242:おやすみ

 泣いている。泣いている。

 月が、泣いている。可哀想に。

 月の王子様は、たった一人の愛しい人を失って、酷く悲しそうだ。先に大人になってしまって。置いていったのは自分だった筈なのに、今や彼が置いていかれている。

 

 

「インじゃないっ!じゃあ、お前は誰なんだ!?同じような事を、同じような表情で俺に言って!惑わせて!期待させて!インに会わせてやる?お前なんかに何が出来る!?」

「…………」

「なぁ、会わせてくれよ!“俺”を、“イン”に!頼むよ……」

「…………」

 

 やっぱり、こうなった。

 やっぱり、“俺”は選ばれなかった。

 

「ごめん、なさい」

 

 分かっていたのに、やっぱり。

 

——–アウト。きっと分かっていても、キミは凄く傷つく事になるよ。

 

 苦しい。とても、苦しくて仕方がない。

 でも、お陰で、俺ももう、大丈夫だ。この世界に微かに残っていた“望み”が、今この瞬間に、綺麗サッパリなくなった。

 もう、いい。

 

「ウィズ」

「なにがっ!なにが!月みたい、だ!何が!ファーだ!なんなんだ!?お前は一体何なんだよ!?なぁっ!イン!インに会いたい!インに会わせて!僕を、インに!」

「ウィズ、聞いてくれ」

「インっ!イン!どこだよ!どこに居るんだ!?」

「ウィズ!」

 

 可哀想に。

 もう目の前にいるのは小さな男の子と同じじゃないか。

 俺は突き飛ばされる覚悟で、ウィズの体に抱き着いた。抱き着いて、言う。俺の、今ある全てを使って。

 

 伝える。もう、これしか言えない。

 

「会わせる。必ず、“お前”に、インを、会わせる。絶対だ。約束だ!」

「……っ!」

 

 抱き着いた瞬間、頭の上で息を呑むような音がする。

 俺の体は突き飛ばされたりする事はなく、ただこの腕の中には、体をこわばらせ、震わせる一人の男が居るのみ。

 

「あ、ああ。アウト」

 

 もう、きっとウィズは、以前のように俺に対して笑いかけてくる事もないだろう。

 こんな世界に、もう、俺も未練なんてない。

 

「約束する!俺が必ず、お前を幸福に連れて行くから!」

「……アウト。待て。待って、違う」

「だから、少しだけ……待っててくれ!」

 

 抱きしめていた体を離し、俺はその両手をウィズの腕へと添える。「ちがう、ちがう」とうわ言のように口にするウィズの言葉を、俺はもう聞かないフリをした。

 ウィズは疲れている。寝かせてあげないと。

 

「ほら、ウィズ。お前は疲れてるんだ。忙しかったもんな。お疲れ」

「アウト、違う。聞いてくれ」

「ほら、今日は一緒に寝よう。おいで、さっきまで俺が寝てたから、あったかいぞ」

 

 力ないウィズの腕を引き、俺はウィズをベッドの上へと引き寄せる。冷たい体だ。風邪を引いたらいけないから、温かくして寝ないと。

 

「ウィズ。ほら。よしよし、目を瞑ったらすぐに眠くなる。しっかり休もう」

「あうと、あうと」

「俺も隣で一緒に寝るから。そんな顔をするな」

 

 ウィズは何やら言葉を探しているようだが、どうやら何も言葉をその手に掴む事が出来なかったらしい。

 俺が毛布をウィズの肩までかけてやると、ウィズは唇を噛み締めて黙りこんだ。

 

「……あうと」

 

 狭いベッドの上で、大の男が向かい合って互いを見つめ合う。やっぱり、二人は暖かい。俺は少しだけ欲をかいた。欲をかいて、ウィズの冷たい手に自分の手を添えた。

 

 先程、叩き落とされた手が、少しまだ痛む。痛むし、俺もあの時のウィズの顔が離れない為、握ったりする事は出来なかった。

 

 だから、添えるだけ。添えるだけ。

 

「ウィズ。おやすみ」

 

 俺はウィズに向かって眠りにつく前の挨拶を口にすると、目を閉じた。

 閉じた先に広がる、長い長い夢の世界へ、俺は飛び出す。

 俺の中にある、一世界分の人々の中から、俺はたった一人を探しに行かなければならないのだから。

 

———イン。お前が俺の中に居る事を、俺はちゃんと知ってるよ。だから、待ってて。

 

 俺は深い眠りの底へと落ちて行くと、そのまま、もう一人では登り切れない程、深い暗闇の中へ、落ちて行った。

 

 

 

 

 

——–

——

—-

 

 

 

「っ!」

 

 覚醒した。

 俺は、一瞬そこがどこだか分からなかった。ただ、酷く温かいそこは、あんな酷い状態だった俺を、いつの間にか安らかな眠りへと誘うくらいには、本当に心地良く、思いの外ぐっすりと眠ってしまっていた。

 

「……アウト?」

 

 隣を見れば俺の手に自身の手を触れたままの体勢で、眠るアウトの姿。

 

「……俺は、何を」

 

 昨晩、いや、違う。まだ、つい数時間程前の話だ。俺は禁書の解読を終え、そこからの記憶は殆ど曖昧だ。

自分であって、自分でない。記憶は曖昧で、ただ、記憶がない訳ではない。

 そんな、曖昧な記憶の中を必死に辿る。

 

「アウト。俺はアウトを、傷付けた」

 

 俺の言葉は曖昧にしか思い出せないのに、あの時のアウトの表情だけは、脳裏に焼き付いて離れない。あんなアウトの表情は初めて見る。

 あんなに、全てを“諦めた”ような表情は。

 

「アウト、アウト」

 

 俺は不安に苛まれながら、すぐ傍にあるアウトの肩を揺らす。名を呼ぶ。けれど、アウトは少しも俺の言葉に反応を示す事はない。

 

あぁ、これは。なんだ。

 

 俺は目の前に横たわる、温かいアウトの体に触れながら思った。

 目を瞑る“コレ”は、アウトであって、アウトでない。そう本能が叫ぶ。

 

「アウト、起きろ。起きてくれ」

 

 そう、名を呼び続ける俺に、アウトがいつものように笑顔で応えてくれる事は

 

 

 

なかった。