最近、改めて思う。
俺って、確かに昔の“記憶”はあるけれど、別に“大人”な訳じゃないんだなって。
一郎が昔みたいに俺を扱ってくれるから、勘違いしそうになるけど。
童子さんと話して、気付いた。
俺には昔の記憶があるだけの、ただの“ガキ”なんだなって。
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手当をしてみたものの
(俺は未だに自分の傷痕を見れないでいる)
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「はい、これで大丈夫」
「……」
そう言って童子さんに手当を受けた指先を見て、俺は未だに手がブルブルと震えるのを止められなかった。
なにせ、絆創膏のパットの部分は、未だに止まらない出血のせいで真っ赤に染まり続けているのだ。こんなの、普通の絆創膏二枚で足りるワケがない。
「……これで、おわり?病院は?」
「大丈夫。そこまでの傷じゃないよ」
「で、でも」
軽く答える童子さんに、俺は更に言い募るのを止められない。いくらビビリ過ぎだと笑われようとも、あの事件現場のように真っ赤に染まった台所への恐怖は、消したくても消せないのだ。
あんなに血を流したのは、前の人生を含め、生まれて初めてだ。
「血、止まってない、です……!」
もしかして、物凄く深い所まで切ってしまったんじゃないだろうか。このまま、俺の指は傷が原因で腐ったりしないだろうか。
そう、俺の思考はどんどん悪い方へと向かって行く。不安だ。止まらない血液は、それに呼応するように、俺の不安を増殖させてるのだ。
「大丈夫。体にはね、血を止めようとする力が、ちゃんとあるから。もう少しの辛抱だよ」
「でも、まだ……指が、ドクドク言ってて。ずっと、止まらない、かも」
「うーん、そっかそっか。……うん、わかった。ちょっと待っててごらん」
俺のしつこい不安の吐露に、童子さんは一瞬だけ考えるような表情を浮かべると、すぐに何かを思いついたのだろう。童子さんは手元にあった救急箱から、真っ白な包帯を取り出した。
「よし、怖いモノは隠しちゃおう。見ないのが一番」
「え」
戸惑う此方を余所に、童子さんは微かに震える俺の指に、先程取り出した包帯をクルクルと器用に巻きつけていった。
「ほら。こうすれば、もう血も見えない」
「……でも」
「うんうん。大丈夫、大丈夫。こわくない、こわくない。」
真っ赤に染まった絆創膏が、徐々に俺の視界から隠れていく。
「これで、よし。と」
童子さんの子気味良い短い言葉が、俺の耳の奥を優しく撫でた。
見てみれば、そこには大袈裟な程グルグルと包帯を巻き付けられた、俺の左手の人差し指がある。漫画みたい。変なの。
不思議な事に、血が見えなくなった途端、ザワついていた気持ちが、ほんのりと落ち着いていく。
「どう?まだ怖い?」
「……少し、マシ、かも」
「それは良かった」
そう言って、ニコリと形の良い笑みを浮かべてくる童子さんに、俺はそれまで完全に忘れ切っていた羞恥心が、むくむくと湧き上がってくるのを止められなかった。
恥ずかしい。顔が熱い。
どうやら、復活した心の余裕と共に、それまで置き去りにしていた感情が追いついてきたらしい。あまりの出血に動揺してしまい、俺は酷い醜態を晒してしまった。あんなにみっともなく泣き喚いたりなんかして。まるで子供じゃないか。
「童子さん。ご、ごめんなさい。迷惑をかけて。カレーも、作るのが途中だったし。他の皆のお世話もあるのに。本当に、俺、一人に、すみません。あの、もう少し休んだら戻るので、童子さんは先に、みんなの所に戻ってください」
居たたまれず、童子さんから目をそらしつつモゾモゾと喋る。ホッとしたらお腹も空いて来た気もするが、いや、さすがにもう少し目の腫れが引いてから帰りたい。
「……すみませんって。まったく、敬太郎君?」
「は、はい」
不満気な童子さんの声がする。
しかし、その不満気な声とは対照的に、俺の頭は、またしても童子さんの柔らかい手つきで撫でられていた。
「今日ね、君の事をずっと見てたけど、私はちょっと心配になったよ」
「え?」
童子さんの指が、俺の髪の毛をスルスルとすくっては、流れるような手つきで梳いていく。気持ちが良い。もしかして、飼い主に甘える犬とか猫って、こんな気持ちなんだろうか。
「周りの事をずっと気にして、何が必要か、自分が何をすべきか、そんな事ばかりを敬太郎君は考えているでしょう」
「……えっと」
「普通は、子供はそんな事は考えなくていいんです」
あながち間違いではない。別に誰に頼まれてやっている訳でもないのだ。
「……でも、それは、俺が気になって、勝手にやってるだけで」
「そうかな?」
まさかの否定を含む問いかけが、間髪を入れずに飛んできた。俺はハタと目を瞬かせると、俺の髪の毛を梳き続ける童子さんを見上げる。
よく見れば、童子さんのシャツには、ポツポツとした赤いシミが、その白いシャツにハッキリとした足跡を残していた。確実に、俺の血だ。
「敬太郎君。君は、“野田先生”の事を気にして、ずっと“背伸び”してたんじゃない?」
「……っ」
何故か、非常に強いアクセントを付けて放たれる“野田先生”という言葉。
あ、と思う。多分、最初に俺が「一郎」と、呼び捨てにしていたのを聞かれていたのだと、確信した。
「敬太郎君は、野田先生の親戚か何か?」
「い、いえ。ちがいます」
「そっか、それなら……」
童子さんの手が、声が、俺を撫でる。まるで愛玩動物を甘やかすように、ゆっくりと、よしよしと撫でるように、心の奥へと入り込んでくる。
「一郎先生の事が、好き、とか?」
「……ぁ、えっと」
質問の意図が分からず、妙に慌ててしまう。何故か呼び方が「野田先生」から「一郎先生」に変わったのも気になる。童子さんは何で急にそんな事を聞くのだろう。
「言えない?」
「……いえ」
けれど、変な話だ。自分の担任教師について聞かれているだけの質問に、深い思考は必要ないじゃないか。むしろ、返事を躊躇う方がおかしい。
「す、好きです。良い、先生、だし」
しかし、呼吸が上手くできずに、変に声が裏返ってしまう。
「そっか、そっか」
そんな俺に対して、童子さんは、突然前から俺の脇に手を通すと、俺の体を自分の方へと引っ張った。
「あれ?」
「よしよし」
「……ぅあ」
なんという事だろう。今や俺は童子さんの膝の上で、ちょこんと横向きに抱き込まれてしまっているではないか。これでは、本当に俺は童子さんに飼われた犬か猫だ。
「敬太郎君は良い子だよ。先生の手助けになれるように、いつもいつも頑張ってる。でもね、子供はそんな事気にしなくていいんだ。面倒臭い事は、全部大人がやるのが当たり前なんだから」
「……」
いつの間にか俺は、童子さんの首元に顔を埋めて、後頭部を優しく撫でられていた。俺はなすがまま、されるがまま、童子さんの血の付いたシャツを握りしめる手に力を籠めた。
「敬太郎君は気にせず、子供でいて」
不安も恐怖も、そして羞恥心さえも、にこやかな笑みを絶やさずに居てくれた童子さんのお陰で、凪いでいくのが分かる。
子供、子供、子供、こども。
「だって、敬太郎君は、まだまだ子供なんだから」
「……うん」
そっか。俺は、まだまだ子供だった。
だから、別に一郎や皆に“追い越されている”訳じゃない。そうだ、そうだ。そうだった。俺って、子供だったんだ!
「童子さん。俺、カレー、ここで食べたい」
「そうだね。持ってこようか」
「童子さんも、一緒に食べて」
「うんうん、そうしようね」
甘えて良いと言われた。俺は子供だと言われた。だから、そうする事にした。子供を受け入れて、素直に甘えてみたら、なんて事ない。
俺にとってはこれが鼻っから当たり前の事のように思えて、気持ちが良かった。
周りは自分より年下だと思ってたけど、俺だって皆と同い年の子供だったんだ。
俺は子供で、一郎は……野田先生は、“大人”。
「……これが、正解だったんだ」
俺は童子さんに体を預けながら、目を閉じると、耳元で聞こえてくる「かわい」という言葉を全身で受け止めた。
可愛いと言われる事が、なんとなく当たり前のように感じられて嬉しかった。