3

 

 

      ◇

 

 

「伊藤先生」

「…………」

「伊藤先生!」

「っはい」

 

 忠孝は、突然耳元で聞こえてきた自分の名前にビクンと体を揺らした。一気に覚醒する意識。目の前には年配の看護師がおり、眉間には老化によるものではない皺がハッキリと寄せられている。

 

「この患者さんの件なんですけど、さっきの話聞いてました?」

「すみません、もう一度いいですか?」

「……まったく。今日、先生どこかおかしいですよ。大丈夫ですか」

「あ、いや。少し寝不足で」

「遊びも程々にして。医者の不養生なんてやめてくださいね」

 

 ピシャリと言ってのけるその年配看護師は、ベテラン中のベテラン。忠孝が研修医時代からお世話になっていた看護師で、何度も不甲斐ない所を見られてきた。担当していた患者の容体が急変して亡くなった時なんかは、大泣きしたところも漏れなく見られている。所以、未だに頭が上がらない。

 

 忠孝は目の前の仕事に集中しようと必死に頭を回転させた。回転させながら、昨日のあの宮和歌の表情や言葉が引っかかってはなれない。

 

『行かないとお兄ちゃんは悲しむのは分かっているんです。けれど、私は結婚式でお兄ちゃんを笑って見送る自信がない。幸せを祝えないどころか、めちゃくちゃにしてしまいそう』

 

 宮和歌の話を聞いた後。宮和歌は特に忠孝の言葉を待つ事なく「この辺でお開きにしましょうか」とのたまい、あまつさえ会計まで風のように行い去って行った。それはもう忠孝の言葉など、最初から当てになどしていなかったかのような勢いで。しかも、女に奢らせてしまった。

 

『ちょうどよかけん、話ば聞いてもらおうかなち思ったとよ』

 

 そう言われた時、忠孝は酒の力など関係なく嬉しかった。しかし、その言葉通り宮和歌は言うだけ言って忠孝の前から消えた。

 

「(ムカツク)」

 

 拓道と、本当に良く似ている。突然、初対面にも等しい程の関係性しかなかった己に明け透けに重大な告白をしてきたり。肝心なところは、他人の意見など聞かず妙に頑固で。驚くほどに一途。

 そういう相手を、忠孝は絶対に放ってはおけない。そう、放ってはおけないのだ。

 

「伊藤先生!いい加減にしなさい!」

「すみません!」

 

 早いところ、宮和歌を捕まえて話さなければ、おちおち仕事も出来やしない。忠孝はベテラン看護師に怒鳴られながら気合いを入れた。

 一途で難儀な恋を患っている者は皆、ある程度幸せになってもらいたい。親友を見ていて、忠孝はいつだってそう思っていたのだから。

 

 

     ◇

 

 

「野澤先生はいらっしゃいますか」

 

 そう、忠孝が普段は訪れない救命救急部のスタッフルームを尋ねた時、妙にリアルな歓声が起こった。

それは、高校、いや、中学で普段は関わり合う事のない他クラスの女子の元へ、学年1のイケメンが突然訪ねてきた時のような、そんな少女漫画めいたざわつきだった。しかし、訪ねられた当の宮和歌はというと、リクライニング式の椅子の上で自分用のブランケットをまとい、目にはアイマスクという完全防備で熟睡している最中であった。

 

 返事は無い、まるで屍のようだ。

 

「……起こしていいですか」

 

 忠孝はゆるいキャラクターの描かれたブランケットを恥ずかしげもなく纏って眠る宮和歌に、少しばかりイラっとした。

 自分だけ普段通りの生活を苦も無く営みやがって。と、訳もなく腹が立ってしまったのである。自分はベテラン看護師に久々に真面目に説教を食らうくらい、宮和歌の事ばかり考えていたというのに。

「今日は朝から緊急オペが続いてて」という他のスタッフの言葉を小耳にはさみつつ、忠孝は宮和歌のアイマスクを勢いよく引っ張った。

 

「っは!」

「野澤先生」

「あ、は。えっと」

 

 アイマスクを剥ぎ取られ視界の開けた宮和歌は、突然の声と光に眉をしかめながら己の目を擦った。その間も、宮和歌は「急患ですか」「急変ですか」と、夢の中でもオペをしていたのかと思われるような言葉を次々こぼす。

 そんな宮和歌がやっとの事で視界を確保し、擦っていた目を上げた時。そこに立っていたのは笑顔で怒りを露わにする忠孝の姿だった。

 

「……あぁ。伊藤先生、急患が来たとね」

 

 そして、忠孝を見て出た第一声がソレだった。それは未だに宮和歌が寝ぼけ、仕事と昨日の飲み会を混同しているに他ならない返答であった。忠孝はその返答に、先程まで無駄に沸き上がっていた腹立ちが、一気に萎むのを感じると、未だに寝ぼけている宮和歌の腕を引っ張った。

 

「仕事の件でお話がありますので、少しお時間よろしいでしょうか。野澤先生」

「……わかりました」

 

 宮和歌は完ぺきな標準語で話す忠孝に、一瞬にして此処がどこで、今がいつなのかを思い出すと、きまりの悪そうな顔で頷いた。しかし、その決まりの悪そうな時でさえ宮和歌は話しかける忠孝から目を離す事はなかった。

 

「野澤先生、お昼は食べましたか」

「……いいえ」

「じゃあ少し込み入った話になりますので、外に食べに行きましょう」

「あぁ、はい」

「ちゃんとピッチを持ってくださいね」

「あぁ、はい。わかりました」

「何かあったらすぐに呼び出して頂いてかまいませんので。では、失礼します」

 

 それはまるで風のような速さだった。意識は覚醒したが未だに動きのおぼつかない宮和歌の腕を引きつつ、忠孝は宮和歌に呼び出し用のピッチを持たせ他のスタッフへと会釈し、その場を後にした。誰の口出しも許さない、颯爽とした速さ。

 

「はぁっ」

 

 忠孝は自分達の去ったスタッフルームが中学生のようなざわめきで色めき立っているのを想像しウンザリした。そして、そこから一気に広まるであろう尾ひれのつきまくった噂にも頭を抱えたくなるような思いを募らせる。

 職場の女には手を出さないという自戒を破っているわけではないが、これでは周りが変な誤解をするのは火を見るより明らかだ。

 

「(バカは俺たい)」

 

 普段なら、もっと上手くやれた筈の状況。しかし、忠孝には最早状況や状態を鑑みている気持ちの余裕は一切なかった。

 

 忠孝は早く宮和歌と話がしたかった。

 

 

タイトルとURLをコピーしました