第1話:平凡と掃除

 

 夜9時。

 ある市街の駅前、交差点、南側路地入って右側。
 

 そこに一つの小さな個人塾がある。
 生徒数36名。教師数8名。

 集団塾ではなく、2~3名の生徒を一人の教師が見るという半個別指導スタイル。
 

 各机は仕切りで区切られている為、周りのペースや様子に生徒が乱される事もない。
 そして、教師の殆どが地元大学に通う大学生で賄われており、塾の対象年齢は7歳から18歳までと幅広い。

 

 評判は上々。
 引っ込み思案な生徒も隣に年の近い先生が居てくれれば、口を開いてくれる。
 勉強よりも学校生活の悩み、恋愛の相談、親や友達に言いにくい事を、少し立場の上な、そして少し距離のある先生には話せる。

そんな個人経営の小さな塾に、俺は居る。

 

「おーい。事後ミーティングやるらしいから、洋もさっさとこーい」
「へーい、わかりましたー」

 

 俺はダラダラと喋っては残る生徒を全員見送り終えると、そのまま背伸びをして教室の中へと入っていった。
 中では既に事後ミーティングが始まっていて、俺は慌ててスリッパを履き塾長を囲むミーティングの輪の中へと駆け寄った。

 

 俺、本村 洋(ほんむら ひろし)は今年の春、めでたく志望の大学に入学を果たしたフレッシュ感漂う大学1年生だ。

 別に志望校と言っても俺の目指していた大学は、特段レベルが高いと言う訳でもない、可もなく不可もなくといった、どこにでもあるようなレベルの大学だった。
 故に、これと言って大した受験の苦労も知らずに、俺は現在、大学生と言う称号を手にし、悠々自適な一人暮らし生活を送っている。

 

 と、言いたいところではあるが現実はそう甘くない。

 

 前半の“特に受験の苦労も知らずに大学生の称号を得た”までは確かに正しい。
 しかし、大学生如きで一人暮らしをするにあたり“悠々自適”とは程遠い生活を、俺は強いられている。

 俺は、今現在この個人塾のアルバイトで、か細い親からの仕送りで成り立つ貧困生活をどうにか打開するべく、いそいそと労働に勤しんでいるのである。

 

 塾のバイトと言うと、それなりに時給もいいし聞こえもいいだろう。そんな不純な理由で俺は塾でのバイトを始めた。

 しかし、俺の見通しはかなり甘かったと、今では冷静に判断できる。

 

 そう、確かに時給は高い。
 しかし、問題点を上げるなら2つだ。

 

 まず労働時間が短い。
 塾とは本来、学校の授業の補助という位置づけだ。まぁ、稀に塾がメインで学校が補助という考えの生徒も居るようだが。うちの塾は学校の予習と復習、テスト対策が主だ。

 生徒だって学校が終わって、そして塾へ来る。
 そうなれば、開始時間もそれなりに遅くなるし、子供相手の商売なのだから居酒屋のように日付をまたいだりしない。

 

 うちの塾では一つの授業は大学と同じ90分で組んであり、平日はそれを2コマこなすだけで終わる。
 故に平日労働時間、最高3時間。
 そうなれば、いくら時給がよくても、5時間、6時間と一気にバイトに時間を割けるコンビニや居酒屋などで働いているヤツの方が月の給料は高い。

 

 次にサービス労働的なものが多い。
 塾と言ってしまうと、必ず予習が必要なのだ。
 だから、俺は高校を卒業した今でも、受験生並みの勉強に追われている。いや、確かに受験生に学問を教えるのだから、仕方のない事だ。
 

 予習は自宅でやったり、塾で残ってやったり。どちらにしても、もちろんそれに時給なんて発生しない。
 そんな予習時間を労働時間として換算すると、かなり割に合わないのだ。

 

 加えて、教鞭以外の労働時間が意外と長い事もこの塾のバイトのネックの一つだ。
 授業の最初と最後のミーティング、それに事前準備の時間。
 そして、そんな労働時間外の拘束時間の中で最も長い時間を食わされるのが。

 

「では先生方。今日もお世話になった教室を、皆さんで綺麗にしましょう」

 

 掃除の時間だ。
 俺は塾長の言葉を聞きながら、いそいそと教室中の掃除を始めたバイト仲間達を横目に小さく溜息をついた。
 何だってこんな事まで、バイトの俺らがしなきゃならないのだろ。

 

 あ、いや、バイトだからしないといけないのか。初めてバイトをする俺にはよくわからない。

 ただ、教室は1階と2階と二つのフロアに分かれている為、きちんと掃除を行おうとすると結構な時間を食う。
 ただでさえ終了時間が遅い最後のシフトの後に、こんな時間外労働。

 本気でごめんだ。

 

「(辞めたい………)」

 

 そう一瞬自分の頭をかすめた考えに俺は、勢いよく頭を振った。
 

 ダメだ、ダメだ。

 現在4月末。

 もう固定の生徒も付いて、もうすぐ中間テストの時期に入る。
 それに固定の生徒の中には受験生も多く居るのだ。こんな中途半端で投げ出すわけにはいかない。

 

 つーか、生徒に「俺の受験が終わるまで先生ずっと俺の担当だからな!」って言われただろうが、俺。

 そう、不満ばかり漏らしたが、俺はこの職場を嫌いではない。
 むしろ好きだ。
 職場自体には何の不満もない。
 生徒は可愛いし、他の先生も皆良い人ばかりだ。ただ、稼ぐ効率が悪いだけで。

 

 あぁ、もう。本当に質が悪い。

 全てが嫌いになれたなら、俺もスパッと辞める事ができるのに。
 俺は机の上のゴミを払って掃除機をかけながら、また小さくため息をついた。

 今日も帰ったら深夜まで予習して、明日は朝一でゼミと講義か。ダルい。

 

 

本村 洋
大学入学したばかりの4月、既に5月病の兆し。