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「私は愛する諸君らと、そして愛しいたった一人の人間の為に……ありったけの勇気を持つ事をここに誓う。
……神の加護が我々とともにあらんことを」
金弥の背中を、俺は真後ろからジッと見つめていた。一時の静寂が周囲を包み込む。そんな中、台本を片手に微動だにしない逞しい背中を前に、俺は遠い夏の日の記憶を呼び起こしていた。
あれ、ここはどこだっけ?
——–サトシー。まだ持ってるー?
——–持ってるー!
そう言って、俺は自転車の荷台から手を離した。
手を放して、どうしたんだっけ。金弥の背中が遠く離れていくのを、俺はただ見つめてたのか。いいや、違う。
——–キン、一人で乗れてるじゃん!
俺は金弥の隣を並んで走ったんだ。金弥は一人で自転車に乗れるようになって、俺はそんな金弥の隣を、ずっと走り続けた。それは、今も同じだ。
そう思った瞬間、スピーカーを通してスタジオ内に音響監督の声が響き渡った。
『はい。イーサ王のスピーチ、全て頂きました。とても素晴らしかったです。これで【セブンスナイト4】全ての台詞の収録が終了しました』
音響監督からの独特の色調で奏でられた声の余韻が、スタジオ内に染みわたる。シンと静まり返るスタジオ。同時に、それまでピクリとも動かなかった金弥の体が僅かに動いた。微かに頭が傾き、上部に設置されているスピーカーへと視線が向けられている。
その仕草は、まるで空でも見ているような……あの日の“アイツ”みたいな後ろ姿だった。
『皆さんのお陰でキャラクター達に“声”という命を宿す事が出来ました。本当に、お疲れ様でした』
あぁ、そうか。終わったんだ。
【セブンスナイト4】の世界を形作る、その一旦に携わる役目が。俺が、この作品に出来る事は、もう全てやり切った。
まさにあと一息で、周囲から歓声が沸き起こるかどうかという瀬戸際。俺はゆっくりと息を吐いた。何だか顔が熱い。あぁ、鼻の奥までツンとしてきた。おかげで、口元に触れていた手にも力が籠る。そのせいで、肩に妙な力が入ってしまっていた。
これは、ヤバイ。
そう、俺の中の“何か”が弾けた時、収録中を示す赤いランプが消灯し――。
「サトシ!俺、上手に出来てた!?」
シンとしていたスタジオ内に、金弥の一切空気を読まない声が響き渡った。しかし、俺はと言えば金弥に返事をする事が出来なかった。視界にすら、金弥を捉える事が出来ない。今、俺の視界が映し出すのは、自身の足元のみ。
ヤバイ、ヤバイ。
「おいおい、金弥。お前、監督のオッケーより聡志からの評価の方が大事なのか?」
「山吹君は、本当に仲本君が好きだな」
「ほんとねぇ」
同時に、周囲から金弥に対して歓声を含んだ笑い声が漏れた。
そりゃあそうだ。監督からは既に「いただきました」を貰っている。俺からの評価なんてどうでも良いだろうに。それなのに、金弥は俺と収録か被る日は、いつもこうやって俺に「どうだった?」なんて聞いてくるんだから。最初は恥ずかしくて仕方がなかった。
「……サトシ?」
金弥の声が重ねて俺を呼ぶ。
なんだよ、何回も呼ぶなよ。聞こえてるよ。そう言いたいのに、欠片も声が出せない。いや、むしろ金弥の顔すらまともに見れない。なにせ、今の俺ときたら金弥のスピーチのせいで、完全に“ヤバイ状態”になってしまっていたのだ。
「仲本君、どうした?具合でも悪いのか?」
隣から、品が良い知的な甘い声が俺の名前を心配そうに呼ぶ。その声を皮切りに次々と周囲から「仲本?」「さとし君?」と俺の名前が呼ばれ始めた。ソッと俺の肩に触れてきた誰かの手の温もりが、更に俺に対して追い打ちをかける。
ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイ。
「サトシ?もしかして……泣いてるの?」
金弥の……イーサの声が俺の元に降って来た。その声があまりにも、イーサのまんま過ぎて。
——–サトシ、イーサは上手に出来たか。
もう、ダメだった。
「~~っぅう゛ぅ!ぅあ゛ぁぁ」
「サトシっ!?」
その瞬間、俺は必死に堪えていた声が口の隙間から漏れ出てくるのを止められなかった。せっかくバレないように、隠していたのに。でも、仕方ないのかもしれない。
俺ときたら、感極まり過ぎて左手で鼻と口を押さえ、ボロボロと涙を流してしまっていた。それを隠そうと、台本で顔を覆い隠してはいるものの、隠し通すにはどうにも無理があった。
「おいおい、どうした?仲本君!」
「ハンカチ、ハンカチ」
「あらら」
恥ずかしい。周囲の喧騒を後目に、俺は台本から半分顔を出しながら、それでも必死に金弥へと伝えた。
“あの時”、俺が直接伝える事の出来なかった言葉を。
「っっぁ、あ……いーさぁっ。じょ、じょ……じょうずだっだよ」
「……サトシ」
「じょうずぅぅっ、がっご、よがっだ……」
「ははっ!」
格好良さやスマートさなんてあったモンじゃなかったが、これが今の俺にとっての精一杯だ。肩を震わせながら必死に伝える俺の体を、次の瞬間、凄まじい衝撃が襲った。
「サトシに褒められたー!」
「ぐふっ」
子供のような温かい体温に、体ごと包み込まれる感覚。金弥の着ているパーカーからは、太陽の匂いがした。そのせいで、俺は必死に止めようと努めていた筈の涙の奔流に、更に勢いがついてしまうのを止められなかった。