264:怒髪星空を衝く

      〇

 

 

 

 声が、聞こえた。

 

 

『イン、お待たせ。ごめんね。今、迎えに行くからね』

 

 その声を聞いた時。俺はとっさに“懐かしい”って思ったんだ。

 

『え、ええ?誰?なに?え?開かない、開かないよ。この部屋は。だって鍵が……』

 

 そう、急にマスターではない声で語り掛けられて、部屋の中でオロオロしているうちに、扉の方からガチャリという音が聞こえてきた。

 

 あ、開いた。

 俺は余りにも当たり前みたいに開いた扉に、目を瞬かせるしかなかった。開かれた扉と、その扉のすぐ向こうに現れた人影。

 

『あぁっ!イン、いん、いん……やっと会えた!』

 

 泣きそうな、そして、嬉しそうな声が、俺の耳に響く。響き渡ると同時に、その知らない、きれいな男の子が部屋へと入ってきた。

 

 あれれ?どうして?

 この部屋には俺が鍵をかけた筈だったのに、鍵なんてないみたいに普通に開けられてしまった。でも、よく見れば彼の手には、1本の”鍵”がある。

 もしかして、あの鍵で開けたのだろうか。

 

『なんで……?』

 

 でも、鍵を掛けた俺だって、鍵は持っていなかったのに、どうしてこの男の子が持っているのだろう。

 

 あぁっ!でも、今はそんな事を言っている場合じゃない!この部屋を開けてしまったら、マスターが意地悪をして、俺を無理やり外へ出そうとしてくるに違いないのだ。

 早く扉を閉めないと、いつまたマスターが乗り込んでくるかもしれない。

 

『なんで開けるの!?勝手に開けないでよ!早く出て行って!』

『っ!イン?俺だよ……分からない?もしかして、怒ってる?ねぇ、イン!』

 

 知らない男の子は、俺の言う事になんて一つも答えずに、泣きそうな顔で此方へと近づいてくる。

 

『イン、イン、インッ。ごめん、あの時は本当に……でも、俺こうして会いに来たよ。インに会いたくて、だから、俺、ずっと』

『……誰?』

『イン。そりゃあ怒るよね……でも、お願いだ!イン、今だけは俺を許して。もう、本当に絶対に離れな』

『ねぇ!だから誰なの!?俺、君みたいな子、知らないよ!』

『っ!』

 

 俺は、こんな子、知らない。

 けれど、どうやらこの子は俺の事を知っているみたいだ。だって、さっきからずっと俺の事を“イン”って呼んでくるのだから。

 そう、“イン”は俺の真名だ。俺の大事な名前。だから、彼は俺の事を嘘でも、勘違いでもなく、ちゃんと“知っている”ようだ。

 

『ねぇ、なんでキミは俺の名前を知っているの?』

『……そっか。そう、だよね』

 

 男の子は、先程まで興奮した顔で俺の方へと向かってきていたけれど、ここに来てその足を止めた。その子の立っている場所は、俺から3歩くらい離れたところ。

 

『イン』

 

 そう、悲し気に俺の名を口にする男の子は、やっぱり凄く格好良くて、綺麗で、まるで俺の好きなお話に出てくる“月の王子様”みたいだなぁと思った。

 でも、いくら綺麗で格好良くても、こんなに悲しい顔をされたら、俺まで気持ちがきゅうっとなってしまう。

 

『あの、えっと』

 

 きっと、俺がこの子を忘れてしまっているからだ。だから、この子は凄く悲しそうな顔をする。でも、本当の、本当に、俺は分からない。バカだから、何でもすぐに忘れてしまう。

 

『あの、ごめんなさい。俺、あんまり頭が良くないから……覚えれる事が少なくて』

 

 そう、だから、あまり昔の事だとハッキリと覚えていられないのだ。もしかして、お店に来ていたお客さんの中に居たのだろうか。

 

『あ、もしかしてお客さんの中に居た?』

『……あぁ、もう。本当に俺の顔、忘れちゃってるんだ』

 

 尋ねてみるけど、綺麗で格好良い男の子は悲しそうな表情を浮かべるだけで、そうだよ、とも違うよ、とも答えない。ただ、先程俺の部屋の扉を開けた鍵を、男の子は掌でクルクルと回す。

 何故か、俺はその鍵が気になって仕方なかった。

 覚えられる事が少ない俺でも、何故か、あの鍵だけは知っているような気がするのだ。

 

『そうだったね。こんなに長い時間、離れ離れになった事なんて一度も無かったもんね。仕方ない。だって、インはたった1週間、俺が首都に戻っただけでも、俺の顔があやふやになるんだもん』

『え?』

 

 その話は、どこかで聞いた事がある。

 首都。一週間。離れ離れ。寂しい。

 

———ねぇ、イン。お願いだから、たった1週間で俺の事を忘れて、ビロウの所になんて行かないでよ。

 

 俺の頭の中に響く、拗ねたような声。あぁ、懐かしい。懐かしい。これは大好きな声だ。そして、その声は目の前の男の子の声と、凄く、良く似ている。

 

『しゅと、いっしゅうかん、はなればなれ。さみしい。びろう。かお、かくにん』

 

 もうすぐ、もうすぐで何か大切なものが、俺の中に戻りそう。俺は頭が悪いから、一つ一つ確認するみたいに頭の中に浮かんできた言葉を口に出す。口に出して、一つ一つ繋ぎ合わせるように、指で数えていった。

 

『は?』

 

 すると、それまで俺の3歩離れた場所で鍵をその手で遊ばせていた、男の子が一気に俺のすぐ目の前まで近づいてきた。

 その顔は何故か物凄く怒っているみたいで、さっきまでの悲しそうな顔なんて、どこかへ飛んで行ってしまったみたいだ。

 

『イン、イン、イン、イン!!!』

 

 まって、まって。もうすぐ思い出しそう。あと、少しなんだ。だから、

 

『なんで!?なんで俺より先にビロウの名前が出てくるんだよっ!クソッ!やっぱりあの後、俺が居なくなって、何かあったんだ!』

『いない、そう。いなくて、さみしくて。びろうに、聞きにいった』

『あぁぁぁっ!やっぱり!やっぱりか!クソクソクソクソッ!不愉快だ!なんであの時、俺は出て行ったりなんかしたんだ!なんでインが誘ってくれた時に、二人で一緒に生きる道を選ばなかったんだ!』

 

 怒ってる。凄く怒ってる。この顔、この声、この怒り方。

 クソッて言った。不愉快って言った。

 

———-クソッ!ビロウとなんか仲良くするなよ!不愉快だ!

 

 俺は、よおく知っている。

 だって、俺は難しい事が分からなくて、そのせいで、よく怒らせてしまっていたから。

 でも、仕方ないよ。顔を見たかったんだ。だって、すぐに遠くに行っちゃうじゃないか。寂しかったんだ。だから、少しでも顔が見たいって思っちゃったんだ。似た顔でもいいから、少しでも会いたいって。

 そう、毎日、毎日、まいにち、まってた。

 

 誰を?