21:くつしたの名前は、くつした。

 

 

「よし、くつした、散歩に行こうか!」

「わふっ!」

 

 くつしたの名前はくつした。

 「くつした」と、くつしたの人間が呼ぶから俺はくつしたという。

 くつしたはくつしたの人間がとても好きだ。最初に見た時から、好きだった。まだ母の乳が一番だった頃。くつしたの人間はくつしたの所にやって来た。

 

「くぅぅっ、かわいいなぁっ!」

 

 たくさんの兄弟たちに埋もれながら必死に乳を飲んでいたら、初めて聞く声が聞こえた。何を言っているかは分からなかったが、とても嬉しい事を言われた事は分かった。

 

「先生、ほんとに貰っていいの?」

「何回同じ事を言うんだい。いいって言ったろ」

 

 その時、まだまだ母の乳の事しか考えられなかったくつしたの世界に、くつしたの人間が加わった。まだ目もあんまり見えていなかったが、不思議とくつしたの人間の事は分かった。

 匂いはすぐに覚えた。だって、すごく良い匂いだったから。

 

「くぅ、くぅ」

「……あぁ。あぁっ。こっちに来た」

「ほら、言ったろ?アンタを待ってる子が居るって」

「ほんと、だったんだ」

 

 そう、くつしたは待ってた。くつしたの人間を。よくわからないけれど、くつした、待ってた。

 

「しっかり、最後まで責任持って面倒を見なよ」

「はいっ!……って、あれ。この子後ろ足だけ、毛が白い。なんか、くつしたはいてるみたいだな」

「くぅ」

 

 こうして、くつしたはくつしたになった。

 

「おいで、くつした!」

「わふっ!」

 

 それから、くつしたは、くつしたの人間とずっと一緒だった。母や兄弟とは引き離されたが、そんなことはちっとも気にならなかった。

 

「くつした、おやつはさっきあげただろ?そんな顔してもダメ」

「……」

「ダメ。絶対にダメです」

「……」

 

 くつしたは、くつしたの人間が大好きだった。

 もちろん、くつしたの人間も、くつしたの事が大好きだった。

 

「もーー、そうやってすぐベロ出して。可愛いなぁっ、くつしたは!良い子良い子!」

 

 くつしたは、くつしたの人間と一緒に居られて、とても楽しかった。毎日、毎日「あたたかい」と「おいしい」と「いいにおい」がいっぱい。なにより、くつしたの人間は、いつもくつしたを見てくれた。

 

「ん?くつした。どうした?」

「わふっ!」

 

 そうやって、外を歩いている時に目が合うのが、くつしたにとってはとても「うれしい」事だった。

 

 そんなある日の事だ。

 

「くぅ、くぅ」

「はいはい、よしよしくつした」

 

 いつもはくつしたが鳴くと、すぐにこちらを見てくれるのに、その日はちっとも見てくれなかった。手だけで頭を撫でられて、くつしたはとても不満だった。くつしたの人間はいつも手に四角いのを持っていた。

 

「ぐぅぅぅ」

「ほら、唸らない」

 

 散歩に出てから、くつしたの人間は、ずっとソレを見ていた。それがとても腹が立って仕方なくて、普段、くつしたは吠えたりしないのに、その日は吠えた。吠えるとおやつを貰えなくなるし、くつしたの人間がつまらない事をするから。

 

 だから、その日ばかりは吠えた。吠えてやった!

 

「わんわんっ!」

「はいはい、良い子良い子」

 

 見て、こっち見て!

 そう、何度も何度も言っているのにくつしたの人間は最後までこっちを見なかった。くつしたの言葉は、くつしたの人間には届かずに終わった。

 

「わんっ!」

 

 そのすぐあと、くつしたの好きな匂いは〝血〟の匂いに染まった。

 

「くつ、した……」

「靴下?靴下が苦しいんですか!?脱がせますね!」

「……ち、が」

 

 くつしたの人間は血を流していた。たくさんたくさん流していた。その中で、くつしたの名前を呼んだ。名前を呼ばれたら、くつしたは行かなければならない。きっと、くつしたの人間は「おいで、くつした」と言っているのだ。

 でも、行けなかった。

 

「わふっ!わんっ!」

「今は近寄ったらダメだ!」

 

 くつしたの人間が呼んでいるのに、くつしたはくつしたの人間じゃない人間に捕まって近寄れなかった。

 

「わふっ!わんっ!」

 

 そしたら、くつしたの人間は、どこにもいなくなっていた。

 

 

◇◆◇

 

 くつしたは、母の居た家に帰された。

 くつしたの家は、もうここじゃないのに。どうして、くつしたはこんな所に居るのだろう。

 

 わからない。わからない。

 くつしたの人間は、どこ。

 

「ふんふんふん」

 

 もちろん、そこにもくつしたの人間はいなかった。匂いもしない。どこにもいない。くつしたの人間はどこに行ったのか。

 

「最後まで面倒見るように……言ったのに」

 

 くつしたを撫でる、くつしたの人間じゃない人間は悲しそうに言った。何を言っているのかは分からなかったが、くつしたと同じ気持ちだという事は分かった。

 

「くぅん」

 

 くつしたは、くつしたの人間に会いたかった。

 

◇◆◇

 

 くつしたは母の居る家を抜け出した。

 抜け出す時、くつしたの人間が「先生」と言っていた人間と目が合ったが、何も言われなかった。だから、くつしたの人間がここを出る時言っていたのを真似して「いままでありがとうございました」と心の中で言った。

 

 どうしてもくつしたはくつしたの人間に会いたかった。だから、探しに行く事にした。

 

「わふっ!」

 

 最初に向かったのは、くつしたの人間と一緒に暮らしていた家だった。でも、家の前に行ったら、そこからはもう別の匂いがした。

 だから、怖くて近づけなかった。あそこには、もうくつしたの人間は居ない。

 

 次に向かったのは、くつしたの人間と、毎日一緒に歩いていた所。毎日毎日たくさん歩いた。たくさん遊んだ。途中、くつしたの人間と歩いているような気がして、顔を上げたが、やっぱり隣には誰も居なかった。

 

 最後に向かったのは、くつしたの人間と最後に別れた場所だった。そこにも、くつしたの人間はどこにも居なかった。でも、少し嬉しい事があった。

 

「わふっ!」

 

 そこには、くつしたの人間の匂いが残っていた。うっすらとだけど、分かる。久々のくつしたの人間の匂いに嬉しくて、くつしたはそこで丸くなった。ここで、くつしたの人間は最後にくつしたの名前を呼んだ。

 もしかすると、ここで待っていたらまた会えるかもしれない。だから、くつしたは、ずーっとずっとそこで待った。

 

 でも、結局くつしたはくつしたの人間とは会えなかった。

 

 くつしたのお話は、一旦そこでおしまい。