17:じゃあな、くつした。また来世。

 

 

◇◆◇

 

 

「っはぁ、っはぁ、っはぁ」

 

 シーザーの実家を後にして、俺はともかく走った。

 あそこにはたくさんの狼が居た。短毛種、長毛種。大型、中型。毛色も様々。でも、あの中には当たり前だが「くつした」は居なかった。なんだか、少し離れていただけで長い事会っていなかったような気分になる。

 

 早く、家に帰りたかった。

 

「っはぁ、っはぁ……ちゃんと、くつしたと……話さないと」

 

 夕日が沈みかける時間。

 家のある森の中に入ると、既に夜のような薄暗さだった。

 せっかく気持ちを明確に伝えられるための〝言葉〟があるのに。何を俺は面倒がっていたのだろう。これだから人間関係をサボっていた怠け者はいけない。

 

「っふーー」

 

 やっと家に着いた。

 今日は喧嘩をしたせいで、午前中の一回しか外に連れ出してやっていない。少し遅いが、今から一緒にフリスビーでもして思い切り遊んで仲直りをしないと。

 話はそれからだ。

 

「くつした、ただいま」

「……イアン?」

 

 家に入った瞬間、いつものくつしたの、幼く頼りない声が聞こえた。部屋が暗いせいで、真っ暗な中に二つギラリとした目がこちらを見ているのが分かる。

 あぁ、やっぱり一日中俺が居なくて不安にさせたようだ。

 

「遅くなってごめん。散歩に行こうか?」

「……イアン、なんで」

 

俺が家の中に一歩踏み出した瞬間、いつものくつしたの甘えた声からスッと感情が消えた。

 

「くつした?」

「なんで」

 

 それは低い低い。まるで、自身の縄張りを侵された、狼の唸り声のような怒りに満ちた声だった。

 

「っぐぅっ!」

 

 直後、視界が反転した。同時に肩に鋭い痛みが走る。

 あれ、なんだ。コレ。

 

「っぁ……っはぁ、っぁ」

 

 混乱の中、必死に呼吸を整えていると、むせかえるような血の匂いが鼻孔を擽った。

 あれ、コレは誰の血の匂いだ。くつした?いや、違う。コレは――。

 

「おれ、の……血?」

「グルルルッ!」

「あ、ぁ……くつ、した?」

 

 どうにか口にした名前。しかし相手は一切反応しない。

 その間、俺は巨大な狼に肩を噛みつかれ、家の中に引きずりこまれていた。鋭い牙がグニュリと俺の肌を貫通する。その度に、血の匂いが濃くなるのが分かった。もう、痛いのか熱いのか。俺にはその違いが全く分からない。

 

「な、んで」

 

 そして、今。俺の目の前には、毛を逆立てた白銀の狼が赤い目をギラつかせ、どこまでも獰猛な目で俺を見下ろしている。

 コレは、一体何だ?コレは、本当にくつしたか?

 

「どうして、他の狼の匂いがする?どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてっ!!!」

「っぐ、っぁぁあ゛っ!」

 

 しかし、混乱する中で過る疑問を深く考える暇はなかった。

 噛みつかれていた右肩だけでなく、巨大な爪が今度は俺の腹に容赦なく立てられた。痛みと熱さで思考が乱れる。

 爪、切ってやったばっかりだったのにな。なんて、現実逃避は更に腹に食い込んでくる鋭利な爪にかき消された。

 

「あ゛ぁぁっ!」

「うるさいっ!!!うるさいうるさいっ!」

「っはぁ、っは……っぅ゛、え」

 

 どうにか必死に呼吸をすれば、まるでこびりついて離れない血の匂いが、吐き気を引き起こしてきた。悲鳴にも似た咆哮が、俺の薄れいく意識を引っ張り上げる。

 

「イアンはくつしたを捨てるんだ!大会に優勝したら、イアンが喜ぶからしてるのに!イアンが嬉しいとくつしたも嬉しいから頑張ってるのに!イアンが教えたのに!くつしたに、イアンが大好きって!イアンがおしえたのに!いあんが!いあんがっ!」

「……っぁ、っぅ」

 

 あぁ、コイツは間違いない。くつしただ。

 ジャーマンシェパードのような、豊かな茶色の毛並みではなく。短毛種でもなく。後ろ足だけ、くつしたを履いたみたいな白い毛色でもなく。

 

「っはぁ……ぁー、くつ、じだ」

 

 血の匂いがする。腹にも、肩にも、鋭い爪が深々と刺さっているのを感じる。でも、もう痛みはなかった。

 

「いあんがおしえた。いあんがぜんぶ、くつしたにおしえたのに。くつしたは、なにもわからない。くつしたはいあんがいないと……それなのに、いあんはくつしたじゃないおおかみに、こんどは、だいすきを、おしえる」

 

 俺の目の前には、窓の外から漏れ入る月明かりに照らされた銀箔の長い毛をなびかせる、巨大な神獣様の姿。

 そうか、これがくつしたの本当の姿か。今のくつしたになら「人間ふぜい」と言われても、お似合いかもしれない。でも、くつしたは俺の事を「イアン」と悲しい声で呼ぶ。

 

「くづ、した」

「……いぁん、ぃあん」

 

 フスフスと真っ赤な目をキラリと光らせながら、長い鼻を俺におしつけてくる。良かった。少し落ち着いたようだ。それに、俺もまだ声が出せる。でも、それも時間の問題だ。

 

「くつした、聞く……んだ」

「いあん?」

 

 犬の躾けの基本は、名前を呼んでアイコンタクトを取る事。

 前回の最期はくつしたの名前を呼ぶのすら、難しかった。あの時、最後に一言「くつした、危ないから道路に出たらいけない」と言えたら、それだけでも安心出来たのに。あぁ、くつした。事故に合ってなきゃいいけれど。

 

 あれ、今ってなんだっけ。俺、今どこにいる?

 

「くづじた……ここから、にげろ」

「え」

 

 ヤバイ。さっきまで腹も肩も熱かったのに、もう体中が寒くて仕方がない。コレ、知ってる。前もそうだった。こうなったら、もうあまり長くは喋っていられない。

 早く、早く教えてやらないと。くつしたは、この世界の事を、人間の本質を何も分かっていないのだから。

 

 俺は、くつしたに〝楽しい〟と〝大好き〟しか教えてやれなかった。

 

「この森を、越えた先に、大きな川が、ある……そこを、こえると、山があるから。そこを、こえること」

「いあん?なにをいってる?」

「そこを、こえると白い、雪っていうのが、ある所につくから。そこで、人間に、見つからないように、いきろ」

 

 真っ赤な瞳が大きく見開かれる。急にこんな事を言われても困るだろう。でも、もうこうするしかない。

 俺は、もう長くない。

 

「にん、げんを見たら、全員……敵だと思え。ぜんいん、わるいやつだ」

「なんで、なんでそんなこと言う?なんで?」

「にんげんが、こうげき、して……きたら、ころしてもいい。ころしてでも、いきのこれ」

 

 人間を殺した使い魔は、問答無用で〝はぐれ〟認定される。そんな事になったら、駆除対象として王都からお触れが出されてしまう。そして、必ず殺処分されるのだ。

 

「ぃあんは、人間なのに?どうして悪いなんていう?」

「おれも、わるいやつだ」

「ちがう。いあんはわるくない」

 

 いいや、俺も悪いヤツだ。だって、俺も人間だ。

 自分達のエゴで野生動物を飼い慣らし、恐怖や愛で縛り、ひとたび手を噛めば掌を返したように危険だ獰猛だと騒ぎ立て殺しにかかる。

 なんて、人間は自分勝手でどうしようもない生き物なんだろう。

 

「くつした。おまえは……おおかみだ」

「いあん、いあん。……なんで。血が出ている。なんで?あれ?これは、くつしたがした?くつしたがした。……くつしたのきばが、くつしたのつめが。いあんを!」

「……くつ、した」

 

 飼い犬の振る舞いは、飼い主の接し方の集大成だ。

 だから、くつしたは何も悪くない。

 

「いいこ、いいこ」

「良い子じゃないっ!くつしたは良い子じゃないっ!」

 

 体の上から、重さが引いた気がした。何か温かいモノが傷口に触れるのを感じる。あぁ、これはくつしたの舌だろうか。もう、よく分からない。

 でも、この頃になると、俺の五感は殆ど仕事をしていなかった。あの時と同じ。視界が暗くなる。もう、寒くもない。

 

「くつした、いけ」

「っ!」

 

 はぐれは全て人間のせいで生まれる可哀想な元使い魔だ。前世でも、今世でも。やっぱり俺に生き物を飼う資格なんてなかった。

 最期まで面倒みきれないなら、飼うべきではない。

 

「イアン、イアンっ!」

「くつした」

 

 また、会おう。

 今度会う時は、次こそ俺も狼か犬がいい。そうしたら、今度はくつしたと本当の家族に……番にだってなれるかもしれない。でも、出来れば〝今〟そうなりたかった。

 行け、くつした。なんて、本当はそんな事言いたくなかった。できれば、いつもみたいに言ってやりたかった。

 

「お、いで。くつし……た」

「イアン!」

 

 途切れていく意識の中、俺の五感を最後に震わせたのは、くつしたの遠吠えでも何でもなく、フワリと体が宙に浮くような、なんだか不思議な感覚だけだった。