9:このアカウントには自立は存在しません

 

 

 

「あ」

「……」

 

 次の日、ロッカーで茂木君と会った。

 朝の時間が被るなんて珍しい。俺はバスの時間が決まっているので、職場に着くのは誰よりも早いのだ。いつもなら、茂木君はあと十五分くらい遅い筈なのだが。

 

「おはよう、茂木君。今日は早いね。風邪の具合はどう?」

 

 昨日構って貰えたので、スムーズに挨拶出来た。

 

「……」

「えっと、も、茂木君?昨日は飴、ありがとね」

「……」

 

 あれ。やっぱり返事がない。どうしたんだろう。

 

「あの、」

「……」

 

そう言えば、昨日よりも大分具合が悪そうだ。目の下には隈が出来ており、何やら表情も引きつっている。鼻が詰まって眠れなかったのだろうか。

 

「あの、具合が悪いなら、課長に言って今日は帰らせてもらった方が、」

 

 いいよ。と、言いかけた時だ。それまで、探るような視線で此方を見ていた茂木君が一気に俺の前へと近寄ってきた。その目は真っ赤に充血して、血走っている。

 

 なになになに!?俺、怒られる!?怒られますか!

 

「失礼します」

「えっ!?」

 

 すると、何がどうしたのか。急に俺の左手首を掴み上げたかと思うと、俺の手首の時計と掌を、ジッと食い入るように見てきた。

 

「……大豆先輩、」

「は、はい」

 

 茂木君は俺よりも大分と大きいので、上から見下ろされると完全に“攻め”感が凄い。まるでBLの一コマのようだ。ただ、されているのが自分となると、なんだかちっとも萌えない。

 

「この時計、昨日も、してましたか?」

「う、うん。毎日してるけど」

 

 昨日よりも声が枯れている。可哀想だ。

 

「昨日、俺にマニュアルを渡す時、手に、台本を、書いてました?」

 

 うわぁ。バレてる。見られてないと思ったのに!

 俺は余りにも鋭い視線で此方を見てくる茂木君に、誤魔化すという選択肢を選ぶ事が出来なかった。

 

「あ、えと……はい」

「……はぁっ」

 

 めちゃくちゃ溜息を吐かれてしまった。また台本なんか書いて、と失望されてしまっただろうか。それで、怒られるのだろうか。

 

「ご、ごめんなさい」

「……は?何で謝ってるんですか?」

「台本を、見て、喋ると、独りよがりになるって、前、茂木君がせっかく、教えてくれたのに」

 

 もう一切顔が上げられなかった。俺、完全に見放されたかも。

 課長には、早く見放して欲しいと思うけど、まだ茂木君には見放されたくなかった。せっかく少しは仲良くなれたと思ったのに。

 

「……上手く、出来なくて、ごめん」

「っ!」

 

その瞬間、掴まれていた手首が勢いよく離された。余りにも勢いよく離されたせいで、ロッカーに手がぶつかった。地味に痛い。

 

「っげほ、げほっ。っっはぁ、っはぁっ」

「ちょっ!茂木君!大丈夫!?」

 

 咳込み過ぎて、顔も耳も真っ赤だ。可哀想に。気休めに背中をさすってみてはいるが、コレは意味があるのだろうか。むしろ、水か何か買って来て上げた方が、まだ役に立つ気がする。

 

「ちょっと、水買ってくるね」

「っ!いい、です!水筒、もって、来てます」

「……そっか」

 

 ギュウッと、そりゃあもう強い力で掴まれる俺の腕。そんな茂木君の手は、腕から掌にかけても真っ赤だった。これは、相当熱が高いんじゃないだろうか。

 

「……あの、大豆先輩。昨日は、飴、ありがとう、ございました」

「へ?」

 

 今、茂木君は何と言った?ありがとう?ほんとに?

俺が耳を疑いながら、茂木君を見下ろしていると、それまで背中を丸めていた茂木君が、ゆっくりと体を起こした。

 

「あと、電話も」

「あ、ううん」

「おかげで、随分、楽になりました」

 

 いや、楽になったようには、一切見えないが。

 

「そっか。それは、よかった」

 

 ただ、突然の茂木君からの感謝の言葉に、ゲンキンな俺は先程まで落っこちていた気持ちが一気に浮上した。やっぱり俺ってチョロイ。やっぱり、根がネガティブじゃなくて、根がかまってちゃんなのだ。

 

「資料も……全部、昨日読みました」

「あ、え、そうなの?」

「ご、語彙力のない感想で、申し訳ないのですが……丁寧で、とても……わかり、やすかったです」

「……」

「ありがとうございました」

 

 その時の俺の気持ちは、そう、あれだ。

 

「息が止まるかと思った」

「は?」

「……ううん、何でもない」

 

嬉しいと人間は、息をするのも忘れるんだ。キッコウさんからの五通目のメールを見た時に、俺が初めて知ったことだ。

 

「う、うわぁ」

 

 まさか、あの茂木君が俺をこんな風に褒めてくれるなんて思ってもみなかった。あぁ、今日も、やっぱり凄く良い日だ。

 

「あの、茂木君」

「……なんですか」

 

 まだ微かに顔の赤い茂木君に、俺は少しだけ調子に乗った。

 

「また、マニュアル作るね」

「……」

「また、持っていくから。明日、うん、明日。持って来るから。だから!」

 

 褒められるとすぐに調子に乗る。これはサイト運営の時もそうだった。キッコウさんが褒めてくれるのが嬉しくて、昔は一日に何回も更新した事だってある。

 

「持ち帰り仕事は、やめてください」

「……あ、うん」

 

 見事にたしなめられてしまった。これじゃあ、どっちが先輩なんだか分かったものではない。

 

「でも、」

 

 でも、業務時間中に作る時間があるかは分からない。別に、俺はあのマニュアルを作るのは苦ではなかったし、どちらかと言えば楽しかったから別に良いのだが。

それか、持ち帰りがダメなら、残業して職場で作れば――!

 

「俺のマニュアル作りの為に残業なんて無駄な事。絶対にしないでくださいね」

「!」

 

 もう、全方位からバレてしまっている。茂木君の呆れたような目が、ハッキリと俺を捕らえていた。

 

「そんな事をされたら、迷わ……」

「……」

「指導の時間に……作られたらよろしいかと」

「あぁっ!」

 

 それもそうだ!

あの時間、結局俺は別の仕事を持って行って、茂木君と別々の仕事をしているのだから。

 

「じゃあ、今日作って今日渡すね!今日は接客対応についてのマニュアルにしようかな!何がいい?他のがいいかな!?」

「……それでいいです」

「今日も、電話には出なくていいからね!」

「……あり、がとうござ」

 

 そこまで言いかけて、茂木君がピタリと止まった。どうしたのだろう。咳が出そうなのだろうか。俺が固まる茂木君をジッと見ていると、切れ長の厳しそうな目が、スルリと俺から逸らされた。

 

「きょ、恐悦至極に存じます」

「……えっと、はい」

 

 きょうえつ?

 やっぱり茂木君は難しい言葉をよく知っている。何と答えたら正解か分からないので、ひとまず「はい」と答えておいた。

 

「茂木君って、語彙力があるね」

 

まるでキッコウさんみたいだ。

 

「……いえ、それほどでも」

「ううん。よく言葉を知ってて凄いよ」

 

そういえば、キッコウさん。昨日の更新分については、何も触れて来てなかった。でも昨日の俺の茂木君から貰った飴については「いいね!」を夜中に押してくれていたので、見ていないワケではなさそうだ。どうしたんだろう。

 

「……いや、ちがうだろ」

「大豆先輩?」

 

いや、どうしたっていうか。そもそも、感想って絶対に貰えるモノでもないのだ。あんまりにも図々し過ぎる。

 

「あの、大豆先輩?」

「っ!はい!」

 

 いけない。茂木君の前で、ちょっとトんでしまってた。俺、最近キッコウさんの事ばっかり考えている。これは、あんまりよくない傾向だ。

 

「大丈夫ですか?大豆先輩」

「大丈夫。何でもないよ。気にしてくれて、どうもありがとう」

「……気にしてくれてって」

 

 俺は着ていた上着を脱ぎながら、チラリとスマホへと目をやった。やっぱり「いいね!」は付いているが、感想のメッセージはない。絶対あるなんて期待したらダメなんだぞ、と言い聞かせつつ次の瞬間には期待する自分が嫌だ。

 

 ひとまず、茂木君と少し仲良くなれた気がしたので、その事だけでも報告しておこう。

 

「例の新人の男の子が、俺の作ったマニュアルを分かりやすいと言ってくれました!キッコウさんのアドバイスのお陰です!ありがとうございます!今日も電話をたくさんとって、仕事を頑張りたいと思います!彼は、やっぱりとても良い子です!」

 

 

 

 その日から、キッコウさんは小説の感想をくれなくなった。