俺の後頭部に、冗談じゃ済まされないレベルの鈍痛が走った。
プリントに集中していたせいで俺は兄貴が他人の机を物色するのを止めていたのに気がつかなかった。慌てて振り返ると、そこには、いつもの兄貴の美しいと言われる顔があった。
心なしか不機嫌そうな表情をしているのは、俺の勘違いではないだろう。
兄貴は機嫌が悪くなると鼻がヒクヒク動く。
家族だけが知っている、兄貴自身も知らない癖だ。
というか、さっきまでクソな行為に勤しんでいた兄貴がどうしてここに居る。
俺はなんとなく次に言われる言葉を予想しながら、更に拳を握りしめる兄貴を見ながら「ほんとにクソだな」と呟いた。
そしたら、今度は胸倉を掴まれた俺は、いつの間にか空中に浮いていた。
元来、体のでかかった兄貴。
現在、中2で150センチという小柄としか言えない俺とは違い、兄の身長は既に175センチだ。
俺の胸倉を掴みながら、俺を持ち上げる事など兄貴にはたやすいのだろう。
そんな兄に胸倉を掴まれ、フワフワと浮くのは俺の足と意識のどちらなのだろうか。
「俺の事クソクソ言うのはお前位だ、クソ弟」
「兄ちゃんは、クソだ。クソ、野郎だ。兄ちゃんなんか、嫌いだ!」
「ぶはっ、お前マジで弟じゃなかったらぶっ殺すわー。俺がマジで家族に優しいヤツで良かったじゃん」
何を言っているんだ兄貴は。
俺はお前の本当の弟じゃないよ、とはさすがに言わない。
言えない。
それに、家族に優しい奴は、弟のポケットから財布を抜き取ろうとなんてしないだろう。
まったく、コイツのクソさ加減は半端じゃねぇな。俺は腹の中に燻ぶるイライラとした気持ちを募らせながら、口を尖らせる。
俺は片手で俺の胸倉をつかみ、もう片方の手で、無遠慮に俺の体をまさぐってくる兄に、とりあえずじたばたしてみた。
いや、だってくすぐったい。
下腹の方がゾワゾワする。
俺が兄の手つきに「ひぁっ」なんていう変な声が出た。その直後、マジで股間を蹴りあげられて俺は本気で泣いた。
いや、もう本当に勘弁してくれないだろうか。男同士なんだから、そこは少し手加減と言うものが必要だと思うのだが、どうだろう。
まぁ、そんな事をこのクソ兄貴に言ったって仕方がない。
なにせ、クソ野郎なのだから、他人の痛みというのをこの兄貴はちっとも理解しようとも、想像しようともしないのだから。
そう、どこか冷静な頭の片隅とは裏腹に、俺の体は余りの痛さに俺は胸倉を掴まれながら咽び泣くしかなかった。
すると、いつの間にか俺の体を這っていた兄貴の手が離れた。
「なぁ、純。お前、財布とか持ってねえの?」
「っは、っは、はぁぁ……」
「おい、聞けって。純」
そう言って兄貴は掴んでいた俺の胸倉から手を離すと、必然的に空中を彷徨っていた俺の体は、乱暴に床に落とされた。
そして、痛みに蹲る俺に語りかけるように、自分もその場に座り込む。
俺はというと股間を中心に蹲り、全神経を痛みに耐えることに集中していた。
いや、これは大げさでもなんでもない。
本当に痛いのだ。
俺が「うー、うー」唸っていると、頭上から兄貴の笑い声と容赦ないゲンコツが頭に降り注がれた。
「った!」
あぁ、ちょっと股間の痛みが和らいだ。
頭の方が痛すぎてな。
俺はズキズキと痛む頭に、これでもかという程口を尖らせてやる。
いったいこれは何の仕打ちだ。
何をどうしたら、修学旅行に行けなかったものの真面目に自習に勤しむ俺が、このような目に合わなければならないのだ。そう思うと、俺の胸の中につかえていたモヤモヤが一気に爆発した。
「持ってるわけねぇだろーが!親から愛されて居ない俺をなめんな!この年頃の子供の収入源は親だぞ!?」
そう、半泣きで喚き散らす俺に、兄貴は一瞬目を見開くと、すぐにその顔は笑顔になった。
なぜ、ここで笑うのか俺には理解できない。どうせ、俺と自分を比較して優越感に浸っているに違いない。
そう思うと、痛みではなく虚しくて涙が出そうだ。
「ぶはっ!確かに確かに!ごめんね、純」
そう言いながら、ポンポンと俺の頭を軽く叩く兄貴。
そうやって、何の悪意もなく笑顔を見せると普通の人のようにも見えなくもない。
元はあのクソ両親の遺伝子を余すことなく受け継いでいるのだから、こんないかにもヤンキーみたいな格好をしなければ、もっと兄貴はかっこよくて綺麗なのだ。
「金髪、似合ってないよ」と昔、善意で教えてやったら、兄ちゃんは笑って俺に肘鉄を食らわせてきた。
だから、もう兄ちゃんの格好には何も言わないことにしたけれど、俺は黒髪で悪趣味なピアスを大量にしてない、昔の兄貴の方が好きだ。
「兄ちゃんなんか、嫌いだ」
俺の兄貴はクソだ。
クソ両親に存分に甘やかされて育ったから、こんなクソになり果てた。
しかも、俺が親から愛されていないのが、また兄貴の優越感を気持ちよくくすぐるらしく、更にクソに磨きがかかってしまった。
「兄ちゃん、USJって面白い?」
「……んー、どうだろうなぁ」
「兄ちゃん、去年行ったんだろ?」
「行ってねー。京都とかクソつまんなそーだったし」
「USJは大阪だけど」
「ばっか、知ってるっつーの。とりあえず、興味なかったから行かなかった」
「……マジか」
兄貴も、修学旅行には行かなかったらしい。そういえば、兄ちゃんから修学旅行の話しを去年は聞いたことがなかった。
兄弟そろって修学旅行不参加とか、学校でも初めてじゃないだろうか。
けれど、俺は何故だか、兄貴が修学旅行に行かなかったと聞いて、少しだけ。
本当に少しだけだが、修学旅行への未練が薄くなった気がした。
でも、やはり。
「俺、USJは行きたかった」
俺がボソリと呟くと、兄貴はしばらく黙って俺を見ていた。
その、俺を見る目がどんな目をしていたのか、この時俯いていた俺は知らない。
しかし、次の瞬間、俺はもう一度頭をポンポンと叩かれ上を見ると、兄貴は笑っていた。
こんな顔をする時の兄貴は、あまりクソじゃない時の兄貴だ。
「へー。じゃあ、行くか?」
「どうやって?」
「今から新幹線乗って」
「………行く」
俺が頷くと、兄ちゃんは俺の腕を掴んで立ち上がり、すぐに行動に出た。カツアゲをするのかと思いきや、兄貴は自分のポケットから財布を取り出すと、近くのATMに走った。
俺は、それが兄貴がお年玉を貯めて貯金したお金だと知っている。
そして、たくさんの万札を引き落とすと、そのまま駅へと向かった。
「純、ちょっと待ってろ」
俺の兄貴はクソだ。
クソもクソでどうしようもないクソだけど。
「ほら、純。お前おせぇよ。ほら、これ切符。落とすんじゃねぇぞ」
俺の事を本当の弟だと思ってくれていて、俺の事を本当の弟として扱う。
俺の本当の家族は、もうこの世には居ない。
「おら、純。お前USJ行ったら何に乗りたいか考えとけよ」
けど、このクソ兄貴の中だけでは、俺は本当の家族なのだ。
兄貴はクソだ。
クソだけど普段、友達の前ではクールを気取って、全く笑わない兄貴が、俺には普通に笑うのを見ると……
兄ちゃんの弟で良かったなぁと思う。
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その後、兄貴と俺は本当にUSJで遊んだ。
凄く、楽しかった。
でも、学校をさぼった俺は先生から怒られ、家に連絡され親からも怒られた。
でも、兄貴は不良のせいか先生からは、あんまり怒られなかった。
解せない。
母さんなんか「優ちゃんは本当に優しいお兄ちゃんね」なんて言って笑っていた。
解せない。
いろんな人に怒られて帰ってきた俺を見て、兄貴はそれはもう愉快とばかりに大爆笑していた。
解せない。
あぁ、もう本当に俺の兄貴は
クソ野郎だ。