彼の話:学ランを着た少年と柔道バカ

 

あぁ、くだらない。
あぁ、めんどくさい。
あぁ、本当に……

もう、何もする気が起きない。

 

少年は新たに始まった、高校の新学期とやらを、それはもう、心底ダルイ気持ちで迎えていた。

 

本当はこんな学校に来る筈じゃなかった。
こんな何の取り柄もないような進学校。

何の突出した良さも、何の魅力も感じない。

 

本当なら、少年は自慢の柔道の腕を使って、別の学校へ行く筈だった。
そこは、柔道では有名な高校で数多くの有力な選手を世へ生み出してきた、柔道をする者の登竜門のような学校だった。

 

しかし、少年は、今はそこではなく、この何の変哲もない普通科の進学校に居る。

 

少年は誰からも将来を有望視されていた。
何度も何度も名のある大会で優勝してきた。

 

日本一にもなった。

練習すればするほどに強くなっていく自分が嬉しくて、少年は毎日毎日練習した。

少年は柔道が大好きだった。

 

“柔道バカ”なんて呼ばれていたくらいだ。
その位、少年は柔道に熱中した。

 

将来は、柔道で世界一になる事だって夢じゃないと言われて居た。
だから、世界一になる事は少年にとっては夢ではなく目標だった。

それはあくまで最初から少年の人生の先にある、通り道の筈だったのだ。

 

しかし……

 

「浮島中から来ました。相田 翔太です。趣味は人間観察です!」

 

ノロノロと行われる一本調子な自己紹介に、少年はさも下らないと溜息をつくと、ダルそうに窓際の席から外を眺めた。

あぁ、本当に、下らない所に来てしまった。

 

本当は……本当なら。

 

そう、少年が考える輝かしい未来は、既にもう少年の歩める道ではなかった。

 

中学3年の時の夏の大会。
その、大した事のない小さな大会で、少年は足に怪我を負ってしまった。

もう、二度と、柔道の出来ないくらいの、大きな怪我を。

 

普通に生活する分には、何の問題もないと医者からは言われた。
しかし、もうスポーツを……柔道をできるような足ではないとも、その時ハッキリ言われた。

少年はその医者の言葉に、あれほどハッキリ見えていた自分の明るい将来が一気に真っ暗な暗闇に押しやられた気がした。

普通に生活するには問題ない?

笑わせる。

柔道は少年にとって生活の一部どころか全てだった。
それができなくて、何が普通に生活するには問題ない、だ。

本当に……笑わせる。

 

少年はあの時の自分を思い出し、小さく失笑を漏らすと自分の足をに爪を立てた。

あぁ、この足が。
この弱い足のせいで。

 

「えっと、次の自己紹介は……新谷君?新谷 楽君?」

 

 

前に立つ若い女性の先生が、生徒の名前を呼ぶ。

しかし、呼ばれた生徒はこの場に居ないのか教室からはその他大勢のざわめきしか聞こえない。

少年はそのざわめきに顔を上げた。
自分の一つ前の席が空いている。

 

もしや、この席の人間が、そのまだ来ていない新谷 楽と言う人間なのだろうか。

入学式から遅刻とは……一体どういう人間なのだろう。

少年は自分の足に爪を立てながら、まぁどうでもいいかとふとまた窓から外を見た。

 

すると。

窓の外、正確には校門からこちらに向かって、ただ一人走って来る学ラン姿の生徒が居た。

校門前には、一台の軽自動車が止まっている。

その車からは一人のスーツ姿の男が、生徒に向かって拳を突き立てて何か叫んでいる。
男子生徒もそれに応えるように、何か手でジェスチャーをしている。

どうやら、あの男子生徒はあの軽自動車の男にここまで送ってもらったようだ。

それにしても、あの恰好はなんだろう。
少年は自分の着ている制服にチラリと目を落としふとそう思った。

 

自分が着ているのは学ランではなくブレザーだ。何故なら、この学校の指定の制服はブレザーだからだ。

なのに、あの男子生徒は学ランを着ている。
全身真っ黒な、学ランを。

 

少年は、何の気なしにその走る学ラン少年を目で追った。

すると、それと同時に少年の教室の扉が勢いよく開かれた。

 

「堀田先生、少し、いいですか?」

「あ、はい。どうしたんですか。道本先生」

 

教室に来たのは見た事のない、まぁこの学校の別の男性教諭のようだった。
その男性教諭は少年達の担任を入口まで呼ぶと、担任の耳元で何かコソコソと話し始めた。

 

その間も、少年は学校へ駆けこんでくる少年を見ていた。
しかし、既に校庭には少年の姿は見えない。
きっと、学校の中へ入ったのだろう。

少年は少しばかり、あの男子生徒の行方を気にかけていると、次の瞬間、話を聞いていた担任の口から思いもよらぬ言葉が教室中に響き渡った。

 

「え!?間違って中学校に行ってたんですか!?」

 

は。

少年は突然聞こえてきた言葉に自分の耳を疑った。

中学校に……新学期に。
間違って……?

 

「そうなんです。だから、今、上木中から連絡が合って。教師の方がコッチに送ってきてくれてるそうですよ……」

「………は、はぁ」

 

どこか疲れたように口を動かす男性教諭に、担任は呆けたような表情で頷く。

 

「すぐにつくとは言っ

「すみませぇぇぇぇん!!!」

……着いたみたいですよ。先生」

「………は、はぁ」

突然、廊下に響き渡ったまだ幼さを残す声と、更に呆れたように呟く男性教諭の声、そして何が何だか状況を掴めていない担任の声が、シンと静まり返った教室内に響いた。

 

まさか。
さっきのアイツ。

もしかして。

 

少年は早くなる鼓動を抑え、廊下側から響いてくる声に、瞬きをすることも忘れて入口を凝視した。
そして、次の瞬間。

 

「し、新谷?その格好は……?」

 

戸惑いの声を上げる男性教諭の脇から教室に飛び込んできた男子生徒、それは。

 

 

「俺の母校、上木中が誇る、由緒正しき学ランです!」

 

あの、学ラン少年だった。

そんな学ラン少年に、クラスの注目は一気に集まり、しかも教師からは、どう対応しようかしらと言うなんとも言い難い空気が教室に漂った。

 

「えっと……それは。あの、どう言う……」

「………すみません!今朝間違ってこれ着て家を出てしまいました。……愛校心故」

「……中学校まで行ったって本当なの?新谷君?」

「いやっ!先生、そんな羞恥プレイこの場で強要しないで!」

「おい、新谷?ちゃんと、高校の制服は持ってるんだろう?」

「……春休み、母ちゃんが奮発してワンサイズ大きいのを買ってくれました!俺の成長に期待って感じですね!」

「……そう、良かったわ。明日からは……ソッチを着てきちんと来ましょうか?」

「……はい」

 

教室の前で戸惑った教師二人に諭されるように制服の注意を受けると、徐々に声がしぼむ学ラン少年が教室にとぼとぼと入って来た。
教室中の視線が一気に学ラン少年……もとい新谷 楽に集中する。

すると、学ラン少年は一人「あはは」と苦笑いすると、一つだけ開いてる……少年の前の席を見つけ、足早にそこへ向かおうとした。
しかし、それは後ろに立っていた担任の女性教諭が許さなかった。

 

「あ、新谷君?丁度、自己紹介があなたの番なのよ。丁度いいから前でやっていきなさい」

「……あうち」

 

多分、いや、きっと女性教諭には何の悪意もない。
しかし、この状況で丁度いいからと前で自己紹介をさせられる羽目になった新谷 楽と言う少年に、席でその様子を見ていた少年は、既に腹がよじれそうな程の笑いをこらえていた。

 

間違って中学に?
卒業式までして、春休みも2週間は過ごして来て?

 

挙句、新学期に母校へ登校したのか。

あの学ラン少年が、自分より年下ばかりが住まう新学期の教室へ駆け込んだ姿を想像して、少年は更に大声で笑いたい衝動に駆られた。
しかし、さすがに今まだ教室がシンとしている為、笑うとすぐに自分だとばれてしまう。

 

少年は必死に口元を手で覆うと、そのまま新谷 楽へと視線を向け続けた。
なんだか、1分でも1秒でも彼から目が離せない気がした。

目を離した隙に、彼がとてつもなく面白い事をしでかすようで。

少年は、最初に感じていた、つまらない、やる気のない怠惰な気持ちが一気に吹っ飛んでいる事に、彼自身気付いていなかった。

 

 

「……えーっと、新谷 楽です。上木中出身です。えっと、今朝、間違って……中学に行ってました。自分でビックリしました。学ランは中学の制服です。えっと……」

「………っっ」

「貧乏だから、制服が買えなかったわけじゃなくて……あの、制服はちゃんと、買いました」

「……っっっ!!」

「けど、何か起きたら、ちょっと寝坊で、ちょっと慌てたので、間違ってこれを着ました。特技は、えっと、特にありません。……あ、やっぱ、ありました。特技は声が大きい事です。みなさんよろしくお願いします」

 

そう言ってペコリと頭を下げる学ランの少年。
そして、次の瞬間。

耐えに耐え抜いてきた少年の忍耐も、一気に崩れ去った。

 

「っぶ!あはははははははは!!何!何その自己紹介!?何でその流れで特技言ったし!何の脈絡もねーじゃん!お前バカだろ!?つか、慌てて中学の制服着るかよ!っく、っはははははは!!!ビックリしましたって、こっちがびっくりだわ!何!何お前バカなの!?ウケルんだけど!」

 

静まり返る教室の中ひたすら新谷 楽を指差しながら大爆笑する少年。
しかし、これまた次の瞬間、静かだった教室が一気に笑いの渦にのまれた。

男子も女子もそして教師も、黒板の前に立つ新谷 楽を見て笑った。
その余りの笑い声に、教室どころか廊下にも、他の教室にも笑い声がこだまする。

 

しかし、その中で笑っていない人間が一人居た。

そう、新谷 楽、その人だ。

 

「俺はバカじゃねぇぇぇ!!ちょっとうっかりしてただけだ!テメェ表でろ!!」

「バーカ!バーカ!お前がバカじゃなけりゃ、皆さん天才ですけど!?うっかりレベルの高さに俺ビックリですけど!」

「うっせーうっせー!俺はここに宣言する!お前なんか嫌いだー!」

「あははははははは!!」

「笑うな!笑うな!無性にお前の笑い方は腹が立つんだよ畜生!!」

「あははははははははは!」

「え、え、ちょっ!ねぇ、それ本気笑い!?ねぇ、本気笑い!?ねぇ、俺そんなに……!?え、え!?ちょっと!!笑い上戸………?」

 

 

その、あまりの笑いのエンドレスループに、少年は戸惑いながら、心を躍らせた。
自分の来るべき場所ではない、つまらない場所だと思っていたこの学校。

 

つまらない、最悪な、新学期。

もう、二度とあの輝かしいステージには立てない、その悔しさと、絶望。

先に楽しみも希望も見えないと、不貞腐れた毎日。

 

それら全てが吹き飛ぶ程、少年は笑った。
笑いすぎて涙が出てきた。

そうしたら、バカなアイツは今度は「大丈夫かよ!?」とポケットからティッシュを取り出してくるから。
その行動のこっけいさに、少年はまた笑った。

もう、何がなんだかわからなくなるくらい。

笑って、笑って、笑って……泣いた。

 

それは、少年が柔道を二度と出来ないと言われてから見せた

 

 

初めての、笑顔と涙だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

——-
その後の少年の高校生活は毎日輝いていた。

「新谷」
「白木原」

お互いそう呼び合って、笑う毎日。
あの、輝かしいステージは、また彼の前に降り立ったのだった。