?」
「いたっ!痛いってば!なんで蹴るんだよ!言ってないじゃん!意味わからん!」
そう言って「はっ」と笑いながら俺を足蹴にしてくる兄貴を見上げながら、俺はいつもの兄貴にホッとした。そして、兄貴のその質問の本当の意図も知らずに俺は兄貴と笑い合った。
いろんな事を我慢しなくてはならなくなった兄貴だ。せめて、俺に関する事だけは我慢せず、昔みたいにメチャクチャやってほしい。
「ほんっと、お前はバカだわ」
「兄貴に言われたくない!」
けれど、兄貴のその言葉の意味を理解する日はすぐそこまで迫っていた。
◇
「え?」
中学の卒業式1週間前。
俺は学校で受けた適正検査の結果を前に、一人息を呑んでいた。
「オメガ……俺が?」
俺も、兄貴同様オメガだった。
ドッ、ドッ、ドッ。
心臓が鈍く、しかし早鐘のように鳴り響く。
兄貴がオメガだったのだ。
俺だってオメガである可能性は十分にありえたし、考えていなかったわけではない。けれど、オメガの数はそれほど多くない。
だから俺はきっとベータだろうと、どこかで安穏と考えていたのだ。
だから、ショックだった。兄貴の事を考えると、こんなにショックを受けてはいけないとは思う。
しかし、いざ自分がオメガと言われると受け入れがたいものがあったのだ。
俺は不安で、不安で、自分がオメガだと分かったその瞬間から、俺の体から何らかのフェロモンが出て、見知らぬアルファやベータを引き寄せてしまっているのではないかという恐怖に襲われた。
自分が雌になり、兄貴のように発情してしまう事は恐怖以外の何物でもなかったのだ。あの兄貴が友人関係を断ったのも、今なら真に理解できる。
今俺の隣に居る友達も、きっとアルファに違いないあの女子も。
皆、俺の敵だ。
「いやだ……どうしたらいい?」
俺は適正検査の結果をクシャリと握りしめると、急いで家へと走った。
「(にいちゃん、にいちゃん、にいちゃん、にいちゃん)」
俺は兄貴を呼びながら人混みを駆け抜ける。すると、途中何人かの人にぶつかった。
俺は謝る余裕などなく、ただただ足を動かす。
すると、次の瞬間また俺は人にぶつかった。しかし、今度は見逃してはもらえなかった。
「人にぶつかっといて、謝りもしないなんてさぁ……ありえなくね?」
「っ!」
走り去ろうとする俺の腕を掴み痛い程の強さで拘束するのは、どこかで見た事のあるような銀色の髪をした高校生だった。所以、不良というヤツなのだろう。
俺は気が動転しつつも反射的に、この男に恐怖した。
そして本能で察した。コイツは俺の敵だ、と。
すると、相手の銀髪の男は、突然俺の首筋に鼻を押し付けるとスンスンと匂いを嗅いで俺を見てきた。そして、言った。
「……お前、オメガ?」
「っ」
俺はその瞬間、体中の毛穴という毛穴がぶわっと開くのを感じると、勢いよく男の手を叩き落とした。
「うわああああああ!!!」
「おいっ!」
「俺に触るなぁあああああ!」
俺は悲鳴を上げ、手を伸ばしてくる男に背を向け必死に走った。
怖かった。
俺はまだ発情期を一度も迎えていない、まだ完ぺきにオメガになりきれてはいない筈なのに、やはり鋭いアルファには分かってしまうのだ。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い
俺は先程男が触れた首筋に爪を立てた。
気持ち悪くて仕方が無い。
そして、いつの間にか家の前まで走っていた俺は、扉を開けようとして自分の右手が血で真っ赤にそまっているのに気が付いた。どうやら首筋に爪を立て過ぎて出血していたらしい。
それも、けっこう大量に。
そんな事にも気付かなかったとは。その時の俺はどれほど必死だったのだろうか。
俺は何かから逃げるように家に入ると、すぐに鍵を締めた。どうやら兄貴はもう帰ってきているようだ。そう言えば、兄貴は予定通りいけば明日から発情期に入ると言っていた。
そのため、今日も早目の帰宅なのだろう。
万が一の為に。
「っは、っは、っは、っは」
俺は浅く息を繰り返しながら、とにかく兄貴の居るリビングへとゆっくりと向かった。
そして、
「……た、だいま」
「おかえり……って、何だ!?その血!?」
俺は思わず「ただいま」なんて口にしてしまったが、兄貴はそうではなかった。
兄貴は俺の血だらけの首や手を見て、俺に駆けよって来た。そんな兄貴を前に俺はそれまで感じていた緊張やら恐怖やら絶望やらが一気に溶けて、その場に崩れ落ちていた。
「うぁっ、あぁぁぁっ……にいちゃん、にいちゃん、にいちゃん」
「おいっ、何があった!?これは誰にやられた!おいっ!泣いてねぇで言え!?」
そう、焦ったように俺を宥める兄貴に、俺は一度決壊した涙の本流を止められず、ただ兄貴にしがみついて泣いた。
喚いた。
そして、俺がまともに話が出来るようになったのは、俺が帰宅してから1時間以上が経った後だった。途中から兄貴は俺に話させるのを諦めたかのように、俺の背中を叩き続けた。
力加減が分かっていないのか、途中少し痛いとすら感じる叩き方だったが、俺はその手が愛おしくて仕方が無かった。
俺の味方。
兄貴、にいちゃんだけは俺の、味方だ。
◇
「やっぱりか」
やっと、俺が泣きやんだ後。
兄貴は目を腫らして語った俺の言葉に小さく息を吐きながら言った。その言葉に俺は「え?」と思わぬ間抜け面を晒す事になった。
「知って、たの?にいちゃん」
「なんつーか……勘は勘だけどな」
「勘って」
俺は兄貴のなんてことない言葉に更に間抜け面を晒すと、兄貴はニヤリと笑って俺を見てきた。
「俺はお前の兄貴だから分かるんだよ」
「…………っ」
「っつーのは嘘で」
少しがっかりしてしまった。
そんな俺の残念さを、兄貴は見透かすように俺の頭に手をのせグリグリとしてくる。そんな兄貴を前に、俺はどんな顔をすればよいのかわからなくなってしまった。
「お前さ、俺の発情期に一切反応しなかっただろ。普通、あんだけの近い位置に発情してるオメガが居たらな、アルファはもちろん、ベータだって反応する筈だ。なのに、お前は少しも俺にそんなそぶりを見せ無かった。だから、なんとなくお前もオメガなんだろうとは思ってたんだよ」
「そっか……じゃあ、俺やっぱりオメガなんだな」
兄貴の言葉に俺は目を伏せた。
確かにそうだと、思ってしまったのだ。そんな事、少し考えればわかりそうなものなのに。
もしかすると、俺は理解したくないが故に、考えるのを辞めてしまっていたのかもしれない。
「……俺は、お前がオメガで良かったと思ってる」
兄貴は、俺の傷ついた首筋に自らの口を寄せながらそう呟いた。
それは先程、見知らぬアルファにされた行為と同じだったが、不思議と嫌悪も恐怖もなかった。それどころか、少しずつ何かが高ぶるような、そんな奇妙な感覚に襲われていった。
「んっ」
傷を舐められる。
兄貴の舌が俺の首筋を這う。
這いながら、兄貴の口は少しずつ俺のうなじへと向かった。
そして、うなじまで到達すると兄貴はそのまま。
「ふっ、っつ」
俺のうなじを噛んだ。
それは、アルファがオメガを番にする時の行為であり、それをされたオメガは噛んだアルファ以外にフェロモンを発しなくなる。
番の絆は永遠だ。
けれど、俺と兄貴はオメガ同士。
それは疑似的な番行為であり、意味はない。意味はないが、俺の中では“絶対”の行為だ。
俺と兄貴は互いの体を抱きしめ合いながら、そのまま嘘みたいに突然二人で発情期に突入した。
おかしいだろう。
兄弟で、オメガ同士で、疑似番で。
回りは皆敵だと身を寄せ合う俺達兄弟は、きっと他人から見れば哀れで滑稽なのかもしれない。
けれど、俺も兄貴もクソだから。
それで、十分なのだ。
◇
一人の男がある家の前で立ち止まる。
夜の闇に銀色の髪の毛を光らせ、口元には笑みを浮かべ。
真っ暗な家の前で、ジッとその家を見つめる。男は支配する対象を探していた。
男は全ての性の頂点。
アルファだ。
【そして、兄貴は俺と、嘘になった】了