『お前ら!いい加減にしろ!こんな所まで来て、ふざけてると怪我するからな!?』
一郎の怒声が耳の奥を貫く。
あぁ、そうだな。一郎。その通りだ。
でも俺、ふざけてたつもりは一つもないんだ。本当なんだ。ただ、壊滅的に不器用なだけなんだ。
なぁ。知ってるだろ?一郎?
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怪我をしてみたものの
(やっぱり俺の前に居るのは童子さんだった)
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「童子さんって彼女居るんですかー?」
女の子達の色めきだった声が聞こえてくる。その隣で、俺は与えられた作業に、心底神経を研ぎ澄ませていた。
俺は今、ジャガイモを切ろうとしているところだ。ヌルヌルするし、デコボコしているし、丸いし、ともかく切りにくい。
「居るように見えますか?」
「見える!」
「絶対に居る!」
「居なかったら変!」
真剣にじゃがいもと格闘しながら、内心、俺も女の子達に同意する。童子さんに恋人が居るのか居ないのか。そんなの「居るように見えますか?」なんて、まるで聞かれ慣れているかのように、サラリと出てくる質問返しに、全てが詰まっているじゃないか。
それにしても、この丸い安定性のない状態から、どこからどうやって切ればいいんだ?お母さんは、いつもどうやって切ってた?
「じゃあ、私は変な人ですね。いません」
「うっそだー!」
「絶対に隠してる!」
「もしかして、職場レンアイ?どーりょーに隠してるの?」
「あ、そう言うことねー」
あぁぁっ!なんか、凄い事言ってる。
童子さんも困ってるだろうな。
職場恋愛が故に、職場の同僚に恋人の存在を隠してる、と。確かにあり得そうな線ではあるが、君たちの口からそんな言葉が出てくると、俺はなんとも言えない気持ちになるよ。
「けーたろ。まだ切らないの?」
「え?あ?イチローは?」
「もう、玉ねぎもニンジンも切った」
「あー……お前、ほんと。そういうとこあるよな」
俺が女の子達と童子さんの会話に耳を奪われる中、隣で一緒に野菜を切っていたイチローは、既に自分に与えられた任務を全うしていた。
しかも、皮も残りガッタガタの俺のジャガイモに対して、イチローの手元にある野菜達は、どれもこれも綺麗だ。
「オレ切ろっか?なんか、けーたろ。ケガしそう」
「……あ」
完全に、イチローに気を遣われている。算数の時もそうだったが、イチローは態度こそ子供だが、各種能力値が異様に高い。それに加え、俺の様子を鑑みて「代わりにやってやろうか?」なんて口にしてきたもんだ。
これは、ちょっと……待って!?
「いや、じぶんで……切るけど」
「そう?あんね、そうやって持つと危ないよ。手ぇ切るよ。けーたろ」
「あ、あ、うん」
「こうやってしたらいいよ」
そう、隣から俺のガッタガタのじゃがいもを受け取ろうとしてくるイチローに、俺はとっさに、じゃがいもを背中に隠した。俺は一体何を持って、イチローを子供扱いなんてしていたんだ?
「けーたろ?」
もうイチローだって、立派に成長しているじゃないか。目の前に、目を瞬かせるイチローの顔がある。
「あれ?けーたろ、縮んだ?」
「ち、縮む訳ないだろ……お前が、の、伸びたんだよ」
そう、絶妙なタイミングで気付くではないか。俺も今、まったく同じ事を思った所だよ。これまで、殆ど変わらなかった俺とイチローの身長。それが小学六年生のここに来て、ジワジワと差がつけられ始めていた。
「そっかー!オレが伸びたんだー!寝てる時、体痛いなーって思ってたんだー!」
「成長痛まで……」
俺は、未だに夜はぐっすり眠れる。何かの痛みに眠気を遮られる事もない。幸せな事である。
あぁ、そうさ。差がついていた事にはずっと気付いていた。それが、ここまで明確に眼前に示されたのが、ハジメテだったのだ。
「じゃ……俺、じゃがいも、切るわ」
「わかった!むつかしかったら言って!オレ切るから!」
「……うん」
俺は、切った野菜をバットに入れ始めたイチローを横目に、本気で眩暈を起こしていた。昨日の寝不足と、昼間の炎天下の中でのウォーキングラリー。そして、唯一安心して子供扱い出来ていたイチローの、明確な心身共に及ぶ“成長期”。
「……早く切らなきゃ」
あぁ、待ってくれ。イチローまでもが、こんな……。
こんな他人に気遣いの出来る男になっていたなんて聞いてないぞ。あんなにキャンプを楽しみにしながら、犬みたいに駆け回って、誰よりも夏の空の似合う“可愛い子供”だったのに。
「……情けねぇ」
俺はじゃがいもを再びまな板の上に置くと、ひとまず半分に切らねば、と包丁の持ちてに力を込めた時だった。手元からじゃがいもがすべった。でも、刃先は容赦なくまな板にあった俺の指に、
「あ」
「あっ!」
あーーーー。
その瞬間、まな板の上は大惨事になっていた。
俺の人差し指の先端は、もうパッカリと包丁によって切り裂かれてしまった。幹部にジワリと血が滲んだかと思えば、そこからが凄かった。
絶え間なく流れ出る真っ赤な血。まるで俺の心臓が指先に移動したみたいに、傷口がドクドクと音を立てていた。
「血が!血がいっぱい出てるっ!けーたろ!せんせー!けーたろの指が切れた!切れたよーーーーー!!」
そんな言い方したら、まるで俺の指が真っ二つに切断されたみたいだろうが。大袈裟な。と、本当はそう口にしたつもりだった。
けれど、目の前で余りにも予想以上の血を吐き出してくる俺の指に、俺は完全に頭の中が真っ白になっていた。
馬鹿だと思うだろう。けれど、その時の俺は本気で思ったのだ。
「しぬ」
俺が半分泣きそうになりながら、そう呟いた時だった。俺の手首が大きな大人の手によって、ソッと掴まれていた。
「はい、大丈夫。敬太郎君、もう指見なくていいから」
「どーじさん、おれ、しぬ?」
「ふふ。大丈夫。死なない、死なない。まず、傷口を水で洗うよ」
「みず、こわい」
「大丈夫だから」
もう、その時の俺は完全に幼児退行していた。だって仕方がないじゃないか。本当に動揺してたんだ。そんな俺を、視界の端ではイチローが、目を瞬かせながら見ている。遠くからは一郎の駆け寄ってくるのも見える。
俺のせいで、周囲はもう大騒ぎだ。
「心臓より高い位置に指を持って、このタオルで指をギュッって持って」
「は、い」
「そしたら、事務室で薬を塗って絆創膏を貼ったら大丈夫」
「なおる?」
「治る治る、ほらおいで」
童子さんの手が、俺の背中にそっと添えられる。今から事務室に行くのだろう。
「……」
勘違いかもしれないけれど、フラフラする気がした。お腹も空いてて、寝不足で、こんなに血を流したんだから、フラフラするのも無理はないのかもしれない。
すると、おずおずと足を動かし始めた俺に、頭の上から苦笑する声が漏れ聞こえた。
「歩けそう?」
「……あるけ、ない」
なんて事だ。もちろん歩けないなんて事はない。なにせ、怪我をしているのは指であって、足ではないのだから。
しかし、次の瞬間、俺の体は童子さんによって、ひょいと抱きかかえられていた。
「はい、敬太郎君は特別だからね」
「……っは、っはぁっ」
「大丈夫、大丈夫」
「っくぅ……うぇ」
童子さんに抱きかかえられた俺は、もう完全に子供に戻ってしまっていた。自分の血が、こんなに怖いものだとは思わなかった。そうだ。俺は昔から、怪我とは縁遠かった。
一郎や、イチローと違って。
俺は前から抱きかかえられ、童子さんの首元に顔を預け情けなく涙を流す。力強く握りしめているにも関わらず、童子さんから貰ったタオルはどんどん真っ赤に染まっている。それがまたしても不安を煽り、更に俺の涙を助長させた。
「っひぅ、っひぅうう」
そのぼやけた視界の中で、ポツンと立ち尽くしながら此方を見ている、二人の“いちろう”の姿に、俺は何故か、更に目の中にブワリと涙の奔流が湧き上がってくるのを止められなかった。
「うえぇぇぇっ」
「大丈夫、大丈夫……あぁ、」
かわい。
痛みと不安で泣きわめく俺の耳に、童子さんの何やら熱のこもった呟きが、聞こえた気がした。