「大豆クン。茂木君の新人研修は君に任せたよ」
課長の言葉に、俺は一瞬頭の中が真っ白になった。
え?何だって?俺に何をしろって?
「えっ?えっ?えっ!?課長!なんで、俺が!なんで!?他の人は?」
「今月は外部に助っ人で人数出さないといけなくて、他に出来そうな人が居ないんだよ」
「ほ、本当に、俺じゃなきゃ、だめですか?」
「ダメっていうか、指導役はそもそも大豆クンにしようと思ってたし」
「な、なんで?なんでですか!?」
「茂木君と関わるのは、大豆クンにも良い経験になると思って」
「……」
まただよ!また課長の「良い経験になるから」が出た!
どうやったらこの課長は俺を見放してくれるのだろう。こんなに出来ない俺なんか、そろそろ成長を諦めても良い頃合いじゃないのだろうか。
「で、でも、俺なんかが教えても……茂木君の為にならないかもしれないし」
「あのね?大豆クン?」
「は、はい」
しどろもどろながら断ろうとする俺に対し、課長が肘をつき覗き込むように此方を見てきた。
課長は、いつもどこか飄々としていて掴みどころがない。うん、絶対に攻めだ。糸目だし。エッチな事をする時だけ、開眼しそうだし。
でも、攻めはこれ以上いらないんだよ。今、俺に必要なのは“受け”だ。堅物攻めを柔らかく絆してくれる、ちょっとクセのある平凡な受けが。
「教えるっていうのはね、教える側が一番教えられるモノだよ?何かを教えるという事に対しプレッシャーを覚えるのであれば、キミが茂木君から教わる、というスタンスでやってみてはどうかな?」
「う」
これはダメだ。また俺に難易度の高い事を求めてきている。
最早、何を言っても俺に指導役を任せるという課長の意思は揺るぎそうもない。
さすが、本編では脇キャラだったのに、スピンオフではメインの攻めに描かれそうな人だ。スピンオフなのに二巻とか出そうだし。侮れないんだよな、このタイプ。
「大豆クン?今日から茂木君の指導、よろしくね」
「……」
「よ、ろ、し、く、ね?」
「……はい」
課長の有無を言わさぬ言葉に、俺は渋々頷くしかなかった。今更、何をどう言っても無駄な事は、これまでの経験で明らかだ。
「じゃ、茂木君も、今日から一ヶ月間、分からない事は大豆クンに聞いてね」
「はい。わかりました」
「っえ?」
すると、いつの間にか、俺の後ろには年下攻めの茂木君が居た。いつから居たんだろう。全然気づかなかった。
「どうぞよろしくお願いします。大豆先輩」
「あ、はい!どうぞよろしくお願いします!」
低く落ち着いた茂木君の声に、俺は勢いよく頭を下げ返す。そんな俺に対し、課長の「どっちが新人なのか分かんないねぇ」と言う緩い声が聞こえてくる。
まぁ、そんなのいつもの事だ。毎年転勤組から「新入社員?」って聞かれるし。このオドオドした自信の無さが、俺を新入社員に見せてしまうのだろう。もし、俺が茂木君みたいに堂々としていたら――。
そう、落ちた髪の毛の隙間からチラと見上げた時だ。
「……」
「っ!」
俺の視線は再びガバリと床へと落とされた。
え、なになになに!?ものすっごく睨まれてるんですけど!
そう、先程見上げた先には、何故か凄まじく冷たい目で此方を見下ろしてくる茂木君の姿があったのだ。なんだろう。根がネガティブだから、勝手にそう感じるのかもしれないが……俺。物凄く、茂木君に嫌われてる気がする。
悪い方に考え過ぎだろうか。そうだといいけど。
「……ん?」
それにしても「根がネガティブ」って、口に出すと、何か面白い気がする。うん。なんだか、そのしつこくて暗くて粘着質そうな感じに、妙な親近感を抱いてしまう。
まるで俺みたい。
「……ネガネガ」
「大豆くーん?戻っておいでー。頭下げたままどっか飛んでいかないでー」
「っは、はい!」
課長の声に、俺は頭の中の「ネガネガ」を勢いよく払いのけた。いけない。また変な事を考えていた。これじゃあ、あの朝礼の時の二の舞だ。
「さっそく、茂木君の研修よろしく。毎日一時間は、研修に使っていいからね」
「っあ、はい!も、茂木君。じゃあ、こちらにどうぞ」
「はい」
「あはー。お客様対応みたいだねー」
いや、俺にとってはお客様のようなモノだ。正直、怖くて仕方がない。
茂木君の隣を歩きながら、俺はチラリとも彼の方を見る事が出来なかった。
〇
俺は大勢も苦手だけど、慣れない相手も苦手だ。
ちょっとやそっとではない。ものすごく……苦手だ。
「……と、いうこと、です。」
「……」
「あの、わかった?茂木君」
「……」
研修資料を指さしながら、俺はやっとの事で業務に関する基礎知識を説明し終えた。喋り過ぎて、喉がカラカラする。
「……」
「……ん?」
しかし、俺の問いに対し、一向に茂木君からの返事がない。
「あの、茂木君?」
「……」
ソロリと俺が顔を上げると、そこには腕を組み、しっかりと目を瞑る茂木君の姿があった。
「えっ、えっ!?茂木君?」
え?寝てる?ウソ、寝てる!?
余りにも予想外な事態に俺が慌てふためいていると、明らかに寝息ではない、深い呼吸音が聞こえてきた。まごうことなき、溜息だ。
「大豆先輩」
「は、はい」
新人に呼ばれてビビる俺。コレ、なに。
「俺が、いつから目を瞑ってたか、分かりますか?」
「え?」
「分かりますか?」
「あ、いや。分かりません」
「資料の一頁目の三行目。個人情報管理の項目からです」
「あ、はい。そうなんですね」
何故か敬語になる俺。あの。コレ、どういう状態ですか。
「そうなんですね、じゃないでしょう」
「え?」
「先輩。そこから、今まで何分話し続けてました?」
茂木君の冷たい声と、絶対零度の眼差しが、俺へと向けられる。ついでに、その骨ばった手は、先程まで俺が必死に読み上げていた資料に向かって、容赦なく指を突き立ててある。
「えと、三十分くらい、ですか?」
「四十三分ですよ」
「あ、はい」
ねぇ、ねぇ、ねぇ。これどういう状態?
誰か教えて。いや、助けて。俺は一体どうしたらいいですか?
「俺が、何を言いたいか分かりますか?先輩」
「あ、えっと、いや」
「分かりますか、と聞いてるんです」
「わ、わ……わかりません」
あ、もしやこれは、アレかな?学校の授業で「皆さんが静かになるまでに5分かかりました」のヤツかな?うん、ソレっぽい。絶対そうだ。
だとして、どうして指導役の俺がソレをされてるんだ?
「俺には語彙力がありませんので、率直に申し上げますが、」
「……は、はい」
「先輩が今までやってたのは“指導”なんかじゃないって事ですよ」
まるで、俺の思考を読んでいるかのような切り返しが放たれた。空気がピリと尖り、俺にズケズケと刺さってくる。
「あんなモノは、ただ資料を読み上げただけに過ぎません。それを四十三分間も聞かされ続けた俺の気持ち、お分かり頂けますか?」
「うっ」
「まったく、耐え難い時間でしたよ。読み上げるだけなら、別に指導役なんていりません。俺一人で十分です」
おっしゃる通りでございます。グウの音も出ません。ぐう。
「……今朝の朝礼もそうでしたよね。手元の紙ばかり見て、一切聞き手の方を見ていない。だから、あんな初歩的な読み間違いをするんです」
うわぁ、課長と同じような事を言ってる。でも、課長の言い方よりも分かりやすく単純明快な分、一切が遠慮が無かった。
「……」
「いいですか?大豆先輩」
しかし、ここまで来て俺の心はまたしても熱くなってしまっていた。
「先輩の言葉は独りよがりだから、誰にも届かないんです。指導役として、今一度自分を省みるべきじゃないでしょうか」
茂木君。やっぱり、キャラが……キャラが凄く濃い。堅物なだけじゃなかったんだ。こんな人、初めて。俺はとてつもない子に出会ってしまったみたいだ。
「……う、わ」
その長い足を机の下で窮屈そうに組む堅物なイケメンの姿に、完全に心が燃え盛っていた。何のって、そりゃあ……!
「この四十三分間、俺にとっても先輩にとっても無駄な時間でしたね。お疲れ様です」
創作の、だ!
サイトの更新を辞めて早五年、久々にこんなに凄い創作欲にまみえた!
「出来る事なら、俺も別の方に指導に付いて頂きたかった」
その整った顔立ちを、一切歪める事なく表される怒りと憤り。その口から紡がれる言葉もまた、一切口汚いなんて事はなく、それはどこまでいっても美しく丁寧な言葉だった。
「生意気だと、思いたければ思って頂いて結構です。慇懃無礼も承知の上。これからは、分からない事は都度、別の方にお尋ねします。ただ、先輩も指導を任された手前、何もしないというワケにはいかないでしょう」
それまで目を伏せていた茂木君がチラと俺を見た。
「いんぎんぶれい」ってどう言う意味だろう。聞いた事はあるけど、よく意味は知らない。これも、後で調べてみないと。
「この指導の時間、先輩も自分の業務を進めて頂いて結構です。俺も俺で好きにやらせて頂きますので」
では。
言いたい事を言うや否や、茂木君は資料をまとめ、俺の前から颯爽と消えていった。俺はといえば、誰も居なくなったミーティングルームで、ポケットからメモ帳を取り出した。
「いんぎん、ぶれい」
なんだか、格好良い言葉だ。それに、こうして分からない言葉をメモするのはいつぶりだろう。
うん、創作を辞めて以来だから、五年ぶりだ。
「なんか、懐かしいや」
漢字が分からないので、平仮名で書かれたメモを眺めながら、息を吐いた。
そして、彼を見た瞬間に頭を過った物語のネタを一旦白紙に戻す。五十手先まで読んでしまっていたが、どうやら“ソレ”ではないらしい。
茂木君の魅力は、俺の理解の範疇に留まらないようだ。
「……まだ、ログインできるといいけど」
白紙には戻った。でも、既に新しい話が脳内に出来上がった。
コレなら、百手先の展開まで読める。これで明日からの、俺の2時間半の通勤のお供が決まった。
「……なんか、ちょっと楽しくなってきた」
こんなにワクワクするのなんて、いつぶりだろう。