(ヘマのヤツ、今日は遅せぇな)
ヒスイは今日も黙って家の中に立っていた。窓の外から入り込む日の光は随分と濃いオレンジ色をしている。どうやら大分と日が傾いているようだ。
(何かあったのか?)
夕方になると、いつもヘマは転がるように家を飛び出していく。それが、狩りを終えたサンゴの所へ向かっているという事は、ヒスイもよく知っている。
『イシ君! ちょっとサンゴの所へ行ってくるね! 心配しないで! すぐ帰って来るよ! 寂しがらないで! 大丈夫、気を付けて行ってくるから! いってきまーす!』
よくもまぁ、言葉を返す事のない石相手に飽きもせず話かけるモノだ。最初こそそんな事を思っていたヒスイだったが、それももう六年も経てば「日常」になる。
六年間。毎日毎日。
ヘマはヒスイに話しかけ続けた。
『イシ君、いただきます! 今日のごはんはヒレキンギョを焼いたモノだよ! 味は塩味! 美味しいかな? うん、きっとおいしいよね! わぁ、おいしー!』
(なぁ、お前さ。いつも塩だけの味付けで飽きねぇのかよ。たまには別の味付けで食ってみろよ)
『イシ君! ほらほら! オレの声、ガラガラでしょう!? これは声変わりだよ! 明日になれば、オレの声はとびっきり格好良くて低い声になってるだろうね! 早く聞いてみたいって? そう焦らないで! もう少し待っててよ! ふふ、楽しみだなー!』
(おいヘマ! お前、顔真っ赤じゃねぇか! そりゃ風邪引いてるだけだ! 寝てろ、おい!サンゴの所に行く!? ふざけんな! ぶっ飛ばすぞ!)
『イシ君、おはよう!今日は雨だね!雨はピチャピチャ音がするから楽しいよね!雨漏りしてるだけだって?分かってる!さぁ、天井をヒールするから肩を貸して!』
(お前が借りんのは肩じゃなくて、俺の頭だろうが。いつもズカズカ俺の頭を踏みやがって。こないだみたいに落ちるなよ。ていうか、天井もヒールで直るのかよ。)
『イシ君! 見て! ヒールの広範囲魔法を覚えたよ! 今から使うからみてて!」
(やめろ、ヘマ! また魔法の使い過ぎでぶっ倒れるぞ!)
『イシ君! おはよう! 朝のシンアイのキスだよ! ちゅっ! ちゅっ!』
(あー、クソ。朝から顔がベタベタだ。つーか、先に歯磨いてこいよ。虫歯になるぞ)
『イシ君。体があつい。すごく、くるしいんだ。大丈夫かって? へへ、もちろんだよ。もちろん、だいじょうぶ』
(お前が昨日雨なのに、俺を外で洗うからだろうが。俺はやめろって言ったのに)
『イシ君、オレはしぬの? しぬのこわいよ』
(死ねるなんていいじゃねぇか。俺は死にたくても死ねねぇのに。お前が死んだら俺は……)
毎日、毎日。
誰も返事をしない一人の家で、ヘマはずっと喋っていた。それに対し、いつしかヒスイも返事をするようになった。
『イシ君! サンゴが狩りから帰ってくるから迎えに行ってくるねー! いってきまーす! 大丈夫、心配しないで!』
(あいあい、気を付けて行って来い。お前すぐ転ぶからな)
今日もいつもと同じように飛び出して行った筈なのに。濃くなった夕陽が、夜の藍色に消され始めた。遅い。本当に遅すぎる。
(おせぇな。何やってんだよ)
ヒスイは思う。ヘマの居ない家の中は、本当に驚くほど静かだな、と。
ガチャリ
(お、帰ったか)
入口の扉が開いた。
ヒスイはいつもの調子で扉の向こうから「ただいまー! イシ君」と勢いよくヘマが抱き付いてくるものとばかり思っていた。しかし、その日はそうはならなかった。
「ただいま、イシ君」
(……ヘマ、どうした。その顔は?)
「帰りがいつもより遅かったから心配したでしょ。寂しかった? え? 寂しくない? ひどいなぁ、ちょっとくらい寂しがってよ」
いつものように一人でベラベラと喋っているが、勢いがいつもの半分もない。それに加え、ヘマの目は酷く真っ赤だった。そんなヘマの顔に、ヒスイは尋ねる。
(ヘマ。お前、また泣いたのか?)
「今日はね、バブの肉を食べるよ。味はもちろん塩味」
(また、サンゴに何か言われたか?)
「ねぇ、聞いてよ。イシ君」
ヒスイがどんなに優しく尋ねても、ヘマはそれに応える事はない。なにせヒスイは石だ。石は喋れない。ヒスイの言葉はヘマには届かないのだ。それは、この六年間で嫌という程身に染みて分かっている事だった。
「オレが昨日覚えたと思ってた魔法ね。あれ、ヒールグレースじゃなかったんだ」
(……ヒールストームだったんだろ?)
ヘマは、いつもより静かにヒスイの目の前までやって来た。
「ヒールストームだったんだよ。あはは。また難しい方から覚えちゃった。でね」
(ったく、なんで高難易度の方からお前は覚えるんだよ)
ヘマはギュウッとその硬い体を抱きしめた。まだまだ、ヒスイの身長には到底追いつけそうもない。きっと、ヘマがヒスイの身長を追い越す日は来ないだろう。
それに対し、なんとなくヒスイはいつもホッとしていた。ヘマに見下ろされる日が来るなんて考えたくもなかった。
「オレね、今日もサンゴを怒らせちゃった。回復しなくていいって言われたのに、それでもオレ、新しい魔法を見て欲しくてね。使っちゃったんだ。へへ」
(いつもの事だな)
「それで怒られて……見苦しいって言われたんだ。イシ君、オレは見苦しいかな? 恥ずかしいヤツかな?」
(そんな事ねぇよ)
「最近、サンゴは俺の事を恥ずかしいと思ってるみたいなんだ。なんでだろうね。俺はサンゴの事が大好きなのに。前はサンゴもこんなに怒ってなかったのに……このままじゃ旅に連れて行かないって言われてね」
イシに抱き付いたまま、ヘマは延々と語り続ける。
(見苦しい……か)
ヘマは相手の話を聞くのが苦手だ。
なにせ、幼い頃からたった一人の家で、ずっと独り言を言って過ごしてきたのだ。返事なんて待っていても誰も返してくれない。だから、自分で言って自分で返事をする。それがヘマの「寂しさ」を紛らわせる為の唯一の手段だった。
いってきます!
(いってらっしゃい)
気を付けてくるねー!
(気を付けてね)
心配しないでー!
(早く帰って来るのよ)
ヘマはいつも“誰か”に言って貰いたい言葉を想定して言葉を口にしている。それが分かっているからこそ、聞こえないと分かっていても、ヒスイはヘマに言ってやっているのだ。
(いってらっしゃい。気を付けて行ってこい。あんまり遅くなるなよ)
ただ、ヒスイにはサンゴの気持ちも痛い程理解できた。
(見苦しい、か)
十六歳と言えば思春期真っ只中だ。きっとサンゴは、変わり者と呼ばれるヘマと共に旅に出て、自分まで同じように見られるのが嫌なのだろう。
そんなの、サンゴに尋ねずとも分かる事だ。なにせ、ヒスイ自身も幼馴染に対して思っていた事だから。
ーーーーーおい! みっともねぇ真似すんな! 俺まで一緒に見られるだろうが! 少し離れて歩けよ!
ーーーーーご、ごめん。ヒスイ。
どこかボンヤリしていた幼馴染。そのせいで少しテンポも反応も他人とはズレていた。昔はそんな事欠片も思っちゃいなかったのに、成長するにつれて妙にそんな幼馴染に苛立ち、恥ずかしく思ってしまい、そして最後には言ってしまった。
——-お前なんかもういらねぇよ。出て行け。
(その結果が、アレだ)
ヒスイが魔王によって石化の呪いを受けた時、ヒスイの為にその場に留まる者は誰一人居なかった。
ヒスイは石になった後に、何度も何度も思った。思ってしまった。きっと幼馴染のアイツなら、逃げたりしなかっただろう。どうにかしてヒスイの石化を解こうと必死になってくれただろう、と。
——–待ってて、ヒスイ! 絶対に回復してみせるから!
そんなありもしない場面を想像する。想像する厚かましい自分に何度も吐き気を覚えた。
(もう救いようがねぇな)
だから、サンゴの気持ちも分かる。しかし、同情はしない。出来っこない。
(サンゴ、お前は恵まれ過ぎて気付けていないだけだ。このままじゃ、いつか俺みたいに後悔する事になるぞ)
ヒスイはこの六年間ずっと“ヘマ”と共に過ごして来た。
「あ、でもイシ君? オレはイシ君も大好きだよ。だって家族だもん!」
(家族か……)
毎日地面の泥に額を付け、街道脇の石ころ同然の扱いを受けてきたヒスイにとって、ヘマは初めて自分を人間扱いしてくれた相手だ。それに、十歳から今に至るまで、ずっとその成長を見守ってきた。
今のヒスイにとって、ヘマだけが世界の全てだった。
「イシ君……」
すると、それまで落ち込んだように淡々と語っていたヘマの様子が静かに変化した。
「っはぁ、イシ君。ほんとに、サンゴそっくりだね。かっこいいなぁ」
(別に似てねぇよ)
ヘマはヒスイの頰を両手で優しく挟むと、そのままいつものように口付けをした。ただ、それは幼い頃にしていたような“シンアイのキス”とは随分と様子が違っている。ヘマはしばらくキスを続けた後、自身の腕をヒスイの首に回す。そして、まるで恋人に甘えるように頰ずりをした。
「もうすぐ、身長も同じくらいだもんね。イシ君。エライよ。素敵だよ」
(アイツに抜かれるなんて死んでも御免だ)
ちゅっ、ちゅっ。と音を立てながら、ヘマはヒスイに口付けを繰り返す。その間、ヘマはヒスイの掌に自分の掌を重ねたり、後ろ髪の部分を撫でてあげたりした。まるで、ヒスイがサンゴであるかのように。
しかも、ヘマの行為はキスだけに留まらなかった。
「っはぁ、あのね。イシ君。サンゴは、魔王を倒してお姫さまと結婚したいんだって。なんでだろうね? んっ」
ヘマは自身の固くなった下半身をヒスイの固い体に擦り付けた。頬は上気し、目は潤んでいる。
いつの頃からだろう。ヘマはヒスイに自身の欲求をぶつけるようになった。性欲という肉欲を孕んだ欲求を。
ヘマは幼い頃からサンゴが好きだった。大好きだった。愛していた。
「あった、こともない人と、けっこんしたいなんて、へんだよ。なんで? オレは、ずっといっしょに居たのに。なんで、オレじゃダメなんだろうね」
(ヘマ、お前はバカだ。早くあんなヤツ見捨てろ。アイツはお前が傍に居る限り気付けない。気付こうともしない……俺と同じだ)
「っはぁ、っは」
そのうち、ヒスイの体にこすりつけるだけでは刺激が足りなくなったのか、ヘマは固くなった自身を取りだして上下に扱き始めた。その間も、ヒスイへのキスは止めない。舌を使ってヒスイの唇をソッと撫でる。
(……ヘマ、お前は本当にバカだ)
ヒスイは気付いていた。ヘマがサンゴに対し幼馴染以上の感情を抱いている事に。ずっと一緒に居たのだ。気付くなという方が無理な話である。
それに、ヘマは最初から言っていた。
『よく見て! それに顔がサンゴにも似てる気がする!』
『サンゴ。でも、イシ君は……』
ヒスイはサンゴに似ていた。それは成長するにつれ顕著だった。
同じ勇者の血を引く者同士だ。直接の血筋でなくとも、その体には同じ血が流れている。似ていて当然だ。
だからヘマはヒスイを拾ってきた。体を洗って、優しく触れた。抱きしめて家族にした。サンゴがヒスイを剣で傷付けようとした時も必死で止めた。
これまでのヒスイにしてきた全ては、サンゴの為だ。ヘマが家族になりたかった相手は、サンゴだ。
「んっ、っはぁ。イシ君。ごめんね。ごめん。っふ」
(いい。好きにしろ。俺はお前が拾って来たんだ。だから、泣かなくていい)
「うぅえぇえっ。ぎだないね。おれ、ぎだないねぇっ。いじっ君」
しかし、どんな事があってもヘマはヒスイを“サンゴ”とは呼ばなかった。どんなに寂しくても、どんなに行為に没頭しようとも、どんなにサンゴが恋しくとも。
ヘマの中で、ヒスイはいつだって“イシ君”だった。
「イシ君。キミはオレのかぞくだよ。え、いやだって? いやでもがまんしてよ。おねがいだよ、そばにいて。オレにはキミしかいないんだ」
(嫌じゃねぇよ。お前が死ぬまで傍に居る。俺にもお前しか居ねぇよ)
ヒスイはヘマの傍に居る事しか出来ない。泣いていても腕を回してはやれないし、キスに応えて舌を絡ませてやる事も出来ない。もちろん、優しく声をかけてやる事も。
「……おねがいだよ。へんじしてよ。イシ君」
(頼む。俺の声を聞いてくれよ。ヘマ)
なにせ、ヒスイは石なのだから。