第44話:*****

 

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少年は知っていた。
この、目の前の可愛らしい先輩が、ずっとずっと自分の事を特別に思ってくれているのを。

不安にまみれた自分の気持ちを温かくしてくれていた事を。

 

少年は気付かないフリをしていた。
自分の中にも誰かを特別に思う気持ちがあるのだという事を。

自分の中にはびこる不安を払拭するために。

少年は自分を守っていた。
だから、自分に向かってくる特別な感情に対し、どれも平等に返していこうとした。

そうする事によって、自分の中には“特別”なんてないのだと、更に自分に言い聞かせてきた。

しかし、少年は気付いてしまった。
自分の中にも、誰かを特別に、大切に想う気持ちがあるという事を。

同時に、これまで平等に返してきたと思っていた気持ちが、まったく平等ではなかった事にも気付いた。
自分を守るためのかりそめの平等。

とっくの昔に……

“特別”という差別が、そこに生まれてしまっていたのだ。

ずっと、そう。

ずっと、昔から。

 

 

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同じく、どこかの廊下では。

 

 

 

「先輩。劇、凄く良かったです。面白かった、ほんとに」

「太一様にそう言って頂けると、俺も本当に頑張った甲斐があります!」

そう、いつもの如く野伏間に向かって笑いかける悠氏は満面の笑みだった。

疲れた様子など欠片もない。
それは90分近く舞台に出ずっぱりで、王女様と男子高校生の二つの役を器用に演じ分けていた人間の表情ではなかった。

そして、悠氏は舞台の最後に身に纏っていた美しいドレスのままの姿で野伏間の前に居た。

まぁ、それとは相反して野伏間の姿はとても滑稽なものであった。
舞台を鑑賞中、時々、いや、頻繁に自分を見てコソコソと何かを囁き合う周りの観客達に、野伏間は嫌と言うほど自分の現在の格好を見せつけられていたのだから。

そんな苦行にも近い演劇鑑賞を終え、野伏間は現在、演劇部の部室の前に居た。
舞台を終えた悠氏から、少しだけ話さないかと提案を受けたのだ。

本来ならば、クラスの業務をサボって現在まで過ごしてしまったのだから、早く教室へ帰らなければならない。
それと合い成って、自分に背を向けて走って行った、西山の事が気になって仕方がなかった。

野伏間は、西山と“文化祭”をしたかったのだ。

だから、野伏間は早く教室に帰らなければ、帰りたいと思った。

だが、同時に西山の背中は何故だか自分をこの場へと残らせた。
まだ、帰って来てはいけないと。
そう、あの背中を見て野伏間は強く思ってしまったのだ。

野伏間は自分の中に芽生えてくる奇妙な感覚に、未だにこの場に留まっていた。
目の前に立つ、王女様を前に、ただ向き合っていた。

「悠氏先輩、カッコ良かった」

「太一様、可愛いとか綺麗とかって言ってくれないんですね?」

「悠氏先輩は、昔からかっこ良かったから」

「そう言ってくれるのは、やっぱり太一様だけですね!」

野伏間よりも、頭一つ分は小さな悠氏だったが、これが舞台の上に立つと誰よりも存在感のある王女様になるのだから、演技力とは凄いものだ。

しかし、そんな演技力にも陰りが見えた。
野伏間は目の前で満面の笑みを浮かべる、いつもの優しくも、可愛くも、淫らでもあり、男らしくもある……

そんな、普段の悠氏の姿にヒクリと眉を寄せた。
いや、舞台の上での演技は本当に見事なものだったのだ。

しかし、今は違う。
きっと悠氏は演じようとしているのだ。

普段通りの“渡辺 悠氏”を。
悠氏は必死に演じようとしている。
それが野伏間には、手に取るようにわかった。

必死に笑う悠氏の笑顔は、笑顔の奥で、悲しみと、そして決意を帯びていた。

その目を見て、太一はまた思う。
悠氏は本当に、かっこいいと。

「だから、俺も先輩を見習う事にします」

「そんなぁ!太一様は俺なんか見習わなくても、ずっと太一様はカッコイイじゃないですか!」

そう、笑いながら野伏間に向き合う悠氏の目は、ユラリと揺れる。
必死に平静を保とうとしているが、それでもその動揺は瞳を伝い、野伏間へと伝えられた。

「悠氏先輩」

「……な、んですか」

カラカラと口の中が渇く、妙な感覚。

悠氏は迷いのない目で自分を見つめてくる太一に向かって、心臓が早鐘のように鳴り響くのを聞いた。

悠氏の前には一本の白い線がある。
それはスタートラインだ。
悠氏はその線の前に立つ。

他の皆と同じ。
自分もその中の一人だと。
皆、同じスタートラインから一歩も先進まない。

進めない。

そう、信じることで、縋ってこれた思いが、今まさに悠氏は目の前に立つ野伏間の口から壊されようとしている。
白い線と言う名の柵が、今、壊されようとしている。

「俺の親衛隊、今日をもって、解散して頂けないでしょうか」

「……っ」

「悠氏先輩」

「もう、いりませんか……?俺達は……」

 

そう、いつも通りの笑顔をその顔から消し去り、ヒクリと喉を空気が駆け抜ける。

悠氏にとって、それは聞きたくない言葉だった。
幼い頃から好きだった彼の口から出される“拒絶”ともとれる言葉。

誰もが同じスタートラインに立ち、一歩も進む事が許されなかった。
親衛隊と言う一本の白い線が、悠氏にとっては心を支える安全な柵だった。

『かっこいいなぁ』

そう、純粋な目で見て微笑んでくれた。
悠氏の中の“特別”が。
特別な存在が。

かっこいいと言ってくれる野伏間のせいで。
自分がどんどんと弱く、カッコ悪くなってしまったのだ。

だから、安全な柵越しでないと。

悠氏は、“特別”を好きではいられなかった。

その柵を、野伏間は壊す。
だけど、悠氏はそんな野伏間の言葉を、どこか待って居た自分が居る事にも気付いた。

悠氏は今、壊された柵の前に居る。
白い線の消えた先に、野伏間が立って居るのを見つける。

 

「違う、いらないのは……親衛隊じゃないんだ……先輩」

「じゃあ……どうして」

どうして。
なんて言いながら、悠氏にはなんとなくわかっていた。
彼が……野伏間が、いらないという、そのモノが何か。

「いらないのは……ルールだよ。悠氏先輩」

「…………」

「俺の親衛隊さ……、ルールあるじゃん。親衛隊に所属するものは、俺に想いを伝えてはならない、って。平等でなければならないっていうやつ」

すうっと冷たい空気が悠氏の体を巡る。
冷えて行く体。
しかし、それとは相反するようなカタチで熱を帯びていく気持ち。

そんな掴みどころのない感情に支配される悠氏を、どこか慈しむような目で見つめてくる野伏間は、ひたすらに穏やかだった。

想いを伝えてはならない。
それは悠氏が作ったルールだった。
姑息で、ずるい、自分本位なルール。

悠氏は知っていた。
自分に野伏間からの“特別”が与えられないという事を。

そんな事、出会った頃からわかっていた。

その目が向かう先も、なんとなく……わかっていた。

自分の特別が相手の特別として返ってこないという状態は、ひたすらに辛いものだった。

しかし同時に、悠氏の特別を向ける相手、つまり野伏間も、悠氏と同様だった。

自分の特別。
しかし相手に取っての自分は、同じとは限らない。

野伏間はその辛さから逃れるように、皆に平等を返した。
自分には“特別”など初めから居ないのだと自らに言い聞かせるように。

そんな野伏間を見て、悠氏は姑息な、恥ずかしい真似をした。
彼の見ないふりをしてきた、その想い。

それを無いものとして扱わせ続けた。
野伏間にそれを強要した。

“太一様は皆の太一様”
“太一様は本命など作ったりしない”
“それが、太一様の、筋なんだ”

そんな事を勝手に吹聴し、野伏間の口を封じた。
特別を語るその口を。

自分の特別が実らないのなら、誰にも彼の特別をあげたりなんかしない。

かっこいいのが好きで。
強くある事を望んで。
可愛いなんて言われたくない。
男らしく、潔く。

なんて言っていた自分がとった自分勝手な、姑息なルール。

どこがカッコイイのだろうか。
どこが強いのだろうか。
どこが……潔いのだろうか。

『かっこいいなぁ、キミは』

そう言って笑ってくれた、あの幼い頃の野伏間に。
今、悠氏は誇れる姿をしていない。

でも、それでも、彼の特別を他の誰かにやるよりかはマシだった。

“誰にも想いを伝えてはならない”

そのルールは親衛隊に課したルールであり、口を塞がざるを得なかった、野伏間に向けたルールでもあったのだ。

その白い線が、安全を保障してくれる柵が、他でもない太一によって崩された。

「俺は……ガキの頃。誰からも自分は愛されていないんだ、なんて恥ずかしい事で悩んでた」

「……はい」

悠氏はゆっくり頷いた。
野伏間は常に自分の存在に疑問を抱いていた。
“自分は必要な人間なのだろうか”と。
故、それは野伏間のコンプレックスのようなものだった。

遠い昔家族から放っておかれた、幼い彼の心に芽生えたコンプレックス。

「誰かに必要とされている安心感ってさ、本当は最初に家族から貰うものらしいんだ。母親とか父親とか……でも、俺はそれが足りなかったみたい。他の何もかもが自分の力で手に入っても、こればっかりは自分一人じゃ手に入れられない。ずっと、俺のコンプレックスだった」

「……はい」

「でも。足りなかったソレを与えてくれたのが、悠氏先輩であり、親衛隊だった。こんな俺を、必要としてくれる先輩達が……俺には本当に大事な人達なんです。いらないなんて事ない。先輩達のお陰で、俺は自分の価値を信じることができました」

そう言って笑う野伏間は、本当に、本当に穏やかで幸せそうで。
そんな野伏間に、悠氏は泣きたくなった。
目の前には、もう白い線も柵もない。

踏み出そうと思えばいつでも前に踏み出せる。

「だから、そんなルールの中に閉じ込められないで。もっとそばに来て下さい。先輩……。俺も、もう大丈夫ですから」

「………太一様……」

「悠氏先輩の劇を見てたら、わかりました。悠氏先輩も、俺も……皆も……何ものにも囚われる事なく、もっと自由に生きていかないといけない。心に、手綱は……つけられないんだから」

「っ」

 

また、冷たい空気が体を駆け抜ける。
しかし、それは先程とは違い、体を冷やしたりはしなかった。

熱い体。
ホカホカする気持ち。

伝わっていた。
劇に込めた野伏間に向けた想い。
ズルくて、卑怯な、自分のせいで閉ざさせてしまっていた彼の気持ちを、悠氏はやっと解きほぐす事ができた。

それが卒業する前に、彼に伝えておきたかった事の一つ。

好きで、好きでたまらなかった。
小さくて、可愛いなんて。
そんなコンプレックスの固まりだった自分に、純粋な手を差し伸べてくれた野伏間への恩返し。

そして、もう一つ伝えておきたかった気持ちがある。
自分の作った勝手なルールで、野伏間どころか自分自身にまで口を閉ざす事を強いてきた。

白い線の先にあり、柵越しに居た彼。

しかし、今、手を伸ばせばすぐに届く距離に居る。

悠氏は走った。
そして力の限り、自分に向かって永遠に“特別”を向けてはくれない相手に、せき止めてきた気持ちを吐露した。

 

「太一様!俺、小学校の時から……ずっと太一様が大好きでした!」

 

腕の中にある暖かい存在。
これでやっと……

やっと。

 

(太一様を、諦める事ができる)

 

悠氏は止まっていた場所から、一歩前へと踏み出した。

 

 

 

 

 

 

—————

 

 

「………はぁ」

 

野伏間は自分一人になってしまった廊下で、小さな溜息を吐いた。

(ずっと太一様が大好きでした)

そう言って野伏間に想いを伝えた先輩は、もうここには居ない。
強い彼は、やはり、野伏間の前で泣く事は一度もなかった。

(ごめんね、先輩)

そう、絞り出すような声で返事をした野伏間に対し、悠氏は最後まで彼の持ち前の演技力を遺憾なく発揮した。

悠氏は……笑ったのだ。

(知ってました!)

そう、いつものように悠氏は野伏間に向かって笑いかけると、抱きついていた手を離し、野伏間から一歩離れた。
そして二言三言話しをすると、そのまま彼は野伏間に背を向け走って行ってしまった。

それは、何の違和感もなければ、いつも通りの彼の姿だった。
それが、彼のできる唯一の虚勢であった事は、野伏間にだってよく理解できた。

その虚勢の先に何があるのか、野伏間はわかった所で手の及ぶ範囲ではない。

野伏間には、彼に気持ちを返す事ができない。
ただ、受け止める事しかできないのだ。

だからこそ、今、自分の気持ちの中に渦巻くどうにもできない感情は、酷く野伏間の胸を締め付けてならなかった。

「………はぁ、戻ろ……」

今は一人が辛い。
どこかで一人で泣いているのかもしれない、あの可愛らしくもカッコイイ先輩とは違い、自分は弱い人間だと思う。
しかし、今は……一人は辛かった。

野伏間が、視線を廊下に落としたまま、自分の教室に戻ろうと踵を返す。
そう言えば、まだ一度もクラスの出しモノに参加をしていなが、クラスの方は大丈夫だろうか。

そんな事をぼんやりと考えながら、野伏間は沈む気持ちを抱き続けながら前へ進む。
視線は、落ち込んだまま。

「……はぁ」

そう、もう一度、野伏間が溜息を吐いた時。
突然視界の先に誰かの足が見えた。

「っ」

瞬間的に、野伏間は顔を上げた。
ここには、誰も居ないと思っていたのに。

背筋を流れる嫌な汗を感じながら、野伏間は目の前に立つ人物を捕えた。
それは明らかに、この学園の人間ではないと思われる体つきのしっかりした男で、何やら面白そうな顔で野伏間の事を見ていた。

「なぁ、お前、その格好さぁ2年A組のメイド喫茶の子」

「っへ?」

いきなり男に話しかけられ、野伏間は一瞬何の事だかわからなかった。
しかし、次の瞬間には男の指す“その格好”に思い至りカッっと体が熱くなるのを感じた。
そう言えば、すっかり忘れていたが自分は今まで、ずっとこの恥ずかしいメイドの格好をして歩いていたのだ。

その野伏間の羞恥を、男は更に楽しげな目で見つめると、何やら手に持っている鍵の山を勢いよく空中に投げた。

シャラリ

そう、鍵と鍵の擦れ合う音が野伏間の耳を掠める。

「告白タイムも終わった事だしさぁ、キミ」

「っ……」

「これから、俺のタダ働きに付き合ってもらおうかな」

シャラリ

付き合って貰おうかな。
そう、彼が言い終わると同時に、野伏間の手に丁度よく、彼の投げた鍵が手の中に収まっていた。

「A組のパシリ、手伝わないとはいわせないぜ?」

そう言ってニヤリと笑う彼の顔は、どことなく。
本当に、どことなくだが。

野伏間の知る、強引な彼によく似ていた。

 

 

 

 

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