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 時は、少し前まで遡る。

 伊藤忠孝は少しだけモヤついていた。

それは、先程本気で走っていた折に、思わず足がもつれて転んでしまった事で、自身の加齢を容赦なく突き付けられたからではない。

 

「大丈夫?忠孝君?」

 

 そう言って、何食わぬ顔で自分の隣を歩く、この穏やかな顔をした男のせいだ。

 

 野澤ヤスキ。

 忠孝の小学校時代の元担任であり、親友の長年の初恋の相手でもある。そして、つい先程まで昼食を共にしていた相手。

野澤宮和歌の、実の兄でもあった。

 

「(やっぱり、野澤先生の“お兄ちゃん”は先生やったか)」

 

 宮和歌に話を聞きながら、殆ど確信していた事実。

 野澤という苗字と、拓道と同じ結婚式の日程。先程、宮和歌が有給を申請したと言っていたが、そのせいだろう。ついさっき、同僚の医師から『お前、ホントに野澤先生とデキてんのか?』とメッセージが入っていた。

 

 あぁ、まったく。個人情報はどうした。それに、普段から言っているではないか。職場の女には、手を出さない、と。

 そう、忠孝は内心毒吐かずにはおれなかった。

 

「大丈夫です……こんな派手に転んだの、いつぶりかな。小学生の頃以来かもしれない」

「俺から言わせれば、小学生の頃のキミも、こんなに転ぶ程、懸命に走る子じゃなかったと思うよ?」

 

 ヤスキの、何に含みもないその言葉に、忠孝は自身の汚れた白衣を見た。どうやら、そこそこ派手に転んでしまったらしい。土で汚れていた膝の部分には、じんわりと血が滲んでいる。ついでに、転んだ時についた手の平にもボコボコと小さな石の痕まである。

 

 痛い。普通に、痛い。

 一体、自分はどれほど必死に宮和歌を追いかけて走っていたのか。

 

「そう、だったでしょうか」

「うん。君は昔から、凄く理性的な子だったからね。こんな事を言ってはいけないのかもしれないけど、転んでる所を見た時は、少しだけ安心した」

「不本意過ぎます」

 

 忠孝とヤスキの、ポツポツとした会話が続く。

 その中でも、忠孝はモヤモヤが募りっぱなしだった。なにせ、宮和歌があぁまでして必死に悩んでいたのは、全部このヤスキのせいなのだから。

 

「先生は、野澤先生に……」

 

 そこまで行って忠孝はハタと考えた。よく考えれば、ヤスキも宮和歌も“野澤先生”だ。医師と教師の差はあれど、呼び方は全く同じになってしまう。忠孝は、一旦わざわざその思考をしっかりと挟むと、今度はハッキリと言い直した。

 

「宮和歌に、会いに来たんですよね?」

「そう。俺の結婚式、出たくないって言ってるって聞いてさ。これは会わないと、って思ってね。確か、忠孝君がみやちゃん……宮和歌と同じ病院だって事は知ってたけど、二人が親しいなんて思わなかった」

「最近、話すようになっただけですよ。ほんとに、つい最近」

「そうなんだ。宮和歌はどう?迷惑かけてない?あの子は猪突猛進な所があるからね」

「……先生」

「ん?」

 

 忠孝は歩いていた足を止めた。

 そして、血のにじむ白衣をジッと見つめる。

 

「宮和歌の気持ち、どこまで知ってるんですか?」

「宮和歌の気持ち?」

 

 コテリと首を傾げるような声が聞こえてくる。そんな、明らかに何も知りませんという安穏とした声に、忠孝は少しばかり苛立った。

 

「そうですよ。まさか、欠片も気付いてないなんて事はないですよね?」

「……あぁ、宮和歌が俺を好きだってこと?」

「……」

 

 まぁ、そうだろうな、というヤスキからの言葉。

次いで浮かぶのは、「結婚式に出たくない」と眉を寄せる宮和歌の顔だ。忠孝が、脳裏にこびりついて離れない宮和歌の表情に、更に苛立ちを募らせた時だった。

 

「しかも、異性として」

 

 予想外にもヤスキの口からハッキリと返ってきた答えに、忠孝は大きく目を見開いた。

 

「……知ってたんですか?」

「だって、俺がそうするように、みやちゃ……もう、みやちゃんでいっか。みやちゃんに言ったからね」

「は?」

 

 何を言っているのだろう。この隣を歩く穏やかな顔をした男は。

妹に、自分を異性として好きになるように言った?なんだ、ソレは。

 

「ちょっと……意味が」

「あぁっ!待って!変な誤解を生むと困るからハッキリ言うけど。宮和歌は“異性として”誰かを好きになるって事がどんな事か分かってないんだよ!」

「は?」

「昔からそう。でも、だからと言って別に女の子が好きってワケでもなくて。ただ、宮和歌の中の“好き”って感情に種類がないんだ。分かってないの」

 

 ホント、小学生みたいでしょ。

 そう言って苦笑するヤスキの横顔は、最早、どこまで行っても“お兄ちゃん”だった。

 

「忠孝君はさ、小学生の頃から物凄くモテてたじゃない?ラブレターとか沢山貰ってたし」

「また、懐かしい事を」

「あれ、どう思ってた?」

「……うーん、あの時は。よく覚えてないけど。まぁ、嬉しかったんじゃないですか。嫌われるより好かれてる方が色々楽だし。便利だし」

「まったく、君らしい」

 

 ヤスキに笑われて、忠孝は思わず漏れた本音にギクリとした。“楽”、“便利”。他者からの好意を、そんな風に受け止めている事を、忠孝は、まさか久々に会った小学校の元担任に零してしまったのだ。

 

 なんとも気まずい。

 

「……あー、先生、俺ん事ゲスやなっち思ったでしょ?」

 

 思わず方言が出る。

 こうも気まずさが募るのは、ヤスキが“教師”だからなのか、“親友の初恋の相手”だからなのか、それとも――。

 

「いや。そんな事思わないよ。誰かを好きになるのはその人の自由だし、好きになられた方がどう思うかも、その人の自由だ」

 

 “宮和歌の兄”だからなのか。

 忠孝はジッと此方を見上げてくるヤスキに、何と言われるのか身構えた。

 

「ただ、みやちゃんにも、同じような器用さがあれば良かったのになぁって思ってね」

「は?いやいや、待ってばい!先生。いかんやろ!俺んごとなったら!俺っちほんとにどうしようもなか男ばい!」

「うーん。キミは優秀なのに、意外に自分を卑下するよねぇ。ネガティブ……というか、他の人をやたらと美化して見過ぎてるのかな?」

 

 ヤスキの真っ黒な目が忠孝を映す。この真っ直ぐな目は誰かを思い出す。誰かって。そりゃあ、

 

「忠孝君は良い子だよ」

——伊藤先生は、よか人ねぇ。

 

宮和歌だ。

 さすが兄妹。本当に似たような顔をして、似たような事を言う。そんな事を言われてしまえば、やっぱり勘違いしそうになるではないか。

 自分は捨てたモンじゃないのではないか、と。

 

「みやちゃんはね。キミと同じで、顔は整ってるし、明るくて元気で、おまけに面白くて、優しくて……なにせ可愛いから」

「え、急にシスコン?」

「事実です」

 

 そして、急にヤスキの口から湯水のように垂れ流され始めた宮和歌に対する盲目なまでの身内贔屓に、忠孝は肩を揺らした。ヤスキの顔は大真面目だ。

 

「そんな訳だから……モテるんだよ。本当に。もちろん、男の子から」

「へぇ」

「でも、みやちゃんは、それが嫌だったみたい。小学生の五年生か、六年生の頃かな?一番仲良しだった男の子に告白された時、大泣きして帰って来たんだ。前と同じが良かったって。告白されたせいで、前みたいに楽しくないって。戻りたいって」

 

 その言葉に、忠孝は先程のヤスキの言葉を思い出していた。宮和歌が君みたいに器用だったら良かったのに、というヤスキの言葉を。

 

「宮和歌らしい」

「ね?まぁ、小学校で、年齢が上がるにつれてそういう事が増えて行って。中学に入ったら、更に頻繁に告白されるようになってね。男の子と仲良くなれば、告白される。でも、あの子の性質なんだろうね。なんか、男の子との方が話が合うみたいでさ」

「あぁ、なんか……分かるかも」

 

 忠孝は、あの宮和歌の醸し出す、妙にスッキリとした物言いと姿勢を思い出し、強めに理解した。そう、ハッキリ言って、宮和歌“面倒臭くないのだ。

 

「でしょう?しかも、みやちゃんも不器用なモンだから、付き合いたくはないけど、前みたいに楽しくやろうよって、必死に関係を戻そうと画策したりして……でも、もちろんそれは逆効果。しかも、相手は更に勘違いするし、なんかもう……ホントに色々あったんだよ」

「……だけん、先生が自分を好きって事にしておくように言ったと?」

「苦肉の策だよ。あんなに元気だったみやちゃんが、どんどんやつれていくし。変に神経質になって、思春期も重なって、それで最後にはどうしたと思う?」

「え?なん?」

 

 ハッキリと頭を抱えて言葉を重くしたヤスキに、忠孝は身を乗り出した。

宮和歌は拓道と似ている。パンと弾けた時。きっとあの二人は、自分達の予想を遥かに超えた何かをしてくるに違いないのだ。

 

「バリカンで自分の髪の毛を全部剃ったんだよ!」

「うわ!?ヤバ!」

「でしょう!?十四歳の、思春期真っ盛りの女の子が、だよ!?久々に会った妹の髪の毛が一本もなくなってるのを見た時の、お兄ちゃんのショックさは計り知れなかったね!」

 

 忠孝は今の宮和歌の姿を思い出し、あの独特なベリィショートの髪型の意味を、やっと知った気がした。裏で宝塚の男役なんて言われるような立ち居振る舞いも、きっと自分から“女”を排除しようとしている結果なのだ。

 

「もう、このままだとこの子は壊れちゃうんじゃないかって心配になってさ。お兄ちゃん子だったのもあって、今度告白されて困ったら『好きな人が居る』って言って断ればいいよって言ったんだ。でも、本当に嘘の吐けない子だから……」

「……だから宮和歌に自分を異性として好きになるように言った、と」

「でも、それもただの俺のエゴだった」

「……」

「……フリで口にして言った事が本当の気持ちにすり替わっていくなんて事は、よくある事だからね。ずっと、俺を一番上に置いて、変わらないお兄ちゃんの後ろに隠れて過ごしてたせいで、俺はあの子から誰かを好きになったり、面倒臭い人間関係から得られるモノを全部奪ってしまったんだ」

 

 ヤスキは自身の携帯電話を再びポケットから取り出すと、もう一度、宮和歌の番号をタップした。

 

「まったく。お兄ちゃん、お兄ちゃんって言ってくれるのが嬉しくて……こんな年まで妹離れできなかったよ。本当に、こんなクズ男は他に居ないね」

 

 自嘲気味に言いながら、ヤスキは忠孝をチラと見上げた。

 

「それに、そろそろ本気で妹離れしないと。拓道君に申し訳ない」

「確かに。アイツは本当に……嫉妬深いから、そろそろ本気で集中して向きあわんと、アイツがバリカンで坊主になるかもしれませんね」

「……それは、全力で阻止しないと」

 

 冗談っぽく笑うヤスキに、忠孝は冗談じゃないですよ、と心の中で言った。

 あのヤスキ一筋の拓道の事だ。いくら、本当の兄妹でも、きっとこんなのを知ったら嫉妬に狂って何をしでかすか分からない。

 

 忠孝が怒り狂う拓道を想像しながら、思わず苦笑していると、すぐ隣で何とも言えない大声が聞こえてきた。

 

 

「あ、みやちゃん?……っへ?拓道君?えっ、なになに?何でみやちゃんの携帯に拓道君が?え?一緒に居る?」

 

 戸惑うヤスキの声。そして、ヤスキの持つ携帯からは、そりゃあもう忠孝にとっては、聞き慣れた二人の声がギャンギャンと響いてきた。

 

 

『このメガネドボー!』

『止めろ!それやと、俺がこのメガネば盗ったみたいやろうが!?』

『このメガネ!』

『それしか言えんとか!このブラコン!良い年して!さっさと兄離ればせろし!』

 

「……」

「……」

 

 ヤスキの携帯から延々と聞こえ続ける二人の男女の小学生のような喧嘩に、忠孝とヤスキは、互いに顔を見合わせて苦笑した。

そして、その後二人は携帯から聞こえ続ける二人の会話に耳を澄ませながら、最後には――。

 

 

「ほんと、大っ嫌い」

「……誰を?」

「……」

「なぁ、ソレ。誰に対して言ってる?」

「……わたし」

 

 泣きそうな宮和歌の声が、ヤスキの電話越しにではなく、直接、忠孝の耳にも届いた。その泣きそうな声に、忠孝は改めて思う。

 

「(まったく、世話の焼けるヤツ)」

 

 忠孝は、途中チラと自分に向かって頼りな気な視線を向けてくる宮和歌に、何だか堪らない気持ちになった。しかも、宮和歌ときたら、自分とまったく同じ場所に傷を作り、血を流しているではないか。

 

 

「(拓道はもう結婚するし。俺も今度から、一番に世話を焼いてやる相手ば、変えても良かかもしれんな)」

 

 

 この時、忠孝は下衆でカスだと思っていた自分の、ただ単純に世話好きな一面に、なんだかホッと胸を撫で下ろしたのであった。

 

 

 

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