泣いている。泣いている。
月が、泣いている。可哀想に。
月の王子様は、たった一人の愛しい人を失って、酷く悲しそうだ。先に大人になってしまって。置いていったのは自分だった筈なのに、今や彼が置いていかれている。
「インじゃないっ!じゃあ、お前は誰なんだ!?同じような事を、同じような表情で俺に言って!惑わせて!期待させて!インに会わせてやる?お前なんかに何が出来る!?」
「…………」
「なぁ、会わせてくれよ!“俺”を、“イン”に!頼むよ……」
「…………」
やっぱり、こうなった。
やっぱり、“俺”は選ばれなかった。
「ごめん、なさい」
分かっていたのに、やっぱり。
——–アウト。きっと分かっていても、キミは凄く傷つく事になるよ。
苦しい。とても、苦しくて仕方がない。
でも、お陰で、俺ももう、大丈夫だ。この世界に微かに残っていた“望み”が、今この瞬間に、綺麗サッパリなくなった。
もう、いい。
「ウィズ」
「なにがっ!なにが!月みたい、だ!何が!ファーだ!なんなんだ!?お前は一体何なんだよ!?なぁっ!イン!インに会いたい!インに会わせて!僕を、インに!」
「ウィズ、聞いてくれ」
「インっ!イン!どこだよ!どこに居るんだ!?」
「ウィズ!」
可哀想に。
もう目の前にいるのは小さな男の子と同じじゃないか。
俺は突き飛ばされる覚悟で、ウィズの体に抱き着いた。抱き着いて、言う。俺の、今ある全てを使って。
伝える。もう、これしか言えない。
「会わせる。必ず、“お前”に、インを、会わせる。絶対だ。約束だ!」
「……っ!」
抱き着いた瞬間、頭の上で息を呑むような音がする。
俺の体は突き飛ばされたりする事はなく、ただこの腕の中には、体をこわばらせ、震わせる一人の男が居るのみ。
「あ、ああ。アウト」
もう、きっとウィズは、以前のように俺に対して笑いかけてくる事もないだろう。
こんな世界に、もう、俺も未練なんてない。
「約束する!俺が必ず、お前を幸福に連れて行くから!」
「……アウト。待て。待って、違う」
「だから、少しだけ……待っててくれ!」
抱きしめていた体を離し、俺はその両手をウィズの腕へと添える。「ちがう、ちがう」とうわ言のように口にするウィズの言葉を、俺はもう聞かないフリをした。
ウィズは疲れている。寝かせてあげないと。
「ほら、ウィズ。お前は疲れてるんだ。忙しかったもんな。お疲れ」
「アウト、違う。聞いてくれ」
「ほら、今日は一緒に寝よう。おいで、さっきまで俺が寝てたから、あったかいぞ」
力ないウィズの腕を引き、俺はウィズをベッドの上へと引き寄せる。冷たい体だ。風邪を引いたらいけないから、温かくして寝ないと。
「ウィズ。ほら。よしよし、目を瞑ったらすぐに眠くなる。しっかり休もう」
「あうと、あうと」
「俺も隣で一緒に寝るから。そんな顔をするな」
ウィズは何やら言葉を探しているようだが、どうやら何も言葉をその手に掴む事が出来なかったらしい。
俺が毛布をウィズの肩までかけてやると、ウィズは唇を噛み締めて黙りこんだ。
「……あうと」
狭いベッドの上で、大の男が向かい合って互いを見つめ合う。やっぱり、二人は暖かい。俺は少しだけ欲をかいた。欲をかいて、ウィズの冷たい手に自分の手を添えた。
先程、叩き落とされた手が、少しまだ痛む。痛むし、俺もあの時のウィズの顔が離れない為、握ったりする事は出来なかった。
だから、添えるだけ。添えるだけ。
「ウィズ。おやすみ」
俺はウィズに向かって眠りにつく前の挨拶を口にすると、目を閉じた。
閉じた先に広がる、長い長い夢の世界へ、俺は飛び出す。
俺の中にある、一世界分の人々の中から、俺はたった一人を探しに行かなければならないのだから。
———イン。お前が俺の中に居る事を、俺はちゃんと知ってるよ。だから、待ってて。
俺は深い眠りの底へと落ちて行くと、そのまま、もう一人では登り切れない程、深い暗闇の中へ、落ちて行った。
——–
——
—-
「っ!」
覚醒した。
俺は、一瞬そこがどこだか分からなかった。ただ、酷く温かいそこは、あんな酷い状態だった俺を、いつの間にか安らかな眠りへと誘うくらいには、本当に心地良く、思いの外ぐっすりと眠ってしまっていた。
「……アウト?」
隣を見れば俺の手に自身の手を触れたままの体勢で、眠るアウトの姿。
「……俺は、何を」
昨晩、いや、違う。まだ、つい数時間程前の話だ。俺は禁書の解読を終え、そこからの記憶は殆ど曖昧だ。
自分であって、自分でない。記憶は曖昧で、ただ、記憶がない訳ではない。
そんな、曖昧な記憶の中を必死に辿る。
「アウト。俺はアウトを、傷付けた」
俺の言葉は曖昧にしか思い出せないのに、あの時のアウトの表情だけは、脳裏に焼き付いて離れない。あんなアウトの表情は初めて見る。
あんなに、全てを“諦めた”ような表情は。
「アウト、アウト」
俺は不安に苛まれながら、すぐ傍にあるアウトの肩を揺らす。名を呼ぶ。けれど、アウトは少しも俺の言葉に反応を示す事はない。
あぁ、これは。なんだ。
俺は目の前に横たわる、温かいアウトの体に触れながら思った。
目を瞑る“コレ”は、アウトであって、アウトでない。そう本能が叫ぶ。
「アウト、起きろ。起きてくれ」
そう、名を呼び続ける俺に、アウトがいつものように笑顔で応えてくれる事は
なかった。