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 その日の忠孝の仕事は、そうそう現実では上手くいかない事が奇跡的に起こった。定時で上がれたのだ。いつもなら呪われているかの如く、上がるギリギリで急患が運ばれてきたりするのだが、今日と言う日に限っては例外だったらしい。

 

 それは救命救急部の宮和歌の方も同じだったようで、忠孝と宮和歌は二人揃って勤め先の大学病院から二駅程離れた居酒屋で向かい合っていた。互いのテーブルの上には、生ビールがジョッキで堂々と置かれている。

 

「あー、えっと」

 

 自分で招いた状況である筈のこの違和感だらけの事態に、忠孝は早くも後悔していた。自分はどうしてあの時この“苦手”意識を持つ筈の同僚を呑みになど誘ってしまったのだろうか。忠孝は元々約束していた女からの「あなたっていつもそう」という溜息混じりの言葉を脳内反芻して、思わず溜息をもらしそうになった。

 

 今まで何度も約束を反故にしてきた相手で、いつもは軽く「わかったわ」と返事をくれていた相手。自分の事を“わかって”くれている。そう、忠孝が都合よく勘違いしてしまっていた女。

 

 しかし、静かに、そして突然。その堪忍袋の緒は切れてしまった。結果、もう連絡してくれそうもないし、こちらからする訳にもいかない関係になってしまったのだ。たまたま定時で上がれ、約束通りの情事を過ごせたなら、きっと消えなかった関係。

 

「(良い女だったのになぁ……)」

 

 忠孝はこの時己の中にハッキリと浮かび上がってきた感情に、やはり自分はゲスいなぁと再確認せずにはおれなかった。忠孝の心には女を失った“悲しみ”や“後悔”の類は一切なく、そこにあるのは“惜しい事したなぁ”という軽い感情しか残っていなかった。

 

 その軽い感情を充満させながら、忠孝は別の女の前に居る。約束を果たせていれば消えなかった関係だったが、どうせいつかは消えていた関係でもあった。

 あぁ、なんてゲスの極み。一途な恋を貫き、障害の多い恋を成就させた親友とは大違いだ。そう、忠孝は心の中で静かに自虐した。

 

「(俺はぜってー幸せにはなれんな)」

 

 忠孝は、気まずさの余り少しばかり意識を遠くに飛ばしていると、静かに目の前の女、和歌宮は手元のビールジョッキに手をかけた。

 

「伊藤先生、とりあえず乾杯しましょう」

 

 ベイリショートで服はTシャツジーンズという単純明快な私服を披露する宮和歌に対し、忠孝は全身をブランド品で固めたオシャレ極まる格好。二人は傍から見ればどちらも医者には見えない。そして、二人は何の関係がある二人なのかも傍からは掴めない。忠孝自身にも掴めない。

 

「そうですね、乾杯しましょうか」

 

 忠孝は別れを惜しんだ女の記憶を遠くに放り投げ、宮和歌のジョッキに己のジョッキを軽くぶつけた。「お疲れ様です」という当たり障りのない乾杯の音頭の後、グラスをぶつけ合う軽い音が二人の耳に響く。

 

「定時で上がれたのなんて久しぶりで、なんか変な気分です」

「俺もですよ」

「そういえば、伊藤先生の出身って九州ですよね」

「ええ、福岡ですよ」

「やっぱり。私の事もわかっていらっしゃると思いますが、私も福岡なんですよ」

 

 意外には宮和歌は当たり障りのない話を自身から振ってくる。忠孝は自分が誘った事もあり、会話は全て自分がリードしていくものだと思っていた為、少しばかり意表を突かれていた。

 

「この病院、なかなか地方出身者が居ないので、今日方言で誘って貰った時はなんか嬉しかったです。ありがとうございます」

「俺も、病院でこっちの言葉が聞けるとは思ってなかったんで。新鮮でしたよ」

「“せからしか”とか、“げな”とか、“ばい”とか、濁音混じりで汚い言葉が多いんですけど、やっぱり他人から聞くとホッとするんですよね」

「わかる、それはわかる。職場じゃもう綺麗に標準語で行けるようになりましたけど、未だに地元の友達と喋るとド訛りで話しますからね、俺も」

「私もそう。地元の友達とか兄弟とか相手にすると、もうダメ。友達相手には平気で“お前”とか言っちゃいますよ」

「“お前マジせからしかやん”とかね」

「それ、一番使うやつね」

「そう言えば、野澤先生は福岡のどの辺?」

「私はもう半分熊本寄り。野澤先生は?」

「俺はどっちかっつーと佐賀寄り」

 

 地元が同じ。

 そう言うスタンスで話を始めたせいか、忠孝はビールを呑みながら少しずつ気が緩んでいくのをハッキリと自覚した。苦手だと思っていた宮和歌との、徐々に気さくさを増していく会話に忠孝は奇妙な楽しさを覚えていた。

 

 それはまるで、親友である拓道と話しているような気楽さ。失礼を承知で忠孝は思ったが、目の前の整った顔をしている筈の宮和歌からは一切“女”を感じなかった。この考えは、聞きようによっては非常に傲慢で自意識過剰な考え方かもしれないが、忠孝の前では女は総じて“女”を出してくるものだと思っていたのだ。

 

 けれど、宮和歌に関してはソレが一切なかった。だから気楽だった。気楽になれた。楽しかった。

 

「もともと私の親はこっちが地元みたいなんやけどね、私が生まれてすぐに福岡に引っ越したとよ」

「なんかやん。それやったら純潔の福岡人じゃなかやん」

「いやいや、私だけは純潔の福岡人よ。0歳から福岡なんやけん。けど、他の兄弟はちょっとはこっちの記憶があるみたいやんね。まぁ、上3人以外はほぼバリバリの福岡っ子やけど」

「はぁ?上3人ち。野澤先生何人兄弟なん?」

「8人」

「やば」

「私は一番末っ子。一番上の兄とは12歳離れとるよ」

「見えんっちゃけど」

「そうね?おかげでとんだパシられ人生やけん。子供ん頃とかパシられた記憶しかなかもん」

「見えんっちゃけど」

「私、地元じゃ末っ子の権化とか言われよったとけどね。伊藤先生には私がどげん見えよると」

「ポーカーフェイスなクールビューティー」

「やば!何の煽り文句よ」

「いや、俺だけじゃなくて職場の皆そげん言いよる」

「職場ねぇ。私あんま職場の人とは喋らんけんやろうね」

「なんで?」

「仕事の話ばしよったら時間すぐ終わるやん。忙しかしね。友達と違って何ば話してよかとかわからん」

「はぁ?俺とこげん話しよるやん」

「職場の人と飲みとか初めてやし、伊藤先生が話の上手かけんよ。距離詰めるとが上手か」

「野澤先生は自分のコミュ力わかっとらんね」

「……私はそうは全然思えんけどねぇ」

 

 二人の目の前には様々なアルコールが現れては消え、現れては消えていく。素面のようだが、互いに少しだけほろ酔いではあった。互いに、職場の人間とこのように楽しく飲めたのは初めての経験だった。忠孝はジョッキ片手にアルコールを呑み干す宮和歌を見て、自分でも驚く程唐突に尋ねていた。

 

「今日の電話、あれ何やったん?」

「……やっぱねぇ。聞かれるち思ったー」

 

 そう、今日忠孝が宮和歌を呑みに誘った理由。それはあの宮和歌が昼間、倉庫で行っていた“電話”に他ならなかった。

 あの電話をしていた時の宮和歌の姿は、やはりどうにも見過ごせないものがあったのだ。忠孝には、宮和歌が己の親友と被って仕方がなかった。そんな忠孝に対し、宮和歌は店員を呼びとめ空いたグラスを手渡す。そして、すぐさま次の注文を伝えると、途端手持無沙汰になった手で己の頭を押さえた。

 

「伊藤先生ち、モテるやろ」

「なん、いきなり」

 

 眉を潜める忠孝に、宮和歌は同じ問いを繰り返す。

 

「モテるやろ」

「いや、モテるけど」

「あはっ、普通に言うけんね。面白か人やなぁ」

 

 忠孝が問われた問いに、まっすぐ誠実にあるがままを答えたところ、宮和歌は大いに笑った。忠孝はその大いに笑い散らかす宮和歌に、思わずいつも拓道にするように言い返していた。

 

「なんやん!お前いきなり、なんかっち」

 

 思わず忠孝の口から飛び出した“お前”。拓道と築き上げてきた20年以上の年月を、宮和歌とは酒の力を借り、たかだか数十分で積み上げてしまった瞬間。それは、フワフワとした不思議な感覚だった。

 

「ごめんやん。いや、伊藤先生、顔のかっこよかっち看護師も言いよったけんさ。モテるんやったら、ちょうどよかけん話ば聞いてもらおうかなち思ったとよ」

「なん?」

 

 忠孝の短い返事と共に、宮和歌の元へ次のアルコールが届く。宮和歌は静かにそのジョッキに手をかけると、まだそれが1杯目かのような勢いで一気に喉を鳴らした。半分ほど飲み干し宮和歌がジョッキを机上に置いた時、その目は先程までとはうって変わって静かだった。

 

「私のずっと好きだった人が、もうすぐ結婚します」

 

 宮和歌の口から語られた言葉は清々しい程、訛りのない標準語だった。宮和歌の目はまっすぐと忠孝を見据える。そのせいか、先程まで机に肘をつき背筋の曲がっていた忠孝の背筋も知らず知らずに伸びた。

そのまっすぐな目を見て忠孝は、どうしても宮和歌の背後に親友の姿がチラつくのを止められなかった。

 

(ヤスキ先生に、会いたかねぇ)

 

 長い、長い片想いを患い、拗らせ、がんじがらめになっていた。あの、平川 拓道の姿が。だから、忠孝は今こうして宮和歌の前に居る。

 

「あの電話は、私の好きな人の結婚式に出たくないと……私が駄々をこねている電話です。好きな人が他の人の者になるところなんて、誰が好き好んで見たいでしょうか。だから結婚式に行きたくない、出たくない。私は」

「…………」

 

 宮和歌が忠孝の前で“女”など出す筈がない。宮和歌にとって、忠孝は“男”ではなかった。

 

 

「私は実の兄が、好きなんです」

 

 

 

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