245:キミが居て良かった

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『イン?って人を探せばいいの?』

『そう!イン!俺はインを探してるんだ!お願い!協力してくれ!ファー!』

 

 俺は店じまいをした店内で、机の上に大量に残されたグラスを回収してまわるファーに向かって、両手を顔の前でパシンと合わせた。

 そんな俺に、ファーは『うーん』と、首を傾げる。

 

『でも』

『言いたい事は分かる!分かるけど!お願い!手伝って!』

 

 ”でも”と、そこから続く言葉を、俺は容易に想像が出来る。出来るけど、そうも言ってはいられない。

 今、こうして俺が頼る事の出来る相手は、この、目の前で首を傾げる少年だけなのだから。

 

 このファーという、15歳の少年。

 彼は俺の店で雇う事にした、たった一人の従業員だ。

 

 最初は客としてやって来た彼を、俺はまだ子供だと言って『酒は出せない』と断った。

 すると、どうだろう。彼は自分を此処で雇ってくれ!と頼んできたのである。その頃には、ちょうど客足もそれまで以上に増え、俺一人ではとてもじゃないが、店を切り盛りするのが難しくなっていた。

 

 否、別に俺が客の一人一人の昔話に付き合ったりしなければ、まだやれたと思う。

 

 けれど、それじゃあ意味がない!

 

 なにせ、俺は客の昔話を聞くのが大好きなのだ。

 それぞれの思い出話を、その本人の口から聞く事。それは、とても面白い物語の本を、まるで眠る前に読み聞かせて貰っているような気分なのだ。これからどんなお話を聞かせて貰えるのだろうと、心底ワクワクしてしまう。

 

 そういった話を聞くために、俺はこの店をやっているといっても過言ではない。それが出来なくなってしまうというのは、最早、それを楽しむ為に店をやっている俺からすれば、本末転倒も甚だしいのだ。

 

———-俺にも、この店を手伝わせてください!

 

 だから、俺は彼からの申し出を受け入れた。

 お陰で、今なお新しい客が増え続けるこの店で、俺は未だに一人一人の話に耳を傾ける事が出来ている。

 

 それに、この店が余りにも素敵だから働きたいのだと言われてしまえば、断るなんて出来っこないじゃないか!

 

『でも、皆ここのお客さんは自分の名前を知らないよ?』

『分かってる!だから、それは分かってるんだ!』

『それに、俺達だって自分達の名前なんて知らないし』

『ほんと!その通りなんだけどね!』

 

 俺はファーからの、至極当然とも言える疑問に、うんうんと激しく頷いてやる事しか出来なかった。

 

 そう、そうなのだ。

 インを探せと言っている当の俺も、この頼み事が無茶である事は百も承知なのだ。なにせ、この店を訪れる客は、皆が皆、自身の名前を尋ねられると首を傾げてしまうような人達なのだから。

 

 そして、それは俺とファーもまた同様だ。

 

『名前、かぁ』

『そう、名前だ』

 

 いや、むしろ最初は“名前”ってなんだっけ?とすら疑問に思った始末だ。何なら、今も“名前”というのが何かはハッキリと理解出来ていない。

 ただ、相手を呼ぶ時に不便なので使う“呼び声”。きっと、それが“名前”なんだろうな、というくらいの認識なのである。

 

『俺の、この“ファー”みたいな感じのヤツを、お客さんに聞いていけばいいんだね?』

『まぁ、簡単に言えばそう』

 

 ファー。

 この唯一の従業員である彼の呼び名は、俺が決めたものだ。

 最初は特に名前が無い事など気にせず、毎日仕事をしていた。けれど、その不都合はすぐに露呈した。

 

——–おーい!ねぇ!おーい!こっちの酒をそっちに持っていって!おーい!

——–ねぇ、マスター?誰の事を呼んでいるの?

——–えっと、えっと!あの子!

——–どの子?

 

 そう、名前がなければこんなに不便なのかという位、純粋に不便だった。俺にはまだ“マスター”という、店の店主としての呼び名があるから、まだ良かったのだ。

けれど、少年にはそれがない。だから、呼べない。たった、それだけの事が、本当に不便だったのだ。

 

 あぁ、名前って凄く重要じゃないか!と、俺はすぐに、この少年の名前を考える事にしたのだ。

 そして付けられた名が。

 

———よし!キミはファーだ!

———ファー?それが、俺の名前?

———そう!酒場には“ファー”が居なきゃ!

———そうなの?

———そうなの!

———そっか!確かに、そうかも!

 

 こんな風にして、少年の名前は“ファー”と相成った。

どうして彼を“ファー”と名付けたのか。どうして酒場と言えば“ファー”なのか。

 それは決めた俺自身すら分からないのだが、俺は彼をファーと呼びたかったし、酒場にはファーが居なければと、何故か強く思ってしまったのだから仕方がない。

 

『でもな?“普通に貴方の名前は?”って聞いても駄目だぞ』

『だよね。みんな、名前なんて知らないみたいだし』

 

 そう言って、難しい顔で腕を組むファーに、俺は今日知った最重要事項を彼へと伝える事にした。

 

『いや!それは違う!さっきからずっと言おうと思ってたけど!ファー!皆、知らないんじゃない。ちょっと、忘れてるだけだ!』

『忘れてる……?それは知らないのとは違う?』

『全然違う!忘れてるって事は、本当は皆、ちゃんと自分の名前は知ってるんだ!ただ、何故か今だけ忘れてしまってるだけで!』

 

———どうしたの?急に私の名前なんて。

 

 柊 愛子さんが、まさにそうだった。彼女は、最初こそ『名前?何の事?』と言って首を傾げて居たにも関わらず、俺が彼女の“名”を口にした途端、当たり前のようにその“名”を受け入れていた。

 

『忘れているだけ……じゃあ、どうやって思い出してもらったらいいの?』

『そう!それが一番の問題なんだけどさ』

 

 そう。皆、本当は自分の名前を、きちんと知っている筈なのだ。それを、何らかの理由で忘れているだけ。

そして、それは“ある”きっかけで思い出す。

 それを俺は今日、目の当たりにした。

 

『でも、今日なんとなく分かったんだ!皆の名前を知る方法!』

 

———-あぁっ!手紙、あったわ。あの子からの手紙。

 

『その人の、一番大切な思い出を聞く事が出来ると、一緒に思い出すみたい!』

『一番、大切な思い出』

『そう!それが何かは分からない。分からないから、俺達は皆の思い出話を聞いていくしかない!』

 

 そう、俺が勢いよくファーに言うと、その瞬間ファーは思い切り笑った。笑って、楽しそうに言うのだった。

 

『なぁんだ!それって今までと全く同じじゃん!』

『……確かに、そうかも!』

 

 ファーの言葉に、俺は確かにそうだと思い切り納得してしまった。そうだ、それって今まで店で俺がやってきた事と、まったく同じじゃないか!

 俺は今まで通り、この店で皆のお話を聞いていけばいい。それで良かったんだ!

 

『マスターって面白いね!俺は何をさせられるのかと思ったけど、最初に店の説明をしてくれた時と何も変わってない!』

 

 その通りだ。だとすると、俺は“忘れて”しまっていただけで、もしかすると、この店は“イン”を探すための酒場だったのかも。

 俺もいろいろと忘れてしまっているので、充分にあり得る。

 

『じゃあ、これからもお客さんの話を聞いて、“イン”が見つかったらマスターに教えてあげるね!』

『ありがとう!ファー!キミが居て良かった!』

『ふふ』

 

 キミが居て良かった。

 そう、自分で口にした言葉に、俺は何故か自身の胸のあたりがツキリと痛むのを感じた。