もう我慢しなくていいって言われて嬉しかった
甘えていいと頭を撫でられて気持ちが良かった
可愛いと言われて、胸がいっぱいになった
子供なんだからと言われて、酷く安心した
筈だったのに。
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我儘を言ってみたものの
(むしろ苦しくなった)
———–
「いやだ」
「肝試しに行くだろ?」と一郎がいつもの調子で俺に手を伸ばしてきた。
あぁ、だからそういう所が嫌なんだ。俺を子供扱いせずに、昔みたいに扱ってきて。
俺は十二歳で、子供で、生徒なのに。
なにが、「敬太郎」だよ。昔みたいに呼びやがって。そんなんだから、俺ばっかりお前の心配をしなきゃいけなくなるんだ。
「いやだ、肝試しなんかしない。童子さんと、此処で休んでる」
「はぁっ!?何でだよ!?」
「どーして!けーたろ!」
あぁ、ウルサイ。ウルサイ。
俺は童子さんの体によりピタリとくっつくと、チラと童子さんの顔を見上げた。そこには驚くほど甘い顔で「わかってるよ」と、目だけで示してくれる童子さんの姿。
ほら、童子さんは何も言わなくても分かってくれる。もう俺は疲れたんだ。別にキャンプなんて、そこまで楽しみにしてた訳じゃない。
「敬太郎君は指が痛いんですよ。ほら」
そう言って、童子さんは俺の大袈裟な程に包帯のグルグルに巻かれた手を取ると、二人に見せた。
「ね?」
「うん」
俺は二人の方なんて見ずに頷く。
だからもう俺のキャンプは終わりなんだ。なんだかもう、色々な事が面倒くさい。俺は子供なんだから、やりたくない事はやらなくていい筈だ。
「いや、指だろ。肝試しに関係ねぇし。なぁ、敬太郎?」
それなのに、一郎は童子さんの体に顔を預ける俺の方へ回り込んで来てまで、此方を覗き込んでくる。後ろからはイチローも一緒に。
あぁ、もう一体何なんだ。
俺の事なんかほっといてくれよ、もう。
童子さんと一緒に居る方が、楽なんだ。
お前と居ると、色々と考えなきゃならない事が多くて……疲れるんだよ。
「ほら、行こうぜ。敬太郎」
「……野田先生、早く皆の所に戻った方がいいんじゃない」
「は?」
「肝試しの準備とか、しなきゃいけないんでしょ。野田先生」
俺は敢えて突き放すように普段は“先生”と呼ぶ一郎の事を、“野田先生”と呼んだ。そうだ。最初からそうすれば良かったんだ。
普段からちゃんとそうやって距離を取っていれば、お互い距離感を間違えて周囲の目を気にする事なんかなかったんだ。
上木さんや童子さんにアッサリバレて関係性を訝しがられる事もなかった。このまま、まぁ大丈夫だろって前みたいにしてたら……。
いつか、もっと大変な事になって、一郎にとって悪い事になってしまうかも。
「ほら、早く。行った方が良いよ……野田先生」
もう、これからは、俺もちゃんと“子供”になるんだ。
そう、思ったのに。
「な、んだよ……ソレ」
それまで、いくら慣れ慣れしくとも、きちんと一郎の顔に被せられていた「教師」の仮面が、一気に消え失せた。その、急に頼りなくなってしまった声に、俺は思わず童子さんの体に押し付けていた自身の顔を、思い切り上げた。
「あ」
すると、そこには“あの時”の一郎が、まさに、そこに居た。
「……そんな事ばっか、言いやがって。なんなんだ、お前」
「あ、えっと……いち、野田せんせい」
俺が、これもまさにあの時のように「一郎」と言いかけては、惑いつつ「野田先生」と呼び直す。すると、一郎は「っち」と教師あるまじき舌打ちをやってみせると、童子さんの腕の中に納まる俺を、酷く不愉快そうな顔で見下ろしてきた。
なんだよ、一郎。一体、何をそんなに怒ってるんだ。
それに、なんで……そんな。
「……一郎って呼べ」
泣きそうな顔を、してるんだよ。
「一郎って呼べよ!」
幼馴染だった。
一番仲が良かった。
ずっと一緒だった。
でも、今はそうじゃなくなった。
「……ぁ」
呼べる訳ない。
だって、一郎は先生で、俺はただの十二歳の、小学六年生。
先生の事を、慣れ慣れしく名前で呼んだりしてたら変だ。ここには童子さんも、イチローだって居る。
呼べるわけ、
「……まったく。なんて顔してんだよ、一郎」
俺はもう考えるのを止めた。
「けい、たろう」
俺が“一郎”の名前を呼んだ瞬間。今まで眉間に皺を寄せていた一郎の表情が一気に泣きそうに歪められた。
髪型も外見も、そして声も、小学生だったあの頃とも、中学生の頃とも、全く違っていたが、やっぱりその表情だけは昔となんら変わらなかった。
そこに居たのは、結局変わらない、俺の幼馴染の姿だ。
もう、それでいい。
「ダサ。なに泣きそうにな顔してんだよ。一郎」
「……お前だって、泣いてたじゃねぇか。敬太郎」
「俺は凄く血が出たんだ。仕方ないだろ」
「昔から不器用過ぎんだよ、お前は」
「まぁね。料理は袋ラーメンで精いっぱいだよ」
「ったく、危なっかしくて一人暮らしなんかさせらんねぇな」
俺は、もう気にするのをやめた。
二人で、ボールを軽くキャッチボールをし合うように、ポンポンと言葉を交わす。それが、俺には異様に楽しく感じられた。
あぁ、俺の“我儘”はここにあったのか、と。
そう、思った。
「ねぇ、童子さん」
「何かな?」
だって、童子さんだって言ってたじゃないか。
俺はチラと俺を抱える童子さんの方を見上げると、先程、彼から言われた言葉を口にした。
「さっき言いましたよね。面倒臭い事は、全部大人がやってくれるって」
「……そうですね」
「俺は気にせず、子供でいていいって」
「ええ」
「だったら、」
俺は、童子さんの胸に掌を当てると、そっと力を込めた。子供のように、自分の我儘を通そうと思うならば、俺の居場所は“此処”ではない。
「面倒臭いこと、言わないでね?」
「っ」
うっとりと砂糖菓子のように甘かった童子さんの瞳が、全ての感情を弾けさせたように、驚きとともに見開かれた。
どうやら、童子さんは、イチローの事だけでなく、“俺”の事も気に入ってくれているようだ。だったら、言う事を聞いて欲しい。
「童子さんが面倒臭い事を言ったらさ。俺、子供じゃいられなくなるから」
その言葉に、全てを込めた。
——さっきの俺と一郎の事、誰にも言うなよ。
察しの良い童子さんなら、分かってくれていると思う。
分かってくれてなきゃ困る。
俺は最後に、童子さんの耳元に自らの口を寄せると、童子さんにだけ聞こえるように囁いた。
「このショタコン」
「……」
俺はそれだけ言うと、童子さんの膝の上から飛び降りた。一郎の元へと向かう際、チラと横目に見えた。童子さんの立派な喉仏が、ゴクリと揺れる。
あぁ、この人、本当にもったいない。こんなに格好良いのに、興味があるのが“子供”だけなんて。
惜しい事してるよ、本当に。
そう、俺が完全に童子さんに背を向けた時だ。
「けーたろ」
「あ」
俺と一郎の間に、先程まで大人しくなりすぎて、すっかり存在を忘れていたイチローが、ジッと俺の方を、その真っ黒で大きな目で見ていた。
「い、イチロー」
「ねぇ、けーたろ」
ヤバイ。
そう言えば、ここにはずっとイチローも居たんだった。一郎と俺のやり取りも、全部全部ぜーんぶ、大人しく見ていたのだ。
「あ、えっと、イチロー」
童子さんと違って、イチローは絶対に制御できない。制御不能の鉄砲玉だ。子供の権化。コントロール不可。
俺の前に立ちはだかるイチローは、もうハッキリと俺よりも身長が高くなっていた。そう。だから、俺が自然な形でイチローの目を見上げた時だった。
「オレも、イチローって呼んで!」
「……え?」
「オレも、先生みたいに、イチローって呼んで!」
イチローは、パッとその表情を花が咲いたみたいな笑顔で彩ると、なんとも言えぬ程の可愛らしいお願いをしてきた。
「イチロー」
「けーたろ!」
「イチロー」
「けーたろ!」
俺が名前を呼ぶと、イチローも俺の名前を呼ぶ。そりゃあもう、嬉しそうに。
——–けーたろは、疲れてない。無理してない。オレと一緒だと楽しいって思ってる!
先程の、童子さんに放たれていたイチローの言葉が、耳の奥に蘇ってくる。
ここまで、俺に対して、全幅の信頼を寄せてくれる存在が……他に居るか?
「イチロー!可愛いなっ!?お前っ!本当に可愛いっ!」
「あははっ!でしょう?オレ、かわいいでしょー?」
俺は自分よりも少しばかり大きく成長した、可愛すぎる幼馴染を腕の中におさめると、もうこれでもかという程、イチローに頬ずりをしてやった。
なんて、可愛いんだ!イチロー!
俺は視界の端で、また、なんとも言えない表情で此方を見てくる一郎を余所に、しばらく可愛い可愛い幼馴染を思い切りかわいがってやったのだった。