童子さんは言った。
——-敬太郎君は気にせず、子供でいて、と。
自分の望みの癖に、まるで俺を包み込む柔らかい真綿のように言ってのける童子さんは、ズルい大人だ。
気を抜けば、どっぷりハマってしまいそうなその甘くて柔らかい言葉と腕の中で、目を閉じた俺を、引っ張り上げた腕があった。
——-一郎って呼べ!
そう言って、必死に俺へと手を伸ばした一郎は、童子さんとは全く逆の事を俺に言った。
「 」
その余りにも身勝手な言葉に、俺は笑って頷いた。
———–
肝試しをしてみたものの
(俺にとっては、本当に肝が試された)
———–
あの後は、そりゃあもう酷いモンだった。
俺達の帰りが遅いとブチ切れた杉さんの来襲によって、俺のイチローとの抱擁は無理やり引き剥され、一郎とイチローは杉さんから烈火の如しお説教を受け、童子さんはといえば、いつの間にか居なくなっていた。
どうやら、片付けを全部杉さんと上木さんがしてくれたらしい。
それに関しては俺も含め、そりゃあもう、グチグチと言われ続けた。延々と、絶え間なく。
この事は、俺達が小学校を卒業して、大人になって、再び再会を果たした同窓会の席でも、きっと言われ続けるのだろう。
そんな勢いだった。
そして、現在――。
「えーーーー!オレ、けーたろと一緒がいい!なんで瞳なんかと一緒に肝試ししなきゃなんねーの!?マジでサイアク!ウゼーー!」
「はぁっ!?私だって嫌よ!仕方ないでしょ!?男女で組まなきゃならないんだから!」
目の前でギャンギャンとけたたましい言い合いをするイチローと杉さんに、俺は、なんだか「戻ってきてしまった」という、謎の安心感に襲われていた。
そして、いくらマセた事を言っても、杉さんはイチローの事が好きな事には変わりない。そして、イチローもいくら身長が伸びつつあったとしても、杉さんの気持ちには欠片も気付かない。
いつもと変わらない風景が、そこにはあった。
「さて、そろそろ敬太郎君たちの番だよ。気を付けて行ってきてね」
「あ、はい」
わざわざ俺の背後から、肩にポンと手を置きながら声をかけてくる童子さん。
そう。あの後、いつの間にか、事務室からいなくなっていた彼だったが、どうやらそれは、俺の血の付いたシャツを着替えていたらしかった。
今は、別の血のついていない紺色のシャツを着ている。
「じゃ、上木さん。行こうか」
「うん。暗いし……怖いね」
「……そだね」
正直言って、俺は暗い森の中よりも上木さんの方が怖いよ。
なんて言える訳もなく……。
俺は上木さんと並んで森に入ろうと一歩踏み出した。
すると、
「敬太郎君」
「はい?」
俺はまた、童子さんに呼び止められていた。
振り返ると、既にすぐ目の前には童子さんの整った顔がある。すぐ隣には、ジッと此方を凝視してくる上木さん。
怖い。怖すぎる。
「な、なんですか」
「肝試し、このAルートのトップバッターである敬太郎君に、私との約束」
「は、はい」
「番号札は、必ず男の子である敬太郎君が取ること」
「……え」
「女の子に押し付けたらダメだからね」
なんでだ。
頭の中に浮かぶ疑問。けれど、その問いが俺の口を吐いて出る事はなかった。
俺は、目の前であの甘ったるい笑みを顔全体に浮かべ、そりゃあもう「かわい」と、目で何度も訴えかけてくる童子さんに、頭がクラクラした。
あぁ、童子さんて、ずっと見てると……酔う。
「はいはいはいはーーーーい!!そこーーー!」
俺が童子さんの濃い過ぎる色香に酔いを覚えていると、後ろから聞き慣れた、まるで酔い止めのような声が響き渡った。
「一郎……」
「ん?」
「先生」
思わず「一郎」と呟いた俺に、隣に立っていた上木さんが、すかさず首を傾げてくる。あぁ、もう。やっぱり油断も隙もあったもんじゃない。
「童子さーん。明日までアンタには大人しくしてもらいますよー!つーか、金輪際!敬太郎には関わるな!?」
「嫌だなぁ、野田先生。私を一体何だと思ってるんですか?」
「ド変態だよ!?」
「えー。貴方に言われたくないですよ。だって貴方の方がー」
「童子さん。俺、面倒くさい大人は嫌いです」
「……さて、そろそろ敬太郎君たち、出発しなきゃね。後ろもつかえてる事だし」
俺は、出来るだけ童子さんにだけ聞こえるようにボソリと呟いた。
まぁ、きっと隣に居た上木さんには全部聞こえているのだろうが、最早それは仕方のない事だと諦めた。むしろ囁き声だとしても、この上木さんの悪魔のような聴力からは逃れる事などできっこないのだから。
「敬太郎くーん、さっきの約束。忘れないでくださいねー」
「あ゛?お前、敬太郎に何言った!?」
「野田先生には秘密です。さて、二人共。いってらっしゃーい」
「おいっ!テメェ!マジでいい加減にしろよ!?」
騒ぎ散らす一郎と、それを意に介さない童子さん。
そして、それよりもっと後ろでは、延々と杉さんとイチローの喧嘩の声が響き渡っている。それを見て、男女が二分する程の大合戦が、二組の列では勃発しかけているではないか。あぁ、もう。こんな所で、天下分け目の合戦とは。
騒がしいったらない。
「行こうか」
「うん」
なんだかもう、色々気にしても、気にしなくても。何も変わらない気がして来た。俺が気にする程、周囲の人々は俺の事なんか……いや、俺達の事なんか、気にしちゃいない。
それに、もし本気で誰かに気にされてしまったら、どんなに隠そうとしても、人の目を完全に欺く事も出来ないのだ。
「なに?敬太郎君」
「ううん。なんでも」
俺は上木さんと、薄暗い森の中を歩いた。
木の幹に、矢印の紙が貼ってある。この大自然の肝試しは、誰か脅かす役がいるようなモノではない。ただ、夜の森という、自然の恐怖を体験させるための……ただ、それだけのモノだ。
躊躇いなく歩けば、きっと往復五分もかからない。
「ねぇ、敬太郎君」
「なに」
暗くて怖いなんて、きっと微塵も感じていない上木さんが、そっと俺の耳に口を寄せて来た。誰も居ないのに、声を潜めてくる意味が分からない。
分からないが、俺は上木さんには本能的に逆らえないのでツッコまない。ある意味、俺にとっては最高の肝試しだ。
「どっちが格好良いか、決めた?」
「……何が」
「一郎先生と童子さんだよ」
やっぱりソレか。
上木さんの口元に浮かぶ、薄い笑みに、俺は上木さんのこの問いからは逃れられない事を、改めて悟った。悟ったので、もう潔く答える事にする。
「どっちも格好良くないよ」
「……へぇ。どうして?」
「だって、童子さんは変な人だし。一郎先生は……なんか、こう……なんていうか」
「うん?」
「……情けないし」
俺は、ここぞという時にはいつも泣きそうになりながら俺の方を見てくる一郎の姿を思い出し、苦笑するしかなかった。
——–一郎って呼べ!
でも、俺はそれが嬉しい。
一郎が変わらず、俺に対して情けなく居てくれるのが……嬉しくて堪らないのだ。
——-一郎って呼べよぉっ!
体が大きくなっても、大人になっても、どんなに立派になっても、一郎は何も変わっていない。そう、思える。
一郎の情けなさを知っているのは、俺だけの特別だ。
「……じゃあ、そんな敬太郎君に」
「ん?」
いつの間にか、もうチェックポイントまで来ていた。予想通り、すぐ着いた。
周囲の暗さに恐れ慄いている暇は、俺には欠片もなかった。
「もう一つ質問」
俺達の目の前には、何かの石碑だろうか。その前に、割りばしの沢山はいった瓶が置かれている。どうやら、あの割り箸を一本取ってくればいいらしい。
「ん?なに?」
「変なのと、情けないの。敬太郎君は、どっちが好き?」
手を変え品を変え、よくもまぁ同じ事を何度も聞いてくるものだ。
それってつまり、童子さんと一郎のどちらが好きかと聞いているのと同じじゃないか。
「……そんなの、」
「あ。先に取って来ていいよ、敬太郎君」
「あ、そう」
自分で聞いてきておきながら、上木さんは軽く微笑むと、石碑の方を指さした。まったく、何が「暗くて怖いね」だろう。本当に、俺の方が怖いよ。
変なのと、情けないの。
酔いと、酔い止め。
俺がまともに“俺”で居られる相手は、もちろん――。
「あれ?」
俺は瓶から一本の割りばしを取り出した時、瓶の下から一枚の不自然な折りたたまれた紙が見えた。
「なんだ?これ」
俺は当たり前のようにその紙を瓶の下から引き抜くと、石碑に手をかけ屈んだ体勢のまま、その紙に釘付けになった。
「敬太郎君、どうしたの?」
「っ!いや、なにも……ない」
俺はとっさにその紙を背中に隠すと、それすらも何でもお見通しだといわんばかりの上木さんから、別の質問が投げかけられた
「敬太郎君。変なのにも勝ち目、ありそう?」
その問いに、俺は黙って勢いよく首を横に振る事しか出来なかった。