19:あの日、

 

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——–くつした、また会おう。

 

 そう言って、俺がくつしたとの別れを決意したあの日。

 俺はどう考えても死ぬ筈だった。でも、結果として死ぬ事はなかった。気が付くと、俺はベッドの上に横になっていて、普通に目が覚めてしまった。

 

『あれ?俺は、いったい……ん?』

 

 ただ、普段と違ったのは、いつもはゲージの中で眠っているはずのくつしたが、俺の布団の中で一緒に寝ていた事だ。もちろん、最後に見た白銀の巨大狼ではなく、いつもの豊かな茶色の毛並みのくつしたの姿で。

 

『……あれ、くつした。なんで、ここに』

『くぅ?』

『っい゛、っつぅ!』

 

 ただ、くつしたに襲われて死にかけた事実が無かったワケではないようで。起き上がった瞬間、肩と腹に突っ張るような痛みを感じ、俺は慌ててベッドから降りた。すぐに鏡の前に立ってみると、肩と腹に凄まじい傷跡を残した自分自身の姿が写り込んだ。

 

『……夢じゃ、なかったのか』

 

 ただ、傷痕はハッキリと残っているものの、ソレは既に完全に塞がっていた。まるで、誰かに治療でもされた後のように。

 

『くつした、これは……お前が治してくれたのか』

『わっふ』

 

 呆気にとられつつ、俺はトテトテと足音を鳴らしながら俺に付いて来たくつしたに尋ねる。そこには尻尾を振りながら、嬉しそうに俺を見上げてくる、いつものくつしたの姿。でも、それなのに一つの大きな違和感が俺を襲った。

 

『くつした?』

『わふっ!』

『おい、くつした。なんだよ、喋れよ』

『くぅ?』

 

 くつしたが、全くお喋りをしなくなった。

 まるで、もともとお喋りなんてしていなかったかのように。どんなに話しかけても、どんなに目を見ても。

 

 あの夜を境に、くつしたが俺の事を「イアン」と嬉しそうに呼んでくれる事はなかった。

 

『……くつした。お前、怒ったのか?』

『わふ?』

『俺が面倒って言ったから?狼なのに喋るな、なんて。あんなのウソに決まってるだろ。なぁ、またお喋りしてくれよ』

 

 本当はゲージの中で寝かさないといけないのに、なんだか寂しくて寂しくて。くつしたが喋らなくなってから、俺はくつしたと一緒にベッドで眠るようになった。テイマー失格だ。でも、我慢できなかった。

 

『くつした』

『ぐぅ』

 

 俺はくつしたの温かい体に抱き着きながら、くつしたの真っ黒な瞳を見つめ、話しかける。そうすると、何も悲しい事なんてないのに泣きそうになるから不思議だ。すると、どうだ。

 

『……』

『……っはは。もう、寝る前におやつはやらねぇよ』

 

 微かに口の隙間から舌を出してとぼけた顔をみせてくるくつしたに、泣きそうになるのを何度も笑わせてもらった。くつしただって、寝る前におやつを貰えない事くらい百も承知のはずだ。

 

『くつした。今日で俺とはお別れなんだぞ。ちゃんと分かってんのか』

『……』

『おやつ、食べるか?……って、なんだなんだ!』

 

 最後にとことん甘やかしてやろうとする俺に、くつしたが俺の顔をペロペロと舐めてきた。どうやら、俺は気付かぬうちに泣いていたらしい。

 

『うぅぅぅっ』

 

 まるで、こちらの気持ちが分かっているかのように振る舞うくつしたの姿に、最後の夜。とうとう俺は声を上げて泣いた。

 

『あぁぁぁ~っ!ぐずじだぁっ……!ざみじぃぃっ』

『……』

『いがないでぇぇ』

 

 いや、鳴いたのかもしれない。

 だって、俺は前世が狼だから。シーザー達にも狼みたいな奴だって言われたし。そんな俺を、まるで大人みたいな顔をしたくつしたに見つめられ、まるで親が我が子をあやすように舐めてもらいながら、俺は眠りについた。

 

『……くつした』

 

 その日、俺は夢を見た。くつしたと楽しく一緒に森を走り回る、そりゃあもう楽しい夢だった。

 

——–イアン!

——–おいで!くつした!

 

 でも、おかしな事に、俺が狼になっているのではなく、くつしたが人間になっているヘンテコな夢だった。人間のくつしたが、嬉しそうに俺の元に駆け寄ってくる。駆け寄ってきたかと思ったら、いつもの勢いできつく抱きしめられていた。

 

『――っ!』

 

 目が覚めると、目の前に居たくつしたは、もちろん狼の姿だった。いつも通り「ぼく、なんにも分かりません」みたいな顔でこちらを見ている。ただ、ともかく俺を見て楽しそうに笑っている。その姿がともかく可愛くて、愛おしくて。

 

『一年間、ありがとう。くつした』

『くぅ』

 

 俺はくつしたにキスをした。

 来世こそは、絶対に狼に生まれたいと、願いを込めながら。

 

 

◇◆◇

 

「……はぁ、なんか。疲れた」

 

 予定通りの報酬を貰い、やっと家に帰ってきた。

 

「静かだな」

 

 家の戸を開けた瞬間、シンと広がる静寂。いつもなら、家に帰ると元気な鳴き声で出迎えてくれていた存在は、もうどこにも居ない。あるのは空っぽの大きなゲージと、空っぽのごはん入れ。少しだけ水の残った水飲み。ゲージなんて、最後はもう殆ど使っていなかったけれど、どうにも片付けるのが面倒でずっとそのままにしていた。

 

「っはぁ」

 

 春の暖かい陽気の筈なのに妙に肌寒く感じる。

 屋敷を出た直後は、貰った金で新しい仔狼でも飼ってやろうとヤケクソな事を考えていたのに、まったくそんな気になれない。

 

「つかれた」

 

 何をする気も起きず、そのまま体を引きずるようにベッドに向かった。今朝までくつしたと一緒に寝ていたので、ちょっとでもくつしたの匂いでもすればいいな、なんて思いながら。

 

「ん?なんだ、これ」

 

 しかし、ベッドに横たわった瞬間、俺は思わず眉を潜めた。今朝は気付かなかったが、ベッドの中に真っ白い毛が落ちている。

 

「これは……」

 

 この色は俺の髪の毛じゃない。俺は前世も現世も黒髪だ。もちろん、今朝までここで寝ていたくつしたのでもない。

 

「わぁ」

 

 窓から差し込む太陽の光に照らされると、白かと思っていた毛がキラキラと光り始めた。単なる一本の毛にも関わらず、ソレはなんとも言えない神聖さを醸し出している。

 俺のでも、ましてやくつしたのモノでもない白銀の毛。でも、ただ、俺は一度だけコレを見た事がある。

 

——–イアンが教えたのに!くつしたに、イアンが大好きって!

「あの時の、くつしたか」

 

 あの日の夜、一度だけ見た白銀の長毛を携えた巨大な狼。神獣の姿の〝くつした〟。あれ以降、一度だって見た事はなかったが、俺は絶対に忘れなかった。もしかすると、俺が寝た後だけあの姿になっていたのかもしれない。

 

「くつした、お前……なに考えてたんだよ」

 

 突然、お喋りをしなくなった理由も、神獣の姿から〝くつした〟の姿に変化していた理由も。俺には何もかも分からない。そして、その答えを知る事は、きっと永遠に来ないのだろう。

 

「でも、コレ。狼の毛にしてはちょっと短くないか?」

 

 あの時見た神獣姿の毛にしては、やけに短い。これでは、まるで普通に俺の髪の毛が抜けたのと大差ない長さではないか。あと、少し縮れている気がする。

 

「え、まさか……陰毛?」

 

 いや、何を言ってるんだ。

 狼に陰毛もクソもないだろう。そんな人間じゃあるまいし。そう、俺がキラキラと輝く短い縮れ毛に首を傾げた時だった。

 

 突然、家の扉が開いた。

 

「イアン!」

「っ!」