6

 

 

 宮和歌は走った。

 

懐かしい曲を響かせ続ける携帯を握りしめ、必死に走り続けた。宮和歌自身、自分がどこへ向かって走っているのか理解できていない。

 ただ、逃げるように、宮和歌は走り続ける。

 

 最早、自分が一体何から逃げているのかも、やはり宮和歌には分からなかった。

 

「っあ」

 

 しかし、余りにも必死に走っていたせいだろう。

次の瞬間、宮和歌の視界は固いコンクリートの地面でいっぱいになっていた。次いで、膝と掌に走る、ジクジクとした痛み。その、学生の頃以来の懐かしい痛みに、宮和歌は、自分が盛大に転んでしまっている事に一拍遅れて気付いた。

 

「いたい……」

 

 ワザと口に出してみる。なんて頼りない声なのだろう。

 いつの間にか、握りしめていた筈の携帯もなくなっている。

 

「携帯……」

 

自身の倒れ込んだ少し先を見てみれば、宮和歌の携帯が落ちていた。どうやら、転んだ拍子に飛んで行ってしまったらしい。

 

既に、音を鳴らすのも止めてしまっている。静かだ。

 

「いたいよ……」

いたいよ、おにいちゃん。

 

 そんな頼りない自分の声が、自身の耳の奥をつく。そう。呼べば、いつもどこからか『大丈夫?みやちゃん!』と兄が駆け寄って来てくれていた筈なのに。どうして、大人になったら来てくれないのだろう。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 そうやって、宮和歌が転んだ状態の体勢のまま、膝の痛みに耐えていると、突然、頭の上から声がかけられた。日の光も遮られ、宮和歌の体に影かかかる。そして、その声は宮和歌もよく知る声でもあった。

 

「大丈夫ですか?」

「あ」

「もしかして、怪我してます?誰か呼びましょうか?」

「……平川、拓道」

 

 宮和歌は目の前に現れた相手に、スッと腹の底を冷やすと、思わず相手の名前を口にした。口にした瞬間、相手、拓道は、どこか気まずそうな表情を浮かべ口元に人差し指を立てる。

 

「すみません。今はプライベートなので、ナイショでお願いします」

「……」

 

 なんだ、コイツ。

宮和歌は完全に、お忍びの芸能人感を出してくる拓道に対し、ヒクと眉を顰めた。宮和歌にとって、拓道は幸運にも巡り合えた芸能人ではない。ずっとずっと一番だった大切な人を、突然現れてかっさらっていった、ただの泥棒だ。

 

「立てますか?」

「……立てない」

「え?あ、えっと」

「立てない、立ち直れない。全部、アンタのせい」

 

 宮和歌は、未だにジクジクと痛み続ける掌で、必死に地面を押した。膝も同じ。けれど、宮和歌は一人で立ち上がった。拓道の手など、借りたくない。

 

「全部、全部、全部、アンタのせい!」

「え?」

 

対して拓道は、膝から血を流しながら、あまつさえ目の前で悪びれる事なく自身に向かって指をさしてくる宮和歌に、ただただポカンとする事しか出来なかった。

 一体、これはどういう状況だろうか。

 

「このドロボーメガネ!」

「はぁ!?な、なになに?え?」

「何で、アンタがここに居ると!?好かん!サイテー!失せろ!」

 

 言いたい放題の宮和歌に対し、拓道が目を瞬かせていると、突然、足元から懐かしいメロディが鳴り響いた。

 

「あ、これ」

 

 思わず、拓道の口から声が漏れる。

これは、拓道が小学校の音楽の時間に聞いた曲だ。怪獣が愛を求めて砂漠を飛び出す曲。確か合唱曲だった筈だ。

拓道は懐かしさに誘われるように、足元に落ちていた携帯を拾い上げた。そして、その画面に映し出された名前に、瞬かせていた目を大きく見開いた。

 

≪ヤスキお兄ちゃん≫

 

「……もしかして、アンタが宮和歌?」

 

 思わず、拓道はその名前を口にしていた。もう敬語で話すのは止めた。そもそも、宮和歌の方からは既に無礼の限りを尽くされているのだ。タメ口で話す事に、何の躊躇いもなかった。

 

「私の携帯返して!このドロボーメガネ!あと、名前ば呼ばんで!馴れ馴れしか!」

「はぁ!?何かやん!ドロボーメガネっち!拾っただけやんか!つーか、今時メガネ弄りとか小学生でもせんぞ!」

「なら!早う、返して!このメガネドボー!」

「止めろ!それやと、俺がこのメガネば盗ったみたいやろうが!?」

「このメガネ!」

「それしか言えんとか!このブラコン!良い年して、何が“ヤスキお兄ちゃん”か!さっさと兄離ればせろし!」

「っ!サイテー!」

 

 サイテー!サイテー!サイテー!サイテー!

 宮和歌は、拓道に向かって、まるで小学生のように地団駄を踏んで叫んでいた。ここが職場である事も、病院の敷地内である事も分かった上で、そんな事をしてしまう。

それが、兄を盗られた悔しさからくるモノなのか、それとも他の何なのか。

宮和歌すらも理解できないその感情の発露は、拓道を前にした途端、一気にコントロールできなくなってしまった。

 

「アンタ、ほんとに好かーーーーん!!」

 

そう。こういう時は“お兄ちゃん”だ。お兄ちゃんさえ来てくれれば、解決した。何でも、全部。不安も苛立ちも、やるせなさも、全部。

 

「もう、お兄ちゃん……助けてよ」

 

幼い頃はそうやって癇癪を起していれば、いつも来てくれた。優しい兄が『どうしたの?みやちゃん』なんて言って――。

 

 

「――あ、もしもし、ヤスキ?ごめん。俺、みやちゃんじゃなかよ」

「え?」

 

 

 宮和歌は突然の拓道の行動に、思わず目を剥いた。なんと、拓道は、勝手に宮和歌の携帯に出ていたのだ。

しかも、待ち望み、逃げ続けた、大好きな兄からの電話を。

 

 

「みやちゃん?あぁ、俺の目の前で子供んごと癇癪ば起こしよらす。なんで一緒に居るとかって。たまたま、今会ったとよ」

「ちょっ!は!?」

「なん?そっちは忠孝もおると?今、俺達がどこにおるか?えーっと……ここどこ?みやちゃん?」

 

 そう、更に馴れ馴れしさの増した呼び方をしてくる拓道に、宮和歌は怒るべきか、はたまた逃げるべきか迷った。

しかし、その一瞬の思案が命取りだった。戸惑いながら半歩後ろに下がった宮和歌の腕を、拓道はガシリと掴んだのである。

 

「っ!離して!」

「なんか、広場の時計の……東側かね?ちょうど、館内マップが近くにあるわ」

「離して!この不審者!この人、メガネドロボーです!助けてくださいっ!」

「ちょっ、お前なんば言いよるとかやん!ヤスキ!みやちゃんが暴れるけん、早よ来てばい!」

「嫌よ!私、お兄ちゃんには会いたくない!会われんもん!」

 

 その拓道の言葉に、宮和歌は掴まれた腕を無理やり引き抜こうとするが、さすがに男女の力の差は歴然だった。どんなに引っ張ってもビクともしない。この力の差は、これまでの兄妹喧嘩の時に、嫌という程思い知らされている。

 

このままでは、ヤスキが此処に来てしまう。

すると、通話を終えた拓道は、そのまま何事もなかったかのように、宮和歌の携帯を自身のポケットへと仕舞いこんだ。

返してくれる気は毛頭ないようだ。

 

「で?みやちゃん。なんで、結婚式に来んとよ?そげん、ヤスキの結婚が認めたくなかとか?」

「このドロボー」

「俺、そればっかやな。つーか、お前が結婚式に参加せんでも、もうヤスキは俺のやけん。早よ現実ば見て楽になれ」

「うるさい……アンタに何が分かるとよ。私、アンタの事好かん。この世で一番好かん」

「はぁっ、もう俺の事は好かんでよかけど、ヤスキがどんだけ、お前ば心配しよったか分かっとっとか?見よって腹立つったっい。お前みたいな妹がおると、ヤスキがいつまで経ってん、完全に俺のモノにならんやんか」

 

 拓道の口から出てきた“ヤスキ”の名前に、宮和歌は一気に眉を顰めた。

 

「……アンタに関係なかやん」

「関係ある。もうヤスキの一番は俺やし、俺の一番もヤスキやけん。宮和歌、お前邪魔。早よ、ヤスキの人生から退場せろ」

「っ!アンタなんか一番じゃなか!ヤスキお兄ちゃんの一番は私やん!勝手な事言わんで!」

 

 ヤスキの一番は俺。

 そんな事をいけしゃあしゃあと口にしてくる拓道に、宮和歌の沸点は一気に頂点まで上り詰めた。それまで腹の中でくすぶっていた全ての熱が、この時を持ってして、一気に噴火したのである。

 

「……後から、ポッと出て来て一番!?笑わせないないで!アンタにお兄ちゃんの何が分かるのよ!?」

 

 宮和歌は、それまでの子供のような方言での口調を消し去り、ハッキリと拓道の前へと立ちはだかった。ともすれば、互いの額がくっつかん勢いの距離感。その様子は、傍から見れば、キスをする間近のような……そんな距離感であった。

 

「……ほんとに、図々しい」

「……」

 

 もちろん宮和歌に、照れなどない。宮和歌にとって、拓道は決して“男”ではないのだ。照れる必要など、どこにもない。

 

「……ポッと出か。確かにそうだな。でも、」

 

 しかし、そんな距離感に対し、拓道も怯んだりしない。拓道にとって、宮和歌だって“女”ではない。そして、そもそも拓道にとって“女”は恋愛対象外だ。

 まぁ、今となってはヤスキ以外は恋愛対象外と言っても過言ではないが。

 

「でも、俺はずっとヤスキの事が好きだった。ずっとずっと好きだった。その気持ちだけは誰にも負けん。宮和歌、お前にもな」

 

 宮和歌の額に、拓道の額が軽くぶつかる。

大の大人、しかも男女の二人の額が触れ合う。そんな、通常では極めてあり得ない距離感で、二人は互いに睨み合った。出会う前から、ずっと気に食わなかった相手。最早、ソレは同族嫌悪と言って差し支えなかった。

 

「ずっと好きだった?私なんて……」

「私なんて、何だよ?」

「生まれた頃から、お兄ちゃんが好きよ」

「妹として?」

「……女としてよ」

 

 宮和歌は真っ直ぐ此方を見てくる拓道の目を、真正面から受け止めながら言った。

そうしなければ、この男には勝てない。そう、本能的に思ったのだ。一体、何に対して“勝つ”とうとしているのか、宮和歌にも分からなかったが、どうしても、この男の前では嘘も偽りも、そして逃げも許したくなかった。

でも、どうしてだろう。

 

真っ直ぐに此方を見てくる拓道を見ていると、どうしても、目を逸らしたくなる。

 

「……ねぇ、なんでお兄ちゃんだったの?」

 

 宮和歌は囁くような声で問うた。

 

「どうして、たった一年しか一緒に居なかった小学校の先生になんか恋するのよ……ねぇ、貴方って本当にお兄ちゃんが好きなの?」

「何が言いたい」

「知ってる?生活ってね。本当に、つまんないし、大した事ないよ。綺麗な憧れなんて容赦なく壊してくるんだからね」

「……そうだな」

「それに、お兄ちゃんってね、とことんウザいのよ。アレもダメ、コレもダメって。ソレばっか。それに、暴力だって振るう。本当は凄く怖いし。兄達の中で一番強いんだから。だから、他のお兄ちゃん達も、皆おヤスキ兄ちゃんには逆らわない」

「……そりゃあ意外だな。またヤスキの事を好きになりそうだよ」

 

 そんな拓道の、わざと揶揄ったような言葉に、宮和歌はカッと頭に血が上るような心地だった。

 

「優しくて穏やかな綺麗なお兄ちゃんしか知らないアンタに、お兄ちゃんの一番はやられれん!私だったら、全部知ってるから!絶対、裏切らない!だって家族だもん!勝手に失望なんかしない!キラキラした初恋の中にお兄ちゃんを閉じ込めてるお前じゃ、きっとそのうちお兄ちゃんを傷付ける。ねぇ知ってる!?お前みたいなヤツが、平気で他人を傷つけるんだって!」

 

 止まらない、止まらない。

 宮和歌は、目の前にある眼鏡越しに此方を見つめてくる拓道を前に、腹の中でマグマのように煮えたぎる怒りを、そのまま投げつける事にした。この男は、本当に腹が立つ。

 

まるで、自分を見ているようで。

 

「ずっと好きだった?へぇ。そうなの。良かったね。ずっと、好きでいられて。気持ち良かったんじゃない?お兄ちゃんを好きだって思ってれば、自分は真っ直ぐで一途な恋をしてるって思えるもんね。自分は叶わない恋愛をしてるんだって痛気持ち良い中、気分良く生きて来れたわよね?面倒臭い奴から言い寄られても、忘れられない人が居るからごめんって言って線を引いて後ろに下がれるもんね?面倒くさい事は、全部お兄ちゃんに任せてれば、それですんだよね?」

「……」

「心の底で、他人の向けてくる“愛”を、それは本当の“愛”じゃないなんて思ってさ?自分の抱いている“愛”を崇高に仕立て上げて、優越感に浸ってきたのよ。真っ直ぐな自分に酔って、自分は特別だって思って。結局、お兄ちゃんを都合よく利用してきただけなのよ」

 

 拓道は何も答えない。

 宮和歌の言葉を、ただ黙って聞いている。そして、宮和歌自身も、自分の言葉をそのまま自分の耳で静かに受け止めた。

 

「ほんと、大っ嫌い」

「……誰を?」

「……」

「なぁ、ソレ。誰に対して言ってる?」

 

 拓道の静かな問いが、宮和歌に向かって投げかけられる。宮和歌は思う。先程の言葉が、果たして拓道に対する怒りなのか、それとも。

 

「……わたし」

 

 ただの、自問自答なのか。

 宮和歌は吐き出すように言うと、拓道の額から自身の頭を離した。離して、静かに言う。

 

「お兄ちゃん。そんな訳やけんさ。私、結婚式、出たくなかとよ」

 

 頭を離し、宮和歌はゆっくりと体ごと後ろへと振り返った。すると、そこには携帯を耳に当てながら、宮和歌を見つめるヤスキが居た。

 

「お兄ちゃん。私、お兄ちゃんが結婚するとか、認めたくなかと」

 

 野澤ヤスキ。宮和歌の、兄だ。

ずっと、宮和歌の中で、宮和歌を変化の波から守ってくれていた、大好きな人だ。

 

「だって、私、ずっと一番はお兄ちゃんやったとけ、今更、急にお兄ちゃんが居らんくなるとか考えられん」

「うん」

「……私、怖か。私、変わるの好かん。別の好きなモノとか作りたくなかとよ」

「みやちゃん」

 

 それまで、宮和歌の言葉を黙って頷いて聞いていたヤスキが、幼い頃から変わらぬあの声色で宮和歌の名前を呼んだ。この声で“みやちゃん”と呼ばれるのが、宮和歌は大好きだった。安心できた。

 

「お兄ちゃん」

——おにいちゃん。

 

 なにせ、ヤスキは何があっても宮和歌を“妹”として可愛がってくれる。未来永劫、それが変わる事はない。

それが他の男とは、違う。だから、好きだった。

宮和歌をずっと一番に手を焼いてくれた。

 

「結婚しても、俺はみやちゃんの“お兄ちゃん”だよ」

「……」

「大丈夫、面倒な男が来たら。お兄ちゃんが好きだからって言いな。その位の役割なら、喜んで引き受けるから」

「……」

「でもね、みやちゃん」

「……」

「少しでもいいから、良いなって思う人が現れたら」

「……」

「逃げずに、ちょっとだけ向き合ってみなさい。面倒臭がらずにね」

「嫌やん。メンドくさか」

「……新しいものを好きになるってね。面倒だけど、楽しいよ?そしたら、みやちゃんなんか、すぐお兄ちゃんの事なんか忘れちゃうんだろうね」

「……」

 

 そんな、少し寂しそうな兄の声を聞きながら、宮和歌はその隣に立つ、もう一人の男に目を向けた。

 

「(伊藤先生……)」

 

隣には、感情の読み取れない表情で宮和歌を見つめる忠孝の姿がある。

視線を落とし、忠孝の白衣の膝の部分を見てみれば、泥と血で汚れていた。その姿は、宮和歌とまったく同じだ。

 

「(本当に、よか人。私の悩みとけ、どうして同じごと悩んでくれるとやか)」

 

もしかしたら、忠孝の掌も、もしかしたら小石のせいで血が滲んでいるかもしれない。そして、極めつけは忠孝のその目だ。その目は、先程からずっと、宮和歌に対してこう言っていた

 

——-それで、お前はよかとか?無理しとらんか?

 

「……うん、もう良かごた。大丈夫ごた」

 

 その言葉は、驚くほどあっさりと宮和歌の口から零れた。口にしてしまえば、案外アッサリしたものだ。あんなに認めたくなく、恐怖に怯えていたのに。

 

 向き合ってみれば、そう大した事などなかったのだ。

 

「野澤ヤスキさん、平川拓道さん。ご結婚おめでとうございます。お二人の結婚式、謹んで参列させて頂きます」

 

 宮和歌はピシリと背筋を伸ばして二人の男に向き直ると、そのまま深く頭を下げた。

そして、それが出来たのが、頭を下げながら視界の端に映る、汚れた白衣を身に纏う男のお陰だと、改めて知った。

 

共に転んでくれる忠孝が居たからこそ、空っぽになった“一番”を受け入れられたのだ。

 

「伊藤先生。ほら、私、大丈夫やったろ?」

「あぁ」

 

 

 そう、静かに苦笑して頷く忠孝に、宮和歌は思った。この人は、まるで“お兄ちゃん”のような男だな、と。

 

 

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