『帰ってくる、よるが、帰ってくるんだ』
俺はオブの言葉を思い出しながら、確かめるように小さく呟いた。そんな俺を、やっぱり通り過ぎて行く村人達は、怪訝そうな顔で見てくる。
けれど、やっぱり俺はそんなのは気にならない。なにせ、早ければ明日の夜にはヨルとまた大岩の上でお喋りが出来るかもしれないんだ。
お喋りの他にもヨルとしたい事は山ほどある!歌ったり踊ったり、喋ったり、それに――。
二人で“えいえん”を誓いあったり。
『ヨル、話したい事も、したい事もたくさんあるんだ』
俺は、あの死の崖を見た日から、絶え間なく行ってきた“えいえん”を誓う行為を思い両手で顔を覆った。何故か、その時の俺の顔だけは周囲から隠さなければ、と思ったのだ。周囲に変だと思われても、なんてことない筈なのに、この時ばかりはそうは思えなかった。
———-スルー。来い。
ヨルの声が耳の奥に響く。
そんな風に呼ばれたら、俺にとっては、一も二もなく“全て”がヨルになるのだ。俺はヨルの首に手を回し、ヨルの腕が俺の腰に回される。“えいえん”を誓う時、俺達は誰よりもお互いを近くにするのだ。オブやインとは比べ物にならないくらい、俺達は近い。
———-スルー、お前は本当に、全てが素晴らしい。
いや、近いというより、そのまま俺達は互いに一つになる。思いのまま、俺達は全てを互いにぶつけ続けるのだ。あれは、本当に素敵だ。はやく、ヨルと全部をしたい。また、一つになりたい。
『ひゃっほーい!』
俺は隠していた顔を上げると、少しだけ熱くなった自身の体を冷ますように、その場から駆け出した。
空の籠がカラカラと背中で揺れる。そのまま俺は喜びのあまり、肥料を取りに向かった先に居たふわふわのけもる達に勢いよく飛びついた。
めぇ。
いつもはけもる達が俺に向かって突進してくるのに、今日は逆だ。俺がけもる達に向かって頭をぐいぐいと押し付ける。これは“だいすき”を全身で伝える方法だ。俺は近寄って来たふわふわ達の中で嬉しさを爆発させた。
『かわいいな。お前らは本当にかわいい!大好きだ!』
めぇ。
小さな鳴き声は俺の耳元で優しく響く。そして、俺は一番傍で俺と同じようにグイグイと頭を押し付けてきていたけもるのお腹に、ソッと触れた。そのお腹は、今にもはちきれそうな程パンパンだ。乳も張ってきているのが分かる。
『けもる。もうすぐお母さんだな!赤ん坊はきっと世界一可愛いに違いないぞ!』
そう、けもるは現在妊娠中だ。父親がどのフワフワかは分からないが、まぁ、この中に居る事は間違いない。けもるだけでなく、他の数匹のフワフワも妊娠中なので、きっとすぐに此処はもっと賑やかになるに違いない。
『生まれたら、最初に駆け付けるからな!』
俺は大切で愛おしいフワフワを抱き締めながらそう言うと、フワフワ達もそれに応えるように『めぇ』と口々に鳴いた。
〇
ガンッ
その瞬間、鈍い音と共に俺の顔に物凄い勢いで木皿が飛んで来た。そのせいで、中に入っていた熱いスープが俺の顔や体に降りかかる。
あぁ、今日も無駄になったか。
『親父、食べ物を余り無駄にするな』
『……本当に、お前は憎らしい』
俺は極力感情を消した声で、俺に木皿を投げつけてきた相手に声を掛ける。けれど、その相手は俺の言葉などまるで聞いてはいないようで、その声に込めうるだけの憎しみを込めて俺に放ってくる。
『本当に、憎らしい』
俺は今親父の世話の為に、あの家に来ている。ヴァーサスが死んでから、毎日だ。だから、俺は毎日のように、こうしてモノを投げつけられている。
あぁ、まったくもって迷惑甚だしい!
親父は多少足にガタが来ているため、昔のように、自由に、機敏に動く事が出来ない。けれど、こうして俺に対して木皿を投げつけて来る様子を見ると、それ以外は本当に驚くほど元気なように見える。
『昼間のアレは、一体なんだ』
そう言って椅子に腰かけたまま、ダンッと勢いよく足を床に叩きつけた。そう、別に足にガタが来ているといっても、別に年齢から考えると親父は特別弱っている訳ではない。むしろ、腰も曲らず元気な方だ。
———父さんは、今具合が悪いんだ。
夏は、確かにコイツは弱っていた筈なのに。
もしかして、俺への憎しみがコイツを元気にしているのではないだろうか。頭を過った考えが、まさにそうである事を証明するように、またしても俺の元に木で出来た湯呑が飛んで来た。
『ってぇ』
『答えろ、昼間のアレは何だと聞いている』
この男の手元に何かを置くのは控えなければ、でなければ俺は此処に来るたびに体の傷が増えてしまう事になる。しかも今回は顔だから、今までのように隠せないのが困りモノだ。
『何の事を言っているんだ……サッパリ分からん』
『知らばっくれるな。昼間、あんな目立つ場所で自分の事を偉いだなんだと愚かな事を叫んでいただろう。ヴァーサスが死んで、お前は腹の中ではあぁやって喜んでいた訳か』
———この、痴愚が。
親父の言葉に、俺は一瞬何の事かと頭を傾げたが、すぐに合点がいった。そうか、昼間のアレか。
———俺は偉い!一番偉いんだ!
そう、自分を鼓舞する為に口にしていた言葉を、どうやらこの男は勘違いしているらしい。あぁ、面倒だ。
『別にアレはそう言う意味で言ったんじゃない。俺の事など、おや……アンタが村長にしなければいい話だ』
『うるさいっ!お前がくたばれば良かったんだ!何故、ヴァーサスが逝ってお前が残る!?全てお前のせいだっ!』
ギリギリと奥歯を噛み締めるような表情で、目の前の男の口からは「ふー、ふー」と震える息が漏れる。もう手元には俺に投げつけられるようなモノはない。一安心だ。
俺は一心に此方を睨みつけてくる男から視線を落とすと、俺の足元に零れたスープを拭う為に床拭きを手に取った。
あぁ、もったいない。もうすぐ真冬で食べ物も減ってしまうというのに。この男は、餓死する覚悟でも出来ているのだろうか。
『ヴァーサスは俺の弟だ。俺も悲しいさ』
『どの口が言う。この痴れ者が……汚れた血め』
『そうだな、俺は汚れた血だよ』
『っは、そうだろうとも』
床を拭いながら、男の癇癪に付き合ってやる。早ければ明日の夜にはヨルが帰ってくのだ。そう思えば、こんなの何でもない。耐えられる。
——–スルー、大人しく待っているんだぞ。
うん、ヨル。俺は今日も元気で、ちゃんと大人しくしている。だから早く帰って来てくれ。
そう、俺が心の中のヨルに語り掛けた時だ。俺の耳に、思いも寄らぬ言葉が入り込んで来た。
『あんな貴族の男なんぞに肌を許すなど……お前は、どこまで気狂いになれば気が済む』
『っ!』
その言葉に、俺の心にドクリとする何かが走った。寒い。今日は、こんなにも寒かっただろうか。
俺は床に手をつきながら、少しだけ目を閉じた。目を閉じ、その身を小さく震わせる。
あぁ、吐きそうだ。