3:誰とも知れぬ奴からパクる傘

 

 

「雨か……ダリィな」

 

 下駄箱の前で、会下孝太は地面に激しく打ち付ける雨粒に、眉を顰めた。今朝はあんなに晴れていたのに、一体何をどうしたら急にこんな天気になれるというのか。

 

「……うっざ」

 

 もちろん、孝太は傘なんて持ってきていない。

 というか、孝太が傘を事前に持ち歩くような事は、これまでの人生でただの一度もなかった。家を出る時に降っていなければ、そんな荷物にしかならない邪魔な棒など、先を見越して持って歩こう筈もない。

 

 なにせ、孝太は“面倒”を、この世の何よりも嫌っているのだから。

 

「さっさと帰るか」

 

 孝太は当たり前のように、出入り口横に置いてあった傘の中の一本に手をかけると、何の躊躇いもなくその傘を取った。否、盗った。

 そう、孝太が傘を持ち歩かない理由。それは、まさにコレだ。

 

「……マジですげえな。この雨」

 

 孝太は自分の傘でもないその傘を、当たり前のように広げると勢いよく雨足の強まる外へと一歩踏み出した。

 孝太はいつも他人の傘を勝手に使う。孝太的には“借りているだけ”だが、所以それは、勝手に使われた側からすれば“盗まれた”以外の何者でもない。

 戯れに、傘をクルリと回してみる。

 

「つーか、何だこの傘」

 

 無駄な事に、煩わしさを覚えたくない。

 良心の呵責など微塵も苛まれたりしない孝太は、開かれた傘の内側に鮮やかに彩られる青空と雲と虹のプリントされた傘に、なんだか一人の人間が頭の片隅に浮かぶのを止められなかった。

 

「うるせぇ柄」

———こうちゃーん!

 

 雑餉隈 啓次郎。

 孝太とは真逆の、全てにおいて全身全霊の少年。いつも笑っており、孝太を見ると、まるで犬のように駆けだして来る。そして、何の躊躇いもなく孝太の前にゴロンと寝転び、腹を見せてくる少年。

 

孝太に出来た、初めての毛色の違う人間関係。

 

「啓次郎……アイツ、傘持って来てっかな」

 

 らしくない事を考えていると思う。

 けれど、思ってしまうのだから仕方がない。

 

——–こうちゃん、こうちゃん!あのな!今日な!

 

 今日の昼休みも、啓次郎はいつもと変わらぬ太陽のような笑顔を存分にふりまき、孝太の機嫌をおおいに良くした。雨の中の校庭を横切っただけで、靴もその中も既にジュクジュクだ。それにも関わらず、孝太の機嫌が悪くならないのは、この傘が、どこかあの啓次郎を思い出させるからに違いなかった。

 

 あぁ、一緒に帰ろうと誘えば良かったか。

 まぁ、一緒に帰ろうにも、啓次郎と孝太の家は逆方向だ。帰るとしても、この学校内までしか共に居られる時間はない。

 

 けれど、

 

——–こうちゃんだ!一緒に帰ってくれるの!?うひょう!今日は雨だけど、良い日だなー!!

 

「教室、寄ってやりゃあ良かったかもな」

 

 そして、傘が無ければ、今日はアイツを家まで送るついでに、遊びに寄ってやっても良かった。そう、心底無駄を嫌う孝太が口惜しく思ってしまうくらいには、孝太にとって啓次郎は非常に好ましい人間なのであった。

 ただ、

 

——-こうちゃん!良い匂い!俺、こうちゃんと同じ匂いになりたいから!シャンプーとか、体あらうのとか、香水とか、全部教えて!

「……」

 

 最近、いつものようにゴロンと無警戒に腹を見せてくる啓次郎に対し、孝太は酷く妙な気分に苛まれてしまうようになった。

 その“妙な気分”が、一体どんな気分なのか。他人の感情にも、自分の感情にも目を向けてこなかった孝太には、正直ハッキリと理解できる類の分かりやすい感情ではない事は確かだ。

 

 ただ、腹の下腹部が妙に疼くようなこの感覚。そう、これは――。

 

 一定のリズムで、激しく地面と傘を打ち付ける激しい雨。そのリズムに、孝太の思考がこれまでよりも深く深く潜り込む。

これ以上は考えるべきではない。そう、理性が静止をかけてくる中、ただ本能だけは、自ら進んでその先へと続く思考の扉を開こうと手をかけた。

 

その瞬間。思考は一時中断された。

外界から、不愉快に与えられた刺激によって。

 

「……会下?」

「あ?」

 

 突然、名前を呼ばれ、チラと声のする方を見れば、そこには、紺色の傘をさした一人の美しい見目の女生徒の姿があった。

 

上白垣 雫。

その顔を見れば、雨だというのに少しばかり機嫌が良さそうだ。

 

「アンタにしては珍しい傘さしてるじゃない」

「テメェに関係ねぇだろ」

「どうせ誰かのヤツをパクったんでしょ。サイテー」

「黙れ、このブサイク」

「……ねぇ」

 

 雫からの珍しい声かけに、孝太はすぐに視線を逸らす。中学時代、一瞬とは言え付き合った相手ではあるが、孝太は雫の事が嫌いだった。

 それは、

 

「この傘、雑餉隈が貸してくれたのよ」

「あ゛?」

「アイツ、私の事好きだからね。使ってって上納されちゃった」

 

 少しばかり勝ち誇ったような表情で口にされる言葉の、腹の立つ事と言ったら。正直、雫が男であれば、既に一発かましてやっているところだ。

否、女でも軽く手が出そうになっている。それほどまでに、その時の雫の顔は孝太の逆鱗をスルスルと撫でてきた。

 

「じゃあ、今、アイツは傘がねぇって事か?」

 

 この答の如何によっては、孝太は雫から傘を奪い取り、教室まで走るつもりだ。

 

「さすがに、傘一本の相手から取ったりしないわよ。普通の傘も持って来てるからって貸してくれたの」

「アイツは自分が濡れるのなんて気にしねぇ奴だろうが」

「ほんとよ。今朝、お母さんに無理やり持たされたって言ってたもの」

「……」

「雑餉隈、私に尽くせて嬉しそうだったわよ」

「死ねよ」

「っふ」

 

 スンとした表情で、いつの間にか隣を並んで歩く雫のお綺麗な横顔に、孝太は脳内で五発は右ストレートをかましてやった。

 

「男の嫉妬って見苦しいわね」

 

 そんな雫の、鼻で笑うような言葉に、孝太の傘を持つてに血管が浮かび上がる。

 あぁ、この女、一体どうしてやろうか。

 そう、孝太がこめかみにも血管を浮かび上がらせた時だ。

 

「うひょー!めちゃめちゃ雨強いなー!!あはははっ!」

 

 その瞬間、孝太の拳に浮かび上がっていた骨と血管が、一気に消えた。

 

 

「啓次郎」

 

 

 そう、孝太が振り返った先には、大雨の中を傘もささず駆け抜けてくる、孝太の中で、不可思議な下腹部の疼きを与えてくる相手が居た。

 雑餉隈 啓次郎。

 

 彼は、孝太の姿をその瞳に映し出した瞬間、子犬よろしく、尻尾を振って此方へと駆け出してきた。

 

 

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