9:青年ヘマは躊躇いなく差し出した。

 

 

 ランプの光がユラリと揺れた。

 

 

 今日もヘマは、今にも崩れそうな家でブツブツと魔術書へと向き合っていた。

 

「これ、これさえあれば……」

 

部屋の中は真夜中という事もあり、酷く薄暗い。夜空には満月が悠然と浮かんでいる為、カーテンを開ければ月明かりが差し込むであろう。

美しい夜だ。しかし、埃まみれのカーテンは、もう何日も開かれていなかった。

 

その部屋の暗さは、まるでこの部屋の主をそのまま表したような鬱屈とした空間に成り果てている。

 

「あと、すこし……」

 

子供だったヘマも、今や二十歳になった。もう全てが大人だ。今のヘマは“あの頃”とはうってかわってしまった。何が変わったのか。一番分かりやすい変化で言えば、ヘマはあまり笑わなくなった。

 

一人で言葉を発して、それに自分で返事をする。そして何がおかしいワケでもないのに『あはは』と高らかに笑っていた頃のヘマは、もうどこにも居ないのだ。

今のヘマは、ただただ静かに魔術書へと向かう。

 

毎日、それだけの日々だった。

 

「……オレが、もっともっと強い回復魔法を使えれば、きっとサンゴも」

 

そして時折、そんな事を口にしては、すぐ傍に立っている物言わぬ石像を見つめる。その時だけは、昔のように少しだけ柔らかい表情を浮かべて話しかけるのだ。

 

「そう思うよね? イシ君?」

 

返事はない。当たり前だ。ヘマが話しかけている相手は石なのだから。

 

「オレがもっと凄い回復魔法を覚えれば、サンゴだって……オレを必要としてくれる。きっとそう。だから、オレはもっと頑張るよ」

 

ヘマは幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた“イシ君”と名付けた石像に、ソッと腕を伸ばした。冷たい。固い。返事もない。しかし、それでもヘマにとって“イシ君”は家族だ。

 

「……この魔術書、もう少しで読み解ける。これさえ覚えれば、絶対にサンゴだって」

 

固い石像に触れた手を引っ込め、再び魔術書に向かった。

ヘマは、勇者の血を引く幼馴染と「魔王討伐」の為に十八歳で家を出た。そこから二年間、ヘマはずっとずっとサンゴと共に過ごした。それは、ヘマにとっては夢のような時間だった。

そりゃあそうだ。大好きなサンゴとずっと一緒に居る事が出来るのだから。

 

しかし、旅に出て二年が経った頃の事だ。パーティメンバーも揃い、もう少しで魔王城への道筋も見えてくるという所で、ヘマはサンゴから呼び出された。

 

『ヘマ、ちょっと来てくれ』

『サンゴ! 怪我はない? 回復するよ!』

『いいや、違う。大切な話だ』

『……どうしたの?』

 

どこか怖い顔で自分を呼び出すサンゴの姿に、ヘマは不安になった。サンゴの後ろには、そんなヘマを冷めた目で見つめるパーティメンバーの姿もあった。

 

嫌な予感がした。

 

『ヘマ、もうお前にこのパーティのヒーラーは任せられない』

『え? 待って、サンゴ。でも、ヒーラーが居なきゃ……』

『新しいヒーラーには話を付けてある。ヘマ、分かってるよな? 魔王討伐はチーム戦だ』

『で、でも。俺、新しい魔法を覚えられそうなんだ。今までよりもっと凄くて』

『ヘマ、黙れ』

『っ』

 

サンゴの冷たい声に、ヘマは一瞬で察する事が出来た。サンゴは本気だ。幼い頃からずっと一緒に居たのだ。そのくらい分かる。

 

『皆、お前がヒーラーだと安心出来ないんだよ。分かれよ、ヘマ。いや、ヘマタイト。お前は、パーティの要どころか、“ほころび”だ。もう村に帰れ』

 

その言葉に、ヘマは『嫌だ!』と叫びそうになる自分を必死に抑え込んだ。とっさに口元を両手で抑え込みそうになる。でも、それもダメだ。だってそれは以前にサンゴから“見苦しい”と怒られてしまったから。

 

心臓がイヤな音を立てる。ヘマは深く息を吸い込んだ。

 

『サンゴ。もう、オレは……いらない?』

 

尋ねたヘマに、サンゴはハッキリと言い放った。

 

——–あぁ。お前はもういらない。

 

 

        〇

 

 

『ただいま』

 

こうして、ヘマはサンゴの勇者パーティから離脱し家に帰って来た。

他にヘマに帰る場所は無かったし、この家にはヘマの唯一の心残りがあったからだ。

 

『ただいま。イシ君。かえってきたよ』

 

幼い頃からずっと一緒だった“イシ君”という名の石像。ソレは本当にただの石像で、他人から見たら石像に話しかけるヘマは頭がおかしいヤツに見える事だろう。

 

でも、ヘマにとっては違う。イシはヘマにとって大切な“家族”だ。

寂しい時も、怖い夢を見た夜も、疾風で家がガタガタと揺れて不安だった日も、ずっとイシだけは傍に居てくれた。

 

イシは石だから動けない。だからそこに“在った”だけ。でも、ヘマにとってはそれだけで十分凄い事だったのだ。なにせ、ヘマはそれまでずっとこの家で一人ぼっちだったのだから。

 

「……ぁ」

 

ヘマの真剣な眼差しが魔術書を駆け抜ける。そして、徐々にその瞳は大きく見開かれていった。

 

「っ! 読み解けた!」

 

ずっと静かだった家に、久々とも言えるヘマの明るい声が響いた。ヘマはそれまで視線を落としていた魔術書から顔を上げると、勢いよく椅子から立ち上がった。そして、傍にあったイシの体へと抱き着く。やはり、その体は固くて冷たかった。

 

「イシ君! 解けたよ! この最終奥義の書! 読めた! これで、どんな状態異常も、どんなに酷い傷も、どんなに弱っていても……死にかけていけも……回復する事が出来る!」

 

これさえ習得すれば、きっとサンゴだって自分を認めてくれる。だって、こんな回復魔法を使える人間は他には居ない。

そう、ヘマには確信があった。なにせ、この回復魔法には大きな代償を必要としたのだ。

 

「この回復魔法は、寿命の半分を差し出せばいいんだって! イシ君!」

 

ギュッとヘマはイシに抱き着いたまま、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。その拍子にボロボロの家が揺れ、天井からはパラパラと木屑が落ちてくる。けれど、嬉しさの余り大興奮するヘマには、そんな事はどうでも良かった。

 

「こんなの絶対に誰も使いっこないよ! オレだけ!」

 

普通の人間は寿命の半分など、差し出したりはしない。けれど、ヘマは違った。

 

「寿命の半分かぁ。でも、全部じゃないから大丈夫だね! うんうん? イシ君もそう思う?そうだよね! やっぱりイシ君は頭がいいよ!」

 

ヘマは抱き着いたイシの顔を見て微笑んだ。心なしか、イシの表情も嬉しそうに見えた気がした。